一生有効だよ
朝の光は、残酷なほど無機質に蒼生の部屋を照らし出しました。
隣にいたはずの尊の姿はなく、ベッドのシーツには皺ひとつついていません。
蒼生は重い体を引きずるようにして病院へと向かいました。
昨日までの「幽体の尊」との対話がすべて夢だったのではないかという不安が、一歩ごとに胸を締め付けます。
病院の長い廊下を走る、慌ただしい足音。
蒼生が集中治療室の前にたどり着いたとき、そこには昨日よりもずっと張り詰めた空気が漂っていた。
「……っ、尊!」
処置室のドアの上で、赤いランプが点灯している。
ガラス越しに見える尊の体には、さらに多くの管が繋がれ、何人もの医師や看護師が取り囲んでいた。モニターの電子音が、規則正しいリズムを失い、不協和音を奏でている。
「日野君……」
廊下で項垂れていた尊の両親が、蒼生に気づいて顔を上げた。母親の瞳は真っ赤に腫れ上がっている。
「さっき、急に容態が変わって……今、先生たちが必死に……」
その言葉が、蒼生の頭を殴りつけた。
昨夜、彼女は言っていた。「あっちの私に戻ってみる」と。
それは、お別れの挨拶だったのか。
(……ふざけんな。待ってろって言っただろ)
蒼生は、震える手で冷たいガラスに触れた。
「尊! 起きろよ! 約束しただろ!」
周囲の制止も構わず、蒼生は叫んだ。
「喧嘩の続き、まだ終わってねえんだよ! 触れるようになったら、手の繋ぎ方教えろって言ったのはお前だろ!」
その時、蒼生の視界の端で、何かが揺らめいた。
病室の中、ベッドの傍ら。
医師たちの背後に、昨夜よりもずっと、ずっと薄くなった尊の姿が立っていた。
彼女は自分の本体を、どこか他人事のように見つめていたが、蒼生の声に気づいたようにゆっくりと振り向いた。
その顔は、今にも消え入りそうなほど真っ白で、涙を流しているように見えた。
尊は口を動かした。声は聞こえない。けれど、蒼生には分かった。
『――バイバイ、蒼生』
「やめろ!!」
蒼生は叫びながら、ガラスを叩いた。
「バイバイなんて言うな! 来い、尊! こっちに来い!!」
その瞬間、モニターの音が一本の長い音に変わった。
『ピー――』という、生と死を分かつ無慈悲な境界線の音。
医師たちが「心マ開始!」「除細動、準備!」と鋭い声を飛ばす。
幽体の尊は、吸い込まれるように、ゆっくりとベッドに横たわる自分の体へと重なっていった。
光が弾けるような錯覚。
蒼生は必死に祈った。神様でも悪魔でもいい。あんな最悪な別れのままで、彼女を連れて行かないでくれ。
一秒が、永遠のように長く感じられた。
医師の手が止まり、部屋に絶望的な沈黙が流れた、その時。
『……トクン』
静止していたモニターに、小さな、けれど確かな波形が戻った。
「脈、戻りました!」
「自発呼吸、確認!」
騒然とする室内。蒼生は崩れ落ちるように床に膝をついた。
ガラスの向こう。
さっきまで幽体として笑っていた彼女ではなく、確かに血の通った、泥臭く生きようとする朝霧尊が、そこにいた。
エピローグ
リハビリテーション室の窓から、柔らかな春の風が吹き込んでいた。
ショートカットの髪が少し伸びた尊が、車椅子に座って不満そうに頬を膨らませている。
「ねえ、蒼生。さっきから過保護すぎ。私、もう歩けるもん」
「うるせえ。主治医がまだ無理すんなって言ってんだろ。大人しく座ってろ」
ぶっきらぼうな蒼生の言葉。けれど、その手は優しく車椅子のハンドルを握っている。
二人の間には、あの日までのトゲトゲした空気はもうなかった。
「……ねえ、蒼生」
尊がふと、真剣な顔で彼を見上げた。
「私さ、意識がなかった時のこと、全然覚えてないんだよね。でも……なんか、あんたにずっと怒鳴られてた気がする」
蒼生は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……覚えてねえなら、いいよ。別に大したこと言ってねえし」
「嘘だ。……でも、一つだけ覚えてるよ」
尊は車椅子から少しだけ身を乗り出し、蒼生の大きな手を、自分の手で包み込んだ。
温かい。脈打つ鼓動が、肌を通して伝わってくる。
もう、すり抜けることはない。
「『俺の隣を空けとく』って。……それ、まだ有効?」
蒼生は耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
けれど、握られた手は決して離さなかった。
「……一生、有効だよ。……バカ尊」
「あはは! やっぱり不器用だね、蒼生は」
青空の下、二人の笑い声が響く。
それは、幽霊との奇妙な生活の終わりであり、二人の「本当の」物語の始まりだった。




