世渡り上手は君子だけ 其の九
目を覚ますと自分の部屋にいた。窓から差し込む日差しからして昼過ぎのようだ。
いくら休日とは言え気が咎めて旦那に侘びを入れることにした。部屋を出て旦那を探して廊下を歩いていると、話し声が聞こえてきた。
聞こえる方向に向かうと、依頼人と会う部屋から旦那と雪藤さんの声がした。襖の隙間からそっと覗いて様子を窺う。上手い具合に二人はこちらに横顔を見せていた。おかげで表情もよくわかる。
「…士郎君は?」
「多分まだ寝てる。依頼の品は封印して叔父さんに預けた」
叔父さんというのは旦那のお父さんの弟で、古道具屋を営んでいる。旦那は依頼の中で曰くつきの品を処分する時はその店を利用している。
「…そう。昨日は大変だったみたいね」
「鏡、お前の家の家宝だろ?よく借りられたな」
「あの子に忍び込ませたの」
「…お前の兄さんは本当に疎いな」
雪藤さんははぁ、と息を吐くと少し困ったように微笑んだ。
「昔から剣もそういう力も私の方が強かったのよね。ついでに兄さんには守り狐いないしね」
「女好きなだけだろ。あのムッツリは特に」
…随分な言いようだ。会話からして件の使い魔は雪藤さんのものだったみたいだな
雪藤さんは少しためらってから言った。
「…ねぇ、龍介。あなたには何が見えた?」
「………」
「私はね…」
「よせ」
旦那は辛そうな、やるせなさそうな顔をしていた。雪藤さんは微笑んでから絞り出すように言った。言葉を紡ぐ唇が震えている。いつもの毅然とした態度と違って弱々しい。
「…どうしてあなたは来なかったの?まだ私のことを…」
「違うよ咲蘭。昼はオレがいていい世界じゃないんだ」
そこまで聞いてオレは呟いた。
「咲蘭?」
オレは違和感を覚えた。二人の話し方はただの依頼人と〝相談屋〟の関係じゃないようだった。
旦那はモテるからよく依頼人に誘われたりするけど、立場をきちんとわきまえている。というより、全く相手にしない。
オレはそっとその場を離れた。何だか二人だけにしないといけない気がした。
雪藤さんが帰ってから旦那はオレの部屋にやって来た。
「生きてるか?」
「ご覧の通り息災です」
『そら良かった』と言ってから、ふと旦那は何かを堪えるような顔をした。見ると、窓から帰って行く雪藤さんの姿が見えていた。
オレは聞いてみた。
「旦那。旦那はどうして人の世から外れたんですか?」
『何だ聞こえていたの』」と少し驚いたように言ってから旦那はしばらく考える。
「オレは昔から人でないモノの世界に関わっててな。…いや、むしろそっちに近づきすぎたというべきか」
「雪藤さんとはどんな関係なんですか?」
「…さぁてな」
旦那はニヤリと笑うと、『おっと、客だ』と言って立ち上がる。
『今日は好きにしていい』と言われ、オレは本棚の整理をした。
旦那は本好きで、色んな本を持っている。その中から面白い本を探すのがオレの楽しみだった。
今日も探していると、ふと古い日記を見つけた。パラパラと見ていくと、旦那が学生の時のらしい。
どうやら旦那は毎日つける人ではなかったらしく、三日後だったり、半年後だったり、二年後だったりと間をかなり空けている。
だが、ほとんど『咲蘭』という女とのことが書かれていた。その名前に聞き覚えがある気がした。…というより、今しがた耳にしたばかりの名だ。
無視して読み進めていたが、それでもあるページで手が止まった。
それは旦那が二十歳の時ので、『咲蘭が雪藤に嫁ぐことになった』とあった。
そこから日記はつけられてない。
「…そうか、あの女は…」
オレは日記から顔を上げると、そっと元の場所に戻した。
祖父ちゃんは目の前のことから逃げるなと言う一方で、こう言ってもいた。
士郎。お前は君子危うきに寄らずという言葉を知らないのかい?人にはそれぞれにどうしようもないことや事情があるものだ。それにやたら滅多に関わるとお前にまで危害が及ぶ。世の中で平穏無事に生きていくには見猿聞か猿言わ猿が大事だよ
見猿聞か猿言わ猿。もっともだと思う。でも、どうしようもなく知りたいこともある。
オレは立ち上がると旦那の後を追った。