開戦!フィリピン攻撃開始!!
昭和16年(1941年)12月8日午前零時。ついに日米は戦争状態に入った。
日本と安全保障条約を締結していた満州国も自動的に参戦することとなる。
この時点で、戦争はヨーロッパのみだった。独逸第三帝国はバトル・オブ・ブリテンの敗退後は積極的な行動を控えていたが、今年に入り再びその動きを活発化させ、英本土への空襲を再開させていた。また、北アフリカでは名将ロンメル将軍率いる機械化師団が破竹の勢いで進撃を行っていた。
しかし、北の共産主義大国ソ連、資本主義大国アメリカ、そして世界3位の海軍力を誇る東洋の国日本のいずれもがこの戦争には参加していなかった。
独逸は幾度も日本への同盟締結を促したが、結局日本がその提案を飲むことはなかった。ナチス政権を危険視していたからだ。
また、英国もアメリカのドイツに対する参戦を望んでいたが、結局他国の戦争には介入しないというルーズベルト大統領の方針により、武器援助に留めていた。
だが、アメリカは戦争を望んでいたと言われている。ニューディール政策の行き詰まりから、なんとしても大きな消費が見込める何かが必要であった。
それが戦争であった。もっとも、ルーズベルトは本当は独逸との戦争を行いたかったようだが、日本との単独戦争という形になった。
もっとも、米国は半年後、大西洋で駆逐艦がUボートに沈められたとして対独宣戦布告もすることとなるが。
しかし、ここで米国には誤算があった。それは日本軍の実力を明らかに見誤っていたことである。そしてそれはまた、満州国に対しても言えることだった。
開戦と同時に、まず行動に出たのは日本軍であった。
台湾から飛び立った零戦と陸攻の大編隊がフィリピンへと向けて出撃したのだ。
零戦だけで120機。陸攻は180機という大編隊であった。また、陸軍からも「隼」(零戦の陸軍仕様)54機、重爆90機が参加した。合計444機の大編隊であった。
この時期の零戦は、ノモンハン戦の戦訓から防弾や無線機、エンジンを改修した22型であった。エンジンは初期型の2割増の出力を誇る「栄」21型。無線機は改良によって感度を高め、重量を減らした零式無線機。主武装はベルト式、長銃身の20mm99式2号機関砲であった。
この零戦22型は初めての本格的陸海軍共用機であった。そしてこの機体は台湾南部の基地とフィリピンを往復できるだけの航続能力があった。
もっとも、実際は若干不足しており、万が一に備えて海軍は台湾海峡に竣工したばかりである軽空母の「祥鳳」を待機させ、また陸軍は徴用船や途中の小島に救助部隊を待機させていた。
一方、米軍側も少し遅れて台湾への攻撃を開始した。しかし、この時点でまともに台湾へ渡洋攻撃ができる重爆撃機のB17は合計40機のみであった。その他には中型爆撃機のB25やB18もいたが、これらは船団攻撃のために待機した。また、配備されたばかりのP38は練度不足に加えて、初期故障が頻発したため出撃を見合わせた。
この開戦1日目の空の戦いは、日本側に軍配が上がった。
日本側は来襲したB17に対して、恒春陸軍基地に試験配備されていた重戦闘機の「しょうき」12機と、複座戦闘機の「屠龍」16機、それに加えて台南基地所属の海軍局地戦闘機「迅雷」12機や旧式戦闘機42機で迎撃。結果は一部の基地に打撃を被り、3機が撃墜されたもののB17を11機撃墜し、3機を修理不能な程損傷させた。
一方の日本側はクラークフィールド、イバ等の在比米軍の主要航空基地を攻撃。迎撃に出撃した米軍側のP36、P40戦闘機200機あまりと交戦し、戦闘機29(内空戦によるもの15)、陸攻・重爆17機を失いながらも撃墜89、地上撃破234機という大打撃を与えた。
また、キャビテ海軍基地を攻撃した部隊は潜水艦2隻に小艦艇数隻を撃破、さらには200本以上の魚雷を爆砕した。
これによって、米軍は慢性的な魚雷の不足に悩むこととなる。こうして、この日の内に日本軍はフィリピン方面における絶対優勢を確保した。
一方、義勇艦隊もこの日初戦闘を行った。早朝、米軍の哨戒機、PBYカタリナの接触を受けた。
そして昼前、「白虎」の哨戒レーダーが敵を捉えた。
「敵編隊。艦隊11時方向より接近。数約30.距離約50.」
レーダー室からの報告が、旗艦「海龍」の座乗の木村中将に伝えられた。
彼は一言こう言った。
「迎撃戦闘機隊、発進せよ!!」
ショウキの字が中途半端であることをお詫びします。変換しても出なかったので。申し訳ない。