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月に透ける君と語らう  作者: 輝久実


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6/6

一生有効だよ

朝の光は、残酷なほど無機質に蒼生の部屋を照らし出しました。


隣にいたはずの尊の姿はなく、ベッドのシーツには皺ひとつついていません。


蒼生は重い体を引きずるようにして病院へと向かいました。


昨日までの「幽体の尊」との対話がすべて夢だったのではないかという不安が、一歩ごとに胸を締め付けます。


病院の長い廊下を走る、慌ただしい足音。


蒼生が集中治療室の前にたどり着いたとき、そこには昨日よりもずっと張り詰めた空気が漂っていた。


「……っ、尊!」


処置室のドアの上で、赤いランプが点灯している。


ガラス越しに見える尊の体には、さらに多くの管が繋がれ、何人もの医師や看護師が取り囲んでいた。モニターの電子音が、規則正しいリズムを失い、不協和音を奏でている。


「日野君……」


廊下で項垂れていた尊の両親が、蒼生に気づいて顔を上げた。母親の瞳は真っ赤に腫れ上がっている。


「さっき、急に容態が変わって……今、先生たちが必死に……」


その言葉が、蒼生の頭を殴りつけた。


昨夜、彼女は言っていた。「あっちの私に戻ってみる」と。


それは、お別れの挨拶だったのか。


(……ふざけんな。待ってろって言っただろ)


蒼生は、震える手で冷たいガラスに触れた。


「尊! 起きろよ! 約束しただろ!」


周囲の制止も構わず、蒼生は叫んだ。


「喧嘩の続き、まだ終わってねえんだよ! 触れるようになったら、手の繋ぎ方教えろって言ったのはお前だろ!」


その時、蒼生の視界の端で、何かが揺らめいた。


病室の中、ベッドの傍ら。


医師たちの背後に、昨夜よりもずっと、ずっと薄くなった尊の姿が立っていた。


彼女は自分の本体を、どこか他人事のように見つめていたが、蒼生の声に気づいたようにゆっくりと振り向いた。


その顔は、今にも消え入りそうなほど真っ白で、涙を流しているように見えた。


尊は口を動かした。声は聞こえない。けれど、蒼生には分かった。


『――バイバイ、蒼生』


「やめろ!!」


蒼生は叫びながら、ガラスを叩いた。


「バイバイなんて言うな! 来い、尊! こっちに来い!!」


その瞬間、モニターの音が一本の長い音に変わった。


『ピー――』という、生と死を分かつ無慈悲な境界線の音。


医師たちが「心マ開始!」「除細動、準備!」と鋭い声を飛ばす。


幽体の尊は、吸い込まれるように、ゆっくりとベッドに横たわる自分の体へと重なっていった。


光が弾けるような錯覚。


蒼生は必死に祈った。神様でも悪魔でもいい。あんな最悪な別れのままで、彼女を連れて行かないでくれ。

一秒が、永遠のように長く感じられた。


医師の手が止まり、部屋に絶望的な沈黙が流れた、その時。


『……トクン』


静止していたモニターに、小さな、けれど確かな波形が戻った。


「脈、戻りました!」


「自発呼吸、確認!」


騒然とする室内。蒼生は崩れ落ちるように床に膝をついた。


ガラスの向こう。


さっきまで幽体として笑っていた彼女ではなく、確かに血の通った、泥臭く生きようとする朝霧尊が、そこにいた。


エピローグ


リハビリテーション室の窓から、柔らかな春の風が吹き込んでいた。


ショートカットの髪が少し伸びた尊が、車椅子に座って不満そうに頬を膨らませている。


「ねえ、蒼生。さっきから過保護すぎ。私、もう歩けるもん」


「うるせえ。主治医がまだ無理すんなって言ってんだろ。大人しく座ってろ」


ぶっきらぼうな蒼生の言葉。けれど、その手は優しく車椅子のハンドルを握っている。


二人の間には、あの日までのトゲトゲした空気はもうなかった。


「……ねえ、蒼生」


尊がふと、真剣な顔で彼を見上げた。


「私さ、意識がなかった時のこと、全然覚えてないんだよね。でも……なんか、あんたにずっと怒鳴られてた気がする」


蒼生は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。


「……覚えてねえなら、いいよ。別に大したこと言ってねえし」


「嘘だ。……でも、一つだけ覚えてるよ」


尊は車椅子から少しだけ身を乗り出し、蒼生の大きな手を、自分の手で包み込んだ。


温かい。脈打つ鼓動が、肌を通して伝わってくる。


もう、すり抜けることはない。


「『俺の隣を空けとく』って。……それ、まだ有効?」


蒼生は耳まで真っ赤にして、顔を背けた。


けれど、握られた手は決して離さなかった。


「……一生、有効だよ。……バカ尊」


「あはは! やっぱり不器用だね、蒼生は」


青空の下、二人の笑い声が響く。


それは、幽霊との奇妙な生活の終わりであり、二人の「本当の」物語の始まりだった。

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