新装、義勇艦隊
義勇艦隊の悩みの種となったのは、教材、特に実技教材の不足であった。軍隊ではない彼らはそれゆえに、購入するのが難しい物がたくさんあった。武器がそうであったが、、特に高価であり扱いも難しい魚雷はその筆頭といえた。
この時代,魚雷一本家一軒と言える時代である。ようするに、数十年後のミサイルとほぼ同じ精密兵器と考えてよい。そして、その扱いにも熟練の技が要求された。
だから魚雷をポンポン購入できるわけでもなく、訓練用魚雷を購入する余裕などなかった。
結局、魚雷に関する水雷科目の勉強は学科のみで、実技は艦艇配備後とされた。
また、練習生用の練習艦がないのも問題であった。戦時のみに必要な魚雷や砲撃の実技演習を急ぐ必要は、この時点ではあまりなかったが、航海術、機関等の勉強は学科と同時に実技も行わないと両立できない物である。そのため、義勇艦隊では早急な実技演習可能な練習用艦艇の整備が求められた。
練習艦については当初、白根は日本海軍から中古艦艇の購入を考えた。しかし、義勇艦隊所属の2隻はディーゼル機関装備のため、既在艦では教育がしにくいという問題となった。
この時代の帝国海軍艦艇の主力エンジンは蒸気タービンかピストン機関のエンジンであったからだ。
そのため、最終的に大亜細亜造船が自前で造ることとなった。
ベースとなったのは、先に竣工した「流星」級の駆逐艦で、これの武装を実習用最低限度まで取っ払い、そこへ練習生居室や教室等を設置した物とした。
こうして昭和7年12月に竣工したのが練習艦「大洋」であった。武装は12,7cm砲1門、40mm機関砲1基に爆雷12個で、空いたスペースには50名の練習生が乗艦可能なように居室や講堂が増設された。
練習生の総数は100人だが、航海、機関科練習生のみでさらに、ローテーションを組んで乗り込むのであればこれで充分過ぎるほどであった。
一方、先に竣工した「流星」と「彗星」の2隻はようやく手に入った本格的な武装を設置するため,改装に入っていた。
改装の内容はまず、艦前方に設置されていた急ごしらえの陸軍式の10,5cmカノン砲が撤去、日本陸軍に返還された。その代わりに日本でようやく購入許可が降りた帝国海軍特型駆逐艦と同型の12,7cm砲を単装にしたうえで、前後に1門ずつ搭載した。当初は3門搭載の予定であったが、先日の渤海海戦で、急ごしらえでつけた40mm機銃が意外と扱いやすい兵器とわかり、これの連装タイプを2基、2番砲予定地に据え付けた。
ちなみに、この40mm機銃の性能を聞きつけた陸海軍も大慌てでボフォース社から購入している。前者は95式、後者は97式でそれぞれ採用している。海軍が遅れたのはビッカーズ社のものと性能比較していたからだ。
また、魚雷もようやく搭載された。これも日本からの輸入製品で、61cm魚雷発射管3連装1基3門が艦中央部に搭載された。
ただし、この実戦配備用の魚雷を購入するのが精一杯で、練習用魚雷を購入できなかったのは前述したとおりだ。
なおこの時期、世界各国海軍の使用魚雷の標準口径は53,3cmであった。そのため、61cm魚雷は空気魚雷といえども、各国の物よりも炸薬量や航続距離の点で優位に立っていた。
ちなみに、後年太平洋戦役で米海軍を震撼させた酸素魚雷を、義勇艦隊はしばらく装備させてもらえれなかった。高価で取り扱いが難しいことと、何より海軍の最高機密であったからだ。さすがに日系企業相手でも最高機密を国外へ売るほど日本海軍も甘くは無い。
こうして、取り敢えず戦える体制となった義勇艦隊は、渤海での国境警備任務や、時折出没する密輸船や海賊船の警戒を主任務として働いた。
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