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竣工

 昭和6年(1931年)初頭。この時期満洲は様々な軍閥や馬賊が存在している混沌とした地域であった。一応張学良率いる東北軍閥が最大の勢力を誇り、さらにはこの数年前に中華民国に帰順する易織を行なっていた。


 その一角である遼東半島のある関東州の租借権を、日露戦争に勝利した日本は保有していたが、それと同時に満洲を走る南満洲鉄道の経営権も保有していた。


 その満鉄沿線の鉄道付属地の支配権も日本の物で、徴税する権利さえあった。


 しかし、それさえも所詮は広大な満州に置いてはほんの一握りの土地に過ぎなかった。


 満州の護りを担うとされる日本の関東軍は、元々この満鉄線附属地や関東州の警備、保護のために設置された部隊である。


 この時期、その関東州や満鉄租借地を通して少数ではあったが満洲各地には日本人が入り始めていた。


 しかし、父親の張作霖を日本軍に爆殺された息子の張学良を始めとする抗日派の宣伝もあって、日増しに満洲での排日運動が高まっていた。これに対し、日本政府はあくまで平和外交路線をとった。


 すなわち軍事的な干渉は一切行なわず、外交のみでこの事態を切り抜けようとしたわけだ。


 だが、これも40年後なら世界に胸をはれる政策であっただろうが、この力こそが一番という考えの時代に、それはあまりにも弱腰に見える政策であった。


 現に張学良は日本政府の弱腰の政策を批判している。それどころか、彼は日本がかつて清と結んだ条約を無視し、満鉄に対抗した新しい鉄道の建設さえ開始していた。


 また中国国内でのナショナリズムの高揚と併せて、排日・抗日の機運さえ高まる始末であった。


 これら排日・抗日運動に対し、満洲在留日本人の中には、関東軍の出動を願う者もいたが、直接日本の権益を侵されない限り、それは土台無理な話だった。


 そんな中、関東州の大連と旅順を基点とする大亜細亜造船も自衛策を打ち出した。造船所や工場に対する抗日派テロに備えて、自警団の組織を行ったのだ。


 当初、関東軍はこれに難色を示した。ただでさえ、外国人を多く雇う企業である。その外国人に銃を持たせるのには、不安があったからだ。しかし、白根社長は粘り強く交渉を続け、条件付ながら関東軍や各省庁に承諾させた。


 条件とは、300名以内であること。小銃以下の武器のみ使用を認めること。非常時には関東軍の監督下に入ること。そして行動記録を逐一関東軍を始めとする各省庁に提出することであった。


 白根にしてみれば、これまでも会社に外国人が多数働いていることで、憲兵がスパイ容疑で社員をしょっ引こうとした所を未然に阻止してきただけに、この交渉にも自信があったようだ。


 しかし、実はこれには裏があった。実は今回関東軍の中にこの妥協案を飲ませようと工作を行った者がいたのだ。


 その人物こそ、後に満州事変の際活躍する関東軍参謀の石原莞爾大佐であった。


 実は石原大佐は以前にも大亜細亜造船を幾度か訪問しており、他民族を受け入れながら健全経営に成功している点から、特級の優良企業と褒め称えていた。


 その彼は、この時期白根社長とも友好を深めていた。これが後に大いに歴史に影響することとなるのだが、この時点でそれを知る者はいなかった。


 そんな中、白根社長の野望とも言うべき駆逐艦の建造も順調に進んでいた。北上技師はこの駆逐艦が実験艦的な色合いが濃いことをいい事に、様々な工夫をこらしていた。その1つに電気溶接の多用があった。


 電気溶接はこの時期、まだまだ未熟な技術であった。鋲を使った建造に比べ、重量や予算を軽減できるという点があったが、強度に不安が残っていたのだ。しかし昭和4年の独逸装甲艦はこの電気溶接で完成したし、また日本海軍でも使用を開始していた。


 北上はこの技術を大胆に導入した。金に糸目をつけず、海外から技術や技術者の招聘、工作機械の買い込みを行い、最終的に予測された強度不足は起きず、重量軽減に成功することとなる。


 また彼は一部艦上構造物のブロック化も行った。


 これは幾つかの部品をあらかじめ地上で作り、それを積み木よろしく艤装段階で組み立てる工法である。今回は艦橋のみであったが、こちらの試みも成功し、後に船自体のブロック工法化に繋がることとなる。


 そして昭和6年2月に建造を開始した2隻は、4月中旬に進水した。その進水式は小規模な物であったが、石原大佐もお忍びで参加したという。


 ちなみに当局に出した書類には、近海航路用小型貨物船と書いて誤魔化した。もちろん、見る者が見ればどう見ても駆逐艦なのだが、この辺りは石原が手を回してくれたらしい。


 そして2隻は同年7月1日、そろって竣工した。船名(まだ艦ではない)は「流星丸」と「彗星丸」であった。


 2隻は乗員が配属されると早速、渤海で訓練に入った。この時点では、未だ武装は施されておらず、後に弾薬庫や兵員室となるスペースも貨物倉や郵便室扱いであった。


 しかし、2隻がこの仮の姿を脱ぎ捨てて戦闘行動に入るまでに残された時間は短かった。

 


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