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猫の水葬

作者: ひなひな

 ところどころ塗装の剥げたガスタンクが二つ、オレンジ色に染まっている。


 京一は、川の堤防沿いの下校路を両手いっぱいの荷物をひきづりながらゆらゆらと進んでいた。明日から夏休みとは言っても、夏期講習と小遣い稼ぎの短期アルバイト以外には特に決まった予定もない。受験生らしい退屈な夏になることは疑いようもなかった。


 もう少しで対岸へと渡る橋にさしかかろうという時、うつむきながら歩いていた京一の視界を赤い壁が遮った。


 ゴンッ


 胸元で、真紅のランドセルが跳ねる。


「あ、ごめんなさい。大丈夫だった?」


 申し訳なさそうに京一が声をかけると、おさげを揺らして少女が振り向いた。


「はい。別になんともないです。それに、わたしも急に止まってしまったので」


 ランドセルを背負っているので小学生なのだろう。だけど、背丈は京一の肩ほどまであり、そして何よりも少しの動揺も感じられない落ち着いた口調と表情は、高校生の彼よりもはるかに大人びているぐらいだ。


「そうか、よかったあ。それじゃ」


 京一が少女の先に進もうとしたその瞬間、右腕に下げた学生鞄がぐいと引っ張られた。


「あの、ちょっと待ってください」


 わずかに姿勢を崩しながら後ろを見ると、少女が強く訴えるような眼差しで京一を見上げていた。


「あれ、やっぱりどこか痛い?」


「いえ、そんなんじゃないんです……」


 少女は、視線を京一の右腕の辺りに落として続ける──


「ただ、もし嫌じゃなければ見てもらいたいものがあって」


「僕に……見てもらいたい……えーと、それはどんなものなのかな?」


 迷子に名前を尋ねるような京一の口調に、少女は少しバツが悪そうに笑みを浮かべた。


「見てもらいたいのは、死体なんです」


 躊躇することなく言い放った少女の端正な目や鼻を、京一はしばらく呆然と眺めていた。だがやがて彼なりに今の状況を頭の中で整理した後、


「それは、僕に見せるよりもまずお家の人に連絡しなきゃ。ちょっと待って、携帯持ってるから」


 と言うや、携帯電話を制服の胸ポケットから取り出そうとした。


「あ、違うんです。別にアタマがおかしいとかではなくて、その、死体というのは河原に打ち上げられた猫の……」


 少女のくちびるがしばらく止まる。


「ああ、なんだそういうことか」


 早合点してしまったことを詫びながら、京一は右手を向いた。眼下の草原の少し向こうを川が走る、いつもの見慣れた景色だ。この川は支流のまた支流で、大人なら膝上まで水に浸かる覚悟があればなんとか向こう岸まで渡れる程度の幅と深さしかない。


「猫の死体があるというのは、あの辺りかな」


「そう、あそこです。一緒に来てくれますか」


「いいよ。じゃあ行ってみようか」


 京一がそう言うと、おもむろに少女は彼の左腕をつかんで堤防を下りだした。両手に荷物を持ちながらだと足もとがおぼつかないが、少女の歩調が思いのほか速いので、とにかく転ばぬように気をつけるだけで精一杯だった。


 堤防を降り切り、背の高い草を一〇メートルほどかき分けながら進む。間もなく、砂利で覆われた川原が広がった。少女は一点を見つめながら、砂利を丁寧に踏みしめて行く。


 京一が少女の行く手に注意を向けると、身体の半分をごく浅い流れに晒しながら横たわる猫の姿が目に入った。まだ大人になりきっていない白と黒のブチだ。ぱっと見た感じではどこにも傷はなく、身体もいたって綺麗なのだが、その不自然な場所から死んでいるのはすぐに分かった。


「この猫だね。溺れちゃったのかなあ。どうして川に入ろうなんて思ったんだろうね」


 京一の問いかけに答えることなく、少女は猫の死体から目を逸らさないまま、その傍らにしゃがんだ。


「このコ、よくうちに遊びに来てたんです。春頃からかな。学校から帰って部屋で一人でいると、いつも庭でわたしを呼んで、遊ぼっておねだりして……。夏休みになったら、飼いたいって家族にお願いしようとしていたところだったのに」


 これまでほとんど無表情だった少女の瞳が潤んでいる。口もとも、ぎゅっと噛み締めているためか歪んでいた。


「そうか、この猫、君になついてたんだ。こんなになっちゃって、かわいそうだったねえ」


 うっかり余計なことを口走って少女を傷つけないよう、京一は慎重に言葉を選んだ。


「このコ、ここに流してあげようと思って。本当は埋めた方が良いのだろうけれど、うちは庭が狭いし、両親にもきっと怒られちゃうし。それで誰かに手伝ってもらおうと思っていたんです」


 猫を見つめる少女の鼻の先で、金色の光が滲む髪の束が二つ揺れている。


「じゃあ、この子を乗せて川に流せるような木の板でも見つけて来ようか」


 少女はコクリと頷いた。だが、ざっと川原を見渡したところ、猫の死体を乗せられるような浮力のある物は転がっていそうにない。少し下流まで歩いて探そうかと考えていた京一は、ふと鞄の中に大きなポリ袋が入っていることを思い出した。それは、学校から持ち帰る衣類などを入れているものだ。一学期の最終日なので、たくさんの荷物が出ることを見越して大きめの袋を持ってきていたのである。京一は、左手に持ったビニールの鞄を開けてガサガサとかきまわすと、体操着やタオルなどが詰め込まれた透明なポリ袋を取り出した。


「これに入れればなんとか浮かぶとは思うんだけど。でも、こんなのじゃ、ダメかなあやっぱり」


 ポリ袋を川に流してしまうことのマナー云々は置いておいて、空中に掲げられたポリ袋は、この小さな猫ならすっぽりと入ることは間違いなかった。ただ、少女が可愛がっていた猫の死体をこんなものに入れてしまうというのは、さすがに京一も気が進まなかった。


 ──ところが、


「いえ、それでいいです」


 意外にも、少女はあっさりと了承した。


 その後の行動を待ちわびるような少女の視線に促され、京一は袋の口を両手で持ち、空中で三回八の字を描いて空気をいっぱい送り込んだ。


 少女は猫を抱え上げて、空を向いた袋の入り口にそっと沈めていく──。










「いいね、流すよ」


「うん」


 少女が息を飲む。京一の両手にぶら下がる透明なポリ袋のなか、くの字になった死体を見つめながら。


 足首より少し上までを流れに晒した京一は、少しでも川底が遠く見える場所を探して袋を下ろす。額から流れ出ていた汗が数滴、川面に落ちて小さな輪を描いた。


 先程よりさらに傾いた陽射しに押されるように、結び目のまわりがパンと張ったポリ袋は徐々に動き始めた。時おり浅瀬で止まり、また流れ出すということを何度か繰り返すうちに、橋の下をくぐる頃にはしっかりと深みを進んでいた。


「あまり、見えないですねあのコの姿」


 少女のつぶやきは、ちょっとだけ京一を責めているようだった。


「ごめんね。やっぱりああいう袋に入ってると中身はほとんど水面下になっちゃうよね……」


 京一は申し訳なさそうに頭を掻きながら、やはり時間をかけてでも、木の板か発泡スチロールの箱のようなものを探すべきだったのではないかと後悔した。


 堤防の向こうから、近辺の学校のチャイムが聞こえてくる。それが鳴り終わると、再び二人の周囲は川のせせらぎの音で満たされた。


「でも、あれならあのコ、あんまり濡れないですよね。だから、きっとこれでよかったんです」


 少女は、いまや街の風景に溶けようとしている袋を目で追いながら、わずかに目もとを緩ませた。






「それじゃあ、気をつけて帰るんだよ」


 最初に少女とぶつかった堤防沿いの道に戻ると、京一は手を振った。


「はい。いろいろとありがとうございました」


 少女はちょこっと首を傾げ、ランドセルを揺すった。そしてタッタと歩き出し、堤防を横切る道を左に折れて行く。


 同じ道を京一が右折して橋を渡りかけた瞬間、背中で声がした。


「そのコ、ずっとかわいがってあげてくださいね」


 振り返った京一の右腕の辺りを、少女は微笑みながら指さした。そこにあるのは、革の学生鞄と大きな布の鞄だ。


「“そのコ”って……?」


「その黒い鞄の横にいるじゃないですか」


 少女がクスクスと笑う。京一は学生鞄に目を向けた。すると、プラスチック製の子猫のキーホルダーが勢いよく揺れているのに気がついた。持ち主でさえその存在をすっかり忘れていたものだった。


「ああ、これね。そういえばさっきの猫と同じ模様だね」


「でしょ。そのコを見て、あのコとお別れするのを手伝ってもらおうって思ったんですよ。いつまでも大事にしてあげてくださいね」


 少女はほんの一瞬だけ満面の笑みを浮かべた後、踵を返して歩き始めた。京一は、そのしっかりとした足取りと、道に投げかけられて揺れる濃く長い影とを、かなりの間、見守っていた。



思いつきで書いてみました。ほとんど初めての作品なので、おかしなところや改善点など遠慮無くお聞かせいただけると嬉しいです。

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