海軍航空隊出撃!
ノモンハン事件の戦闘は、当初航空戦は日本側有利、陸上戦はソ連側有利で展開した。
日本側が航空戦で有利となったのは、投入された陸軍の97式戦闘機の性能もさることながら、パイロットの多くが満中戦争で義勇軍として派遣された者が数多く送り込まれていたからだ。
一方のソ連軍は、この時期スターリンによる相次ぐ粛清でパイロットを初め熟練の兵士が不足していたため、数で有利であっても日本側戦闘機に一方的に撃墜されるという事態が続発した。
これはこの直後に起きたソフィン戦争でも同様であった。ソ連軍は数で有利に立ったに関わらず、フィンランド軍に苦戦している。
ただし、陸上戦ではソ連軍は日本、満州側を上回る数の兵力、砲、戦車を投入したため、日満側に対し有利に立った。
ソ連側の多数の重砲による一斉射撃は日満側兵士の恐怖を大いに誘った。また、戦車や多数の装甲車による攻撃も、日満側兵士を驚かせた。
もちろん日満陸軍も揃えられるだけの重砲を投入したが、数はソ連側に比べ圧倒的に劣り、加えて日本側陣地がソ連側陣地より低い場所にあり、丸見えであったため、日満側は大苦戦した。
この状況に変化が生じるのは、海軍航空隊の参加が始まってからである。
海軍航空隊はノモンハンに到着すると、航続距離の長い96式陸攻を使っての敵兵站線攻撃を開始した。
シベリア鉄道や補給基地、後方の飛行場。さらには物資輸送中のトラック部隊も襲撃を行った。これによって、ソ連側は慢性的な物資の不足に陥った。特に、食料や飲料水の欠乏はその行動を大きく制限した。
ソ連軍お得意である多数の兵力を投入したことが逆に仇となった。
もちろん、燃料や弾薬も不足した。砲や戦車があっても、撃つ弾や動かすための燃料が不足してしまった。これでは戦えない。終いには戦場でこれら装備が放棄され、日満側に鹵獲されてしまうケースまであった。
当初96陸攻の爆撃は夜間に行っていたため、ソ連側に対し不意を付くこととなった。しかし、さすがにソ連側も中盤になるとこれに気付き、96陸攻を目の敵にするようになる。逆襲とばかりに、陸攻が発進する夕方に、高速爆撃機SB2を使って飛行場を襲うようになった。
また、ソ連軍はSB2を改造した夜間戦闘機をも投入し、96陸攻の夜間遠距離爆撃を一時的に中止するところまで追い込んだ。
これによって、海軍はノモンハン事件終盤には、まだ試作段階であった零式艦上戦闘機を30機投入し、爆撃を昼間強襲攻撃に変更した。
この零戦の投入は絶大で、12機で27機のソ連軍戦闘機を全滅させるという輝かしい戦果をも打ち立てた。
ただし、この戦闘の最中にソ連軍戦闘機を追って急降下した零戦が空中分解したり、わずかな被弾で発火したりするということもあり、これらは貴重な戦訓となり、改良型の開発を促進する事になる。
また、SB2の高速奇襲爆撃に手を焼いた陸海軍は新型迎撃戦闘機の開発を急ぐことともなる。
この他にも、海軍は97式艦攻や零戦と同じくまだ試作段階の99艦爆を投入している。97艦攻の水平爆撃や、99艦爆の急降下精密爆撃は、そのパイロットの技量と共に、ソ連軍を苦しめた。
陸軍は航空戦当初こそ活躍したが、97式戦闘機以外の新型機の投入の積極性を欠いた。新型の97重爆や99双軽、99襲撃機が投入されたのは本当に終盤以降であった。それでも、海軍側が長距離爆撃や零戦の華々しい活躍を極力秘匿したため、脚光を浴びたのは篠原准尉を始めとする陸軍航空隊の活躍であった。
このノモンハン航空戦で陸海軍共に、パイロットの技量向上に大いに役に立つ。特に先ほどの篠原准尉は、この後の太平洋戦争でさらに撃墜数を伸ばし、最終的に154機の個人撃墜という記録を打ち立てる。
また、海軍航空隊も西沢、坂井、と言った後にラバウルで活躍することとなる下士官搭乗員がこの戦闘で大いに活躍した。
ところで、日本側は多数の新型戦車を投入したが、それら部隊は事件初期に戦線に到着したにも関わらず、積極的な戦闘を手控えていた。
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