新内閣
昭和16年に入ると、日米の外交関係悪化は目に見える物になった。
その要因となったのが、ハワイにおけるエヴァ海兵隊飛行場へのテロ攻撃であった。
6月1日早朝、何者かがエヴァ海兵隊飛行場に侵入し、駐機されていた戦闘機や偵察機5機を破壊した。これに対し、飛行場の海兵隊員が応戦し。結局犯人グループは全滅。海兵隊にも3人の死者が出た。
事件数日後の記者会見において、海兵隊当局は犯人が全員日系人であり、しかもこの内の一人の自宅から、日本海軍と内通する文書を発見したと発表された。
これによって、アメリカ国内における対日感情は一気に悪化した。西海岸やハワイでは日系人やアジア系住民に対する暴行や襲撃事件が多発した。新聞もそれらの行為に賛同する形の記事を書きたて、それがさらに反日感情を増幅させた。
アメリカ政府は、日本政府に謝罪と損害賠償を請求したが、もちろん日本政府も海軍も見に覚えの無い事に謝罪も損害賠償もするはずがない。
戦後の調査では、この事件は失業していた日系人たちを軍の工作員が唆しやらせたと判明している。
しかし、それがわかったのはこの事件から実に4年後の事である。
アメリカ政府は日本政府が謝罪、損害賠償を行うまで、在米資産の凍結と石油ならびにくず鉄の輸出の全面禁止を打ち出した。
これらアメリカ政府の政策に対し、日本でもアメリカへの国民感情が一気に悪化した。
「許すまじアメリカ!!」
「野蛮大国アメリカ!!」
こういった言葉が市中にあふれ返った。
もっとも、日本政府とて馬鹿ではない。これがアメリカからの挑発行為であることをしっかり見抜いていた。
この時の首相は公家出身の近衛文麿であったが、このアメリカとの外交関係に神経をすり減らし、体調を崩したため7月1日を持って総辞職し、後任には海軍大臣であった米内光政が親補された。
後任海軍大臣には掘悌吉海軍中将が大将に昇進の上就き、陸軍大臣は下村定大将が就いた。
この内閣は、実質上の戦争準備内閣であった。ただし、米内、堀、そして下村も対米参戦反対派だった。このような内閣が簡単に組閣できたのには理由があった。
ところで、実は昭和11年2月に陸軍皇道派がクーデターを企てる事件が起きた。幸いクーデターは未遂で終わり、容疑者は全員逮捕されたが、この後軍の中央部を統制派と呼ばれる派閥が牛耳った。
そしてその統制派が暴走したのが、昭和12年7月7日の北京事件であった。
これは北京近郊租界駐屯の日本軍が、内閣の中国内戦不介入方針を無視して、独断で戦闘に参加した事件である。首謀者は辻陸軍少佐であった。
ところが、戦場での混乱から日本軍部隊は中国国民党ならびに共産党両軍から攻撃され、参加した連隊がほぼ全滅に近い損害を被った。辻少佐も戦死した。
この後、日本は満州ならびに沿岸地域租界外の中国駐屯部隊を全て撤兵させた。また、辻少佐の暴走を食い止められなかった牟田口大佐も辞任の上予備役編入に追い込まれた。
もちろん、軍内部だけの問題ではすまなかった。昭和天皇も独断の上で動き、加えて大損害の発生に大いにお怒りとなり、結局これが契機となって、統帥権が内閣に委譲されるという、明治以来の大改革へと繋がった。
これは後々に、軍部の独走を食い止める有効な手段となる。
また戦後には現役武官の内閣への参入も禁止されることとなる。
とにかく、米内内閣組閣の影には、このような動きがあった。
一方で、満州国もこの日米の動きに注視していた。
日本と満州は日満安全保障条約を結んでおり、どちらかが侵略を受けた場合は支援するという規約があった。
万が一、日本がアメリカから宣戦布告を受けた場合、満州国は日本側に立ってアメリカと戦う必要があった。
そして1941年8月。満州国の首都新京に軍ならびに政府要人が集まり、極秘裏に対米戦争を想定した重要会議が行われた。
首相や陸軍、空軍大臣。在満日本軍総司令官。そして、義勇艦隊総司令官の白根中将の姿もあった。
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