大日本帝国の憂鬱
中国との戦争を五分五分に終わらせた満州国では、その後も国内の開発が急ピッチで進められた。日、英、独やヨーロッパから脱出したユダヤ人等の資本が投入された満州国の景気は非常に良かった。また、関東州や関東軍も租借地や鉄道付属地での税収入がよくなるという効果も現れていた。
一方で、その満州国を事実上打ち立てたと言っても過言ではない大日本帝国は、世界恐慌後の不況から脱出できずにいた。
明治以降、日本は富国強兵をスローガンに近代化を推し進めたが、実際のところは貧国強兵だった。軍隊こそかなり近代化できたものの、国自体はまだまだ貧しかった。特に、農村ではほとんど明治期と変わらないような状況があった。
農村では未だに小作人制度が存在し、農民は貧困層から全く抜け出せずにいた。
その状況下で不況であるのだから、目も当てられないような状況になったのも必然である。昭和11年2月26日には青年将校によるクーデター未遂がおきた。この日、満中開戦による満州からの援助要請のための臨時の御前会議が召集されたことで、結局失敗に終わったが、これはこの時期の日本の不安定を象徴する事態となった。
その解消を目指して、政府は一時期満州国への、農民の大規模疎開を考えたが、現地の耕作面積限界と気候の問題から、最初に小規模な現地調査隊が送られ、続いて数千規模の集団移民に留まった。
国内情勢がそのように混沌としていたのに加え、日本の植民地朝鮮でも問題が起きた。満州国建国以降高まっていた朝鮮独立の気運がついに爆発したのである。
3月1日に起きた第二次3,1独立運動は前回の比ではなかった。しかも、今回は軍や憲兵隊の、武器庫などを襲い武器を奪い取るというやり方でかかってきたため、軍や警察、憲兵隊に大混乱が起きた。
最終的に日本人に5000。朝鮮人に10000近い犠牲者が出るという、もはや内戦のような事態となった。
結局、最終的に日本政府が総督府の官僚の半分を朝鮮人とし、さらに5年後を目処に独立の是非に関する総選挙を実施し、段階的に皇民化政策を撤廃するという政策を公表し、事態を沈静化させた。
日本側がここまで譲歩したのは、ソ連が朝鮮独立組織を支援して朝鮮の赤化を狙っているという情報を得たからであった。
これにともない、日本で人質として暮らしていた李王殿下が家族ともども帰国を果たしている。
また、朝鮮の独自の治安組織として朝鮮陸上警備隊(後韓国陸軍)と朝鮮海上警備隊(後韓国海軍)が創設されている。
この組織は当初は総督府下の管轄であったが、7年後の独立の際は大韓帝国政府下に指揮権が移譲されている。
ちなみに、これらの部隊には日本の余剰兵器が譲渡されたため、日本陸海軍はそれにともなって兵器の更新を進めた。
例えば海軍は「球磨」型軽巡2隻を始め、複数の「神風」型や「樅」型駆逐艦を譲渡し、その代替艦の予算を獲得している。
同じように陸軍も旧式の89式戦車や38式歩兵銃で同じようなことをしている。
これによって、帝国海軍は「阿賀野」型軽巡建造の前倒しや、「綾瀬」型対空巡洋艦の建造に着手しているし、陸軍は98式戦車の開発を進めることが出来た。
しかし、もちろんこの程度で帝国全体が良くなるはずがない。
そこで、帝国政府は大博打に打って出た。それはアメリカのニューディル政策やナチス・ドイツの政策を基にした、大規模公共事業であった。
具体的には、東海道線の輸送力強化のために、新東海道線(後の新幹線)の建設、そして国道一号線の拡張と舗装化や中小都市間道路の輸送力強化であった。
これは後に日本が東京オリンピック誘致に成功するとより早く進められることになる。
ただし、後に昭和16年に12月8日に太平洋戦争が始まることにより、新幹線は東京・名古屋間で建設がストップ。国道一号線は軍事輸送に有利ということで昭和17年2月に完成することとなる。
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