二人で過ごす静かな時間
学校から戻った蒼生の部屋。夜の静寂が、二人の間に漂う張り詰めた空気を、少しずつ穏やかなものへと変えていきました。
さっきまでの激しい感情のぶつかり合いが嘘のように、二人はただ静かに、月明かりの差し込む部屋で過ごしています。
蒼生はベッドの横に座り込み、尊はいつものようにベッドの端に腰を下ろしていた。
部屋の電気は消している。今は、月光に照らされた彼女の淡い輪郭だけを、ただ見つめていたかった。
「……ねえ、蒼生。お腹空かない? ずっと何も食べてないでしょ」
尊が静かに口を開いた。その声は、昼間の泣きじゃくっていた時とは違い、どこか遠くへ旅立つ準備を整えたような、透き通った響きを持っていた。
「……別に。腹なんて空かねえよ」
「嘘ばっかり。お腹の虫、鳴きそうなくらいの顔してるくせに」
尊はふふっと小さく笑った。その笑顔は、中学の頃、部活帰りに一緒に買い食いをした時と何も変わらない。
彼女は、自分の本体が眠る病院の方角をふと見つめ、それから蒼生の方へ向き直った。
「……蒼生。私さ、あの喧嘩のとき、本当は何を言おうとしたか、覚えてる?」
蒼生はドキリとして、尊を見上げた。
あの日。夕暮れの交差点。
「お前みたいなガサツな女、こっちから願い下げだ!」
そう言い放った蒼生に対して、尊は何かを言いかけて、けれどそれを飲み込んで走り去ったのだ。
「……いや。お前、何か言おうとして、やめたよな」
「うん。……本当はね、『そうだよ、ガサツだよ。だから、あんたみたいな不器用な奴と一緒にいてあげられるのは、私しかいないんでしょ』って……そう言おうとしたの」
尊は膝を抱え、小さく丸まった。
「生意気だよね。でも、本当にそう思ってたんだ。……世界中で、一番あんたを分かってるのは私だって。これからもずっと、私が隣にいてあげるんだって」
「……ああ。そうだな。お前がいなきゃ、俺はダメなんだ。……さっきも言っただろ。お前以外、俺の隣は空いてねえんだよ」
蒼生が言葉を繋ぐと、尊は嬉しそうに、けれど切なそうに目を細めた。
「ねえ、蒼生。少しだけ、目を閉じて」
言われるがままに蒼生が目を閉じると、微かに、本当に微かに、頬のあたりが冷たくなったような気がした。
尊が、至近距離まで顔を近づけている。
「……もし、私が目を覚ましたら」
彼女の吐息のような囁きが耳に届く。
「ちゃんと、触ってね。……喧嘩じゃなくて、ちゃんとした手のつなぎ方、教えてね」
「……約束だ。絶対だぞ」
蒼生が目を開けた時、尊はもう元の位置に戻っていた。
彼女の体は、夕方よりもずっと白く、透き通っている。まるで、月明かりそのものになってしまったかのように。
「……少し、眠くなってきちゃった。……ごめんね、蒼生。私、ちょっとだけ、あっちの私(本体)に戻ってみる」
「尊!?」
蒼生が慌てて立ち上がる。
尊は、まるで夢でも見ているような穏やかな表情で、ゆっくりと横になった。
その姿が、霧が晴れるように、少しずつ薄れていく。
「おやすみ、蒼生。……また明日、会えるかな」
「会える。絶対だ。明日、俺が病院に行くまで、そこで待ってろよ……!」
蒼生の呼びかけに、尊は答えなかった。
ただ、最後に一度だけ満足そうに微笑むと、彼女の姿は夜の闇に完全に溶け込んで消えてしまった。
部屋に残されたのは、微かな消毒液の匂いと、冷え切った夜の空気だけだった。




