勃発!ノモンハン事件
昭和14(1939)年5月。満州国をまたもや戦火が襲った。満蒙国境で満州国軍とモンゴル軍の国境警備部隊の小競り合いからそれは始まった。
当該地区は、国境線が未確定の地域であり、これまでもこうした小規模な衝突は頻発していた。新京の満州国軍総司令部でも、当初は事態を重大視していなかった。
ところが、翌日から大きく状況が変わる。なんとこの小競り合いにソ連が介入し、大規模な部隊を動かし始めたのだ。
これは緊迫するヨーロッパに戦力を集中するため、この時点での亜細亜方面でのソ連の実権を確保しておこうというスターリンの思惑が多分に含まれていた。
満州国軍は直ちに現地部隊の増強と、日本への応援要請を行った。
この時期、満州国はようやく国の経営が軌道に乗り始めていた。インフラや教育、法律、国籍等が定められ、国としての体裁が整いつつあった。
そんな新興国の満州は、義勇海軍の存在により海防は整っていたが、陸軍は頭数こそ揃っていたが、この時ソ連がつぎ込んだ機械化部隊に抗しえる部隊はまだなかった。
唯一の機械化部隊も、日本陸軍払い下げの94式、97式軽装甲車、ヴィッカーズ6t戦車という軽装甲車両にトラックの組み合わせであった。
空軍も、機体こそ97式、95式戦闘機等を備えていたが、パイロットの不足から、ノモンハン戦に投入できるのは40機足らずであった。
日本軍は今回も義勇軍派遣という形で援軍を出した。
陸軍は陸上部隊に加えて、最新鋭の97式戦闘機に97式重爆を投入し、海軍も陸軍には劣るが96式艦戦や96陸攻を派遣した。
これはもはや国境紛争のレベルを越えていたが、実際にはどこの国も宣戦布告をしていないおかしな戦争であった。
日本陸軍は満鉄線を使って部隊を移動させ、なんとかソ連軍の集結と同時に部隊を到着させれた。
今回の日本陸軍の派遣車両には、最新鋭の97式改中戦車があった。
これは前回の満中戦争でその脆さを露呈した97式戦車の改造版であった。車体は溶接方式での製造となり、装甲厚も25mmから35mmに増強された。さらに砲も短砲身57mm砲から長砲身47mm砲に切り替えられた。エンジン出力も強化されている。
ちなみにこの新型戦車は全車満州国製であった。
実は、建国後少数ではあるが外国企業を誘致した満州国では、一部の部門で日本よりも優れた分野があった。特に日本では外国企業の締め出しで研究が鈍くなった自動車のエンジン技術やヨーロッパからの技術流入で発展した重工業における金属加工技術がそれにあたる。そう言う事情であるから、ハルピン近郊には日本軍の銃砲研究所まで設置されている。
余談だが、日本軍は秘密裏に満州に細菌戦研究所を建設しようとしたが、予算不足と国際法違反への懸念から断念し、代わりにこの施設を作ったとされている。
閑話休題。
とにかく、そういうわけでもし満州国の工業力が無かったら、この新型戦車は2,3年以上は実戦配備が遅れていたとされている。もし、そうなっていたら悲惨であっただろう。
この新鋭戦車はノモンハン戦に36両が投入され、内9両が撃破されたが、逆に40両近いソ連軍車両を撃破したとされている。
さすがに45mm砲を持つBT7型やT26型戦車には一方的優位とは行かなかったが、それでも同程度の主砲性能で10mmの装甲厚の差は大いに役に立った。また、ソ連軍の装甲車には一方的優位に立てた。
そして、この戦いは補給というものを改めて日本軍に認識させる物となった。ノモンハンではそれまで日本軍が行った自給自活が不可能な土地であったからだ。この際、大活躍したのが、満州国の奉天汽車製造のトラックで、その数は日満連合軍のトラックの4割を占めたとされている。ちなみに、この会社はアメリカのフォードからライセンス権を購入した会社で、戦場では同じくソ連がライセンスした車両とかなりの互換性であり、お互いに修理、使用したとされている。
陸の戦いが始まる一方で、ノモンハン事件は海にも戦いを波及させていた。
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