日米緊張!!
昭和15年。日本とアメリカの外交関係は日増しに悪くなっていた。
後の歴史家の中には、「ルーズベルト政権はニューディール政策の失敗による国内経済の冷え込みを、戦争によって打開しようとした。その目標となった日本との外交関係を、故意に悪くしたのだ。」と唱える者もいた。
実際、ルーズベルトの意図が本当にそこにあったかは別としても、日本に対するアメリカの貿易政策では、関税面等でかなりの強硬策に出ていた。
しかし、日本としては国力が30倍のアメリカに戦争を吹っかける等、無謀以外の何者でもない。一時期、日本では精神力によって何とでもなるという考えが、軍を中心に出たが、それも昭和11年のクーデターの防止や、二度に渡る大陸への派兵で鳴りを潜めた。
日本は外務省を中心にアメリカとの交渉も幾度も重ね、戦争回避に奔走した。だが、その努力が水泡に帰してしまう事態が発生した。
この年の9月。フランスのドイツへの降伏に便乗する形で、タイ王国が突如としてフランスに宣戦布告し、仏印(後のベトナム)に侵攻した。
タイ王国は、亜細亜でも数少ない独立国で、軍の近代化も推し進めていた。
この時期には、日本との友好関係をより深めており、日本から95式軽戦車50両に、97式戦闘機30機。そして97式重爆撃機20機を購入するなどしていた。これら新兵器を使ってタイ国は仏印に攻撃を仕掛けた。
もともと植民地軍という二線級の部隊であり、しかも新型兵器をほとんど持ち合わせていなかった仏印軍は、勇猛果敢に戦うタイ軍に各所で敗北した。
しかし、フランス軍は最終的な勝利は自分たちにあると確信していた。
この時、サイゴンにはフランス極東艦隊が駐屯していた。その戦力は重巡「コルベール」、軽巡「ラモット・ピケ」、水雷艇6隻からなり、これらの総合戦力はタイ王国海軍を圧倒できると仏印総督府は見ていた。
確かに、この時点でタイ王国海軍が保有していた最有力艦艇は、日本に発注した海防艦の「トンブリ」で、20cm砲を4門と武装はそれなりであったが、速力や防御力は著しく劣っており、充分2隻の巡洋艦で対処できる敵と見られていた。
フランス海軍は極東艦隊によりタイ海軍を殲滅し制海権を確保。そのままバンコクへの直接攻撃を行う、もしくはそれを交渉に使うという計画を立てていた。
陸軍や空軍はタイ軍の前に次々と敗れ去ったが、海軍なら負けないという自負がフランス軍にはあったのだ。
タイの宣戦布告から4日後、極東艦隊はサイゴンを出港。一路バンコクを目指し南下した。
しかし、この動きは既に察知されていて、極東艦隊は予想より早くタイ艦隊と接触し、戦闘状態に入った。
フランス艦隊は先頭を進んでいた2隻の海防艦に集中攻撃を加え、「トンブリ」を大破後自沈させ、もう1隻にも戦線離脱させるほどの打撃を与えた。
しかし、その2隻に後続する4隻の駆逐艦が一斉に突撃してきた。実はこの4隻は亜細亜造船に発注された準「流星」級駆逐艦であった。「流星」と違い、対空機関砲は20mm機関砲2門のみであったが、12,7cm砲は3門と対艦攻撃能力が強化されていた。
フランス海軍は突撃してきたこの4隻を攻撃したが、緩慢な動きしかしかった「トンブリ」と違い、4隻は見事な操艦を行い砲弾をかわした。
「どうなっているのだ!?」
フランス艦隊の誰もが、その動きを信じられない眼差しで見つめた。
実は4隻には日本海軍の軍事顧問が乗り合わせていたのだ。このタイ仏戦争では、日本はタイ軍に多数の軍事顧問を送り、兵器の扱いから戦場での指導まで行っている。この駆逐艦もそうだった。しかも派遣されたのは長年駆逐艦艦長を務めたベテラン車引きで、その技をタイ海軍の将兵にみっちり教え込んでいた。その成果がこれであった。
彼らは教えを忠実に守り、フランス艦隊に切り込んだ。
本来これを阻止すべき6隻の水雷艇は、タイ海軍の水雷艇と交戦しており、とても2隻の重巡を救援している余裕はなかった。
4隻の駆逐艦は12,7cm砲を乱射しつつ魚雷の必中距離にまで迫った。
さすがに近距離に接近すると主砲以外の攻撃も受けるので、4隻も打撃を負ったが、いずれも致命傷とはならず、逆に4隻は16本の魚雷を発射した。
距離3000という近距離で、しかも高性能の61cm空気魚雷で攻撃を受けたフランス巡洋艦の末路は哀れであった。
「コールベル」は3本を船体中央部に喰らって、真っ二つに割れて轟沈した。「ラモット・ピケ」は魚雷の発見が早く殆どを交わしたが、1本が推進器と舵を破壊し航行不能となった。タイ海軍に包囲された彼女には、降伏以外の選択肢はなかった。
この海戦でタイ海軍は海防艦1隻、水雷艇3隻を失ったが、巡洋艦1隻、水雷艇2隻撃沈。巡洋艦1隻拿捕という戦果を上げ、仏印総督府の目論見を粉々に打ち砕いた。
結局、タイ仏戦争は、仏印総督府がタイ政府側の和平提案を全て飲むという、タイ王国の勝利で終わった。
しかし、ここで日本にとっては予想外の事態が起きてしまった。アメリカの新聞が、フランス軍に対し、日本軍がタイ軍とともに戦ったと報じたのだ。
この記事は、日本の軍事顧問がタイ海軍の艦艇から降りるところ写した写真付きで載ってしまった。
日本政府は、あくまで少数の軍事顧問を派遣したのみで、戦争中は観戦者に徹したと発表したが、アメリカはその声明を無視し、「民主主義への挑戦!」と日本を激しく非難した。そして、日本へのくず鉄の輸出を禁止したのであった。
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