初めての夜
病院から蒼生の家までの帰り道、二人はほとんど言葉を交わしませんでした。
尊はふわふわと蒼生の数歩後ろを浮くように歩き、蒼生はただ、時折振り返っては彼女がそこにいることを確認する。部屋に入り、見慣れた自分の部屋に、透き通った幼馴染みがいるという非日常。
蒼生の部屋のドアを閉めた瞬間、重苦しい沈黙が二人を包んだ。
「……座れよ。あ、座れるのか?」
「失礼しちゃうわね。一応、座る動作くらいはできるわよ」
尊は慣れた仕草でベッドの端に腰を下ろした。だが、マットレスは沈み込まない。彼女の体には、この世界の重力が今働いていないのだ。
蒼生はデスクの椅子を引き出し、尊と向かい合うように座った。
部屋の明かりの下で見ると、尊の輪郭はさらに淡く、今にも夜風に解けてしまいそうに見える。
「なあ……痛くないのか。その、体」
「全然。ぶつかった瞬間のことも、実はよく覚えてないんだよね。ただ、あんたに怒鳴ったことだけは、はっきり覚えてるけど」
尊はわざと意地悪く笑って、短い髪をかき上げた。
「『お前みたいなガサツな女、こっちから願い下げだ!』……だっけ? 蒼生が言ったんだよ」
「……っ、それは……!」
蒼生は言葉に詰まり、視線を床に落とした。その拳が膝の上で震えている。
「……悪かった。思ってもねえこと言った。お前が事故ったって聞いた時、俺、頭がおかしくなりそうで……」
「わかってるよ。あんた、すぐ顔に出るもん」
尊はふっと表情を和らげ、ベッドから立ち上がると蒼生のそばに歩み寄った。
そして、うつむく彼の頬に、そっと手を伸ばす。
「泣くなよ。私、まだ死んでないし」
その指先が蒼生の肌に触れる——はずだった。
だが、尊の細い指は、蒼生の頬を霧のようにすり抜けていく。
「あ……」
尊の顔から、一瞬だけ余裕が消えた。
彼女は自分の右手をじっと見つめ、何度も蒼生の頬に触れようと試みる。けれど、そのたびに虚しく空を切るだけだった。
蒼生はその様子を、痛みをこらえるような目で見つめていた。
「……尊」
「……あはは、やっぱ無理か! さっきから何回もやってんのに、私、学習能力ないよね」
尊は明るく振る舞い、無理やり笑顔を作った。
けれど、その瞳には小さな涙の膜が張っているのを、蒼生は見逃さなかった。
「……触れねえなら、声、聴かせてくれ。ずっと喋ってろよ」
「えー、うるさいって怒るでしょ、あんた」
「怒らねえよ。……今は、お前の声がしてねえと、お前が本当に消えちまいそうで、怖いんだ」
蒼生の絞り出すような本音に、尊は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ顔を赤くして、そっぽを向く。
「……バカ。……じゃあ、今日あった最悪なこと、全部報告してあげるわよ。まずは、あの病院のパジャマが全然似合わなかったことからね」
その夜、二人は明け方まで語り合った。
触れ合うことはできない。けれど、これまでの人生でどの夜よりも、二人の心は近い場所にあった。




