新たなる計画
さて、満中戦争が終わった直後の昭和12年2月。義勇海軍に日本の朝鮮総督府(昭和15年からは朝鮮自治政府)から珍妙な依頼が入った。それは黄海、北緯38度線より北側の朝鮮(日本)領海の警備任務の一時委託であった。
これは創設したばかりの朝鮮海上警備隊が未だ実用任務につける状態でなかったからだ。しかし、帝国海軍を派遣することは朝鮮人の感情をさらに悪化する可能性もあり、さらに海軍としても密輸取締り等のノウハウはなく、そこで義勇海軍にお鉢が回ってきたのである。
しかし、これに関しては白根以下幹部達が難色を示した。
義勇海軍は平時(実際には戦時も)、確かに大幅な自由裁量が認められているが、一応満州国政府からも維持費を出資してもらっている、いわば満州を守るための半官半民組織である。その義勇海軍が満州政府に断りなしに独断で他国への派遣を行うのは、義勇海軍と満州国政府の間で結ばれた協定にも違反する。
ただし、より実践訓練を積めるという点では、今回の依頼は非常に魅力的ではある。それに加えて、朝鮮警備隊の新規建造艦艇の一部の建造を日本側が匂わせたのも、この後白根が艦艇派遣に心引かれた要因のひとつだった。
結局、最終的に朝鮮総督府から帝国政府、そして満州国政府という具合に出動要請が行われた。
いかにもお役所仕事的な手続きではあったが、何はともあれ、昭和12年4月。第一陣として「流星」級駆逐艦の一隻である駆逐艦「轟星」と漁業保護船1隻が派遣されている。
さらに、半年間の間に漁業保護船3隻が新規建造で派遣され、昭和15年5月まで黄海の国境・沿岸警備任務についた。
これら派遣された艦艇プラス駆逐艦1隻がその後朝鮮海上警備隊に売却されている。
そんな中、白根が社で新たに研究させている船があった。高速艇、具体的には魚雷艇である。これは、この時期アヘンなどを中華民国や満州から日本や朝鮮半島に持ち込む密輸団が、高速船で義勇海軍や、満州海辺警察の艦艇による追尾を巻いてしまうという事態が頻繁に起きていたことに対抗するための物であった。
今回その研究を命じられたのは、「流星」や「海龍」を設計した北上ではなく、小型漁船や内火艇建造の経験があった大下杉夫技師であった。
海上で砲戦を行う大型船と、海上を40ノット以上で素早く動く小型艇では設計が違ってくる。そこで、今回は小型艇建造経験のある大下が設計を行うこととなった。
しかし、白根の理念といようか、計画書にはご丁寧にも、戦時には魚雷艇に改装できることを前提とするという条件が付けられていた。
これには大下も頭を抱えた。これがたんなる巡視艇なら設置する武器は機銃、行っても爆雷程度だ。また、エンジンに関しても、制約が少なくてすむ。
しかし、もしこれが魚雷艇となると、機構が複雑で発射管を搭載せねばならないし、エンジンも騒音がないことや戦場での酷使に耐えられるように等の絶対条件が付加されてしまう。これは魚雷艇の建造経験がない日本では致命的な問題だ。
実は日本にはモーターボートに魚雷を積んだ魚雷艇を建造した経験は全く無かった。これは広い大洋である太平洋では小型艇が役に立たないとされていたからだ。逆に内海のバルト海に面したドイツやイタリア等の地中海沿岸諸国は第一次大戦時から建造経験がある。
結局、大下は資料を集めて海外の魚雷艇の研究から始めることとなった。
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