会社設立
1910年3月12日日本租借地遼東半島旅順
「ここが満洲か!!」
この日、1人の日本人がこの地に降り立った。男の名は白根幹夫。帝国海軍の退役少佐で、歳は32歳であった。
彼は海軍兵学校と海軍大学校を優秀な成績で卒業し、将来を嘱望されていた。いずれは連合艦隊司令長官や海軍大臣にさえなれると。
しかし、彼の場合は別の器を持つ人間であった。軍という官僚組織に見切りをつけた彼は、将来を約束されたエリートコースを捨てて海軍を退役した。
彼の生まれは愛知で、実家は地主階級の農家であり、その3人兄弟の末っ子であった。
二人の兄のうち長男は幼くして死んだが、最終的に家督は次男が継ぐ事となったため、彼は食うに困らない軍人になる道を進んだ。
しかし、半年前父と兄が相次いで結核で死亡するという事態が発生した。折しもそれは彼が退役して直ぐのことで、彼はそのまま実家を継ぐことも出来た。
だが、彼は農家になるつもりは毛頭なかった。海軍に見切りをつけたとは言え、海への憧れも確かに持っていた。そこで、彼は大胆にも実家の資産を全て売払い、新天地満洲で事業を起こすことにした。
この時期、日本は日露戦争後露西亜から満州と呼ばれる地域の一部である、中国遼東半島の租借権を引き継ぎ、また南満洲鉄道の経営と、その付属地の管理も行っていた。
さて彼がこの地で起こした事業、それは造船業であった。その名も大亜細亜造船。
この時期彼は、まだまだ海運は発展が見込める事業と思っていたのだ。そこで、持ってきた全財産と銀行や友人からの借款により、旅順に1万t級ドッグとその他造船施設を建設したのだ。
旅順はかつての露西亜太平洋艦隊の拠点であり、湾口が狭いことから機雷などで封鎖されやすいという欠点があったが、それに目さえつぶれば良港といえた。
また近隣の大連は商港として発展しており、彼がこの地に建設場所を選んだのはそれらによるところが大きかった。
そして1914年、まるで待ち構えていたように欧州で大戦が勃発、日本はその特需の恩恵にあずかることとなり。造船業も例外でなかった。
わずか1年半で会社は全ての借款を清算し、さらに彼は造船施設の拡張に入った。
もっとも、白根は不思議と感が良かったらしい、大戦が佳境を迎えた1917年に入ると新規建造を手控えるようになったのだ。
「あなた一体どうしたのですか?」
突然の社の方針転換に、経理部長である妻のマツは困惑した。稼げる好景気に背を向けるような旦那の真意が理解出来なかった。
そんな彼女に対し、白根は一言こう言った。
「この大戦はもう直ぐ終わる。そうなったら不景気が来る。それに備えてのことだよ」
この彼の言葉どおり、1年後には第一次世界大戦は終結し、そしてそれとともに戦争特需も終わり、変わって戦後不景気が始まった。さらに、29年には後に第二次大戦の遠因ともいえる世界大恐慌がニューヨークで発生することとなる。
あらかじめ大亜細亜造船はこのことを予想し防衛作を立てていたこともあり、打撃こそ被ったが倒産ということは避けられた。
それどころか、不景気が一段落した頃に再度事業を拡張するための体力を蓄えられたと言える。
さて、大東亜造船では現地人の雇用も行っていた。租借地とは言え、旅順などには支那(中国)系や朝鮮系、さらには亡命してきたロシア系住民でさえいたのだ。
こうした人々を雇用しなければ、ここでの事業を成り立たない。
ただし、白根社長は他の日本企業のように一方的な搾取は行ってはいなかった。この時代、満州の日本企業では日本人とそれ以外の人種の間には賃金格差などが当たり前であった。
しかし白根は日本人、朝鮮人、支那(中国)人、人種に関係なく基本最低賃金は同じで、それに能力給を加える形で給与とした。だから、同じ能力さえあれば、全ての人種で同一賃金となった。また工員食堂での食事や寮なども全職員に同じ物が提供された。
会社の一部管理職からはこのような施策に対し、予算の無駄使いという指摘もあったが、白根はそういう声には耳を貸さなかった。
「彼らとて言葉こそ違うが同じ人間。能力で差をつけるのは当然だが、人種で差をつけるなど愚の骨頂だ。それに下手に差をつけてストライキを起こされたり、反日感情を持たれたりするよりは数倍マシと私は思うのだが。それに比べれば安い投資だと思うよ」
こう言い切って彼は施策を断行した。また、工員同士の日常会話ではそれぞれの母語を自由に話すことを許可している。
これに対しても、スパイが入り込むのではという不安の声が上がったが、これも白根は無視した。
「自分の会社の社員を信用出来んでどうする。それよりも、こちらも支那(中国)語や朝鮮語を勉強するいい機会ではないか。」
白根は自ら朝鮮、支那(中国)語の勉強を行い、さらに社員にも奨励した。こう言ったこともあり、朝鮮系や支那(中国)系を含めた社員によるストライキなども起きることはほとんど無く、社の経営は安泰であった。
しかし、そんな白根にも野望があった。それは。
「軍艦をいつか作りたい」
であった。
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