ノモンハン戦車戦
日本戦車隊が攻撃を控えたわけ。それは先に戦っていた部隊からの報告にあった。
新型戦車の部隊が着く以前に、日満は対歩兵戦、対陣地戦においては旧式戦車を投入し戦っていた。
歩兵を随伴させることで、最初はそれなりの効果があった。しかし、積極的に敵陣地に突入した車両が罠にはまった。
ソ連軍は自軍陣地に、ピアノ線で作った罠を仕掛けていたのだ。
日満の戦車兵は。
「そんな物が役に立つか!」
と馬鹿にしていたが、実際これがキャタピラに絡まって身動きが取れなくなった所を撃破される車両が相次いだ。さらに、まもなくソ連側が有力なT26やBT7型戦車を戦線に投入した。
これ以後、日満の戦車は積極的な攻撃を控えた。
ソ連側が積極攻撃に出た際、全力で迎え撃つ方針に変えたのだ。さらに、これは偶然にも航空戦力が拡充時期と一致した。
一方のソ連軍は時間がなかった。欧州では独逸がポーランドに侵攻する寸前であったし、フィンランドとの戦争も計画されていたため、侵攻を急ぐ必要があった。
度重なる日本軍の補給線攻撃で物資は不足していたが、なんとか一回戦分ギリギリの量が揃ったところで攻撃することを、ソ連軍司令のジュ−コフは決断した。
そして、事件勃発からちょうど3ヶ月目からのその日、ついにソ連軍は総攻撃に打って出た。
戦車、重砲、歩兵、航空機、その全てを出しての総力戦であった。戦力的には日本側の3倍近いもので、一気に日満防衛線を崩壊させるのが狙いであった。
しかし、この内航空機は日本側と拮抗するギリギリの数であったが、性能的に劣る機体もかなりあった。そのため、航空戦における優位は日本側にたった。戦車戦では日ソ最新鋭戦車の攻防となった。
戦車数ではソ連側が勝っていた。しかし、日本の新型98式中戦車は長砲身47mm砲と、溶接30mm厚の装甲で、ソ連軍戦車に勝る性能を持っていた。それに、日本側にはもう一つの切り札があった。オープントップの砲塔に90式野砲を載せた、試製98式自走砲である。
この車両はこの戦闘に2両が投入された。オープントップであったが正面の装甲は50mmであり、また75mm野砲はソ連軍戦車の全てを撃破できた。
ただし、今回の戦闘では初期故障が目立ち、またオープントップが災いして、1両が敵歩兵の手榴弾攻撃で撃破された。それでも多数の敵車両を撃破したため、その有効性が明らかになった。
また、ソ連軍側は上空支援が皆無であったのに対し、日本側は少数ではあるが、海軍の97艦攻や96艦爆、96陸攻が支援についた。
陸戦においてもエア・カバーがあるかないかでは、天と地ほどの差がでる。
当初は互角に戦っていたソ連戦車は、それら日満連合軍の優位に押されていった。
しかも、この時ソ連側は致命的な欠点を抱えていた。相次ぐ日本軍の補給線攻撃で、ギリギリの燃料弾薬しか持ち合わせていなかったのだ。そのため、戦闘が長引いた地域では燃料や弾薬が切れる車両が続出した。
この戦いで日満側に捕獲されたソ連軍装甲車両は実に79両に上った。ちなみに、この内56両が修理後満州陸軍に編入されている。
また、今回の戦闘では、ソ連軍自慢の重砲も弾薬不足で、これまでのように盛大に砲撃が出来ず、攻撃の徹底差を欠いてしまった。
しかし、その兵力に物を言わせてソ連軍は遮二無二進撃した。日本軍の防衛線を突破した部隊さえあった。しかし、それら部隊も結局は食料や弾薬等が尽きて孤立し、降伏することとなった。
結局、ソ連軍が満を持して行った総攻撃は、日満軍にそれなりの出血を強いたものの、最終目標達成には至らなかった。
ソ連軍司令ジュ−コフとしては、この時期日本側の後方補給線への爆撃が止んでいたため、今一度物資を補給し戦力を建て直し、攻撃したかった。だが、まもなくナチス・独逸がポーランドに侵攻し、さらにフィンランド攻略の為に航空機や戦車が必要となったため、ジュ−コフの願いは叶わなかった。
彼は後にノモンハンでの失敗から閑職に回されるが、欧州戦線でのソ連軍の苦境から、欧州へ呼び戻されることとなる。
一方の日満軍はソ連軍による総攻撃をなんとか凌ぎきり、その後の休戦協定でソ連に自国の提案を呑ますことに成功する。しかし、今回の戦いで日満軍も相応の打撃を被った。特に、日本陸軍が自信を持って投入した戦車隊の損害も意外に多く、その後の軍備計画に影響を与えることになる。
また、陸海軍とも戦闘機や爆撃機の計画に影響が出た。それは新型局地戦闘機や、大型爆撃機の開発という形になる。
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なお、ソ連軍がノモンハンでピアノ線を使い、日本戦車を罠にかけたのは事実です。