【前編】 落下する令嬢と、森の貴婦人(バーサーカー)
●第一章 婚約破棄は重力と共に●
「セラフィーナ・ド・ラ・ヴァリエール! 貴様のその性悪な振る舞いには、もう我慢ならん!」
王城の煌びやかな大広間。シャンデリアの光が降り注ぐ中、王太子ジュリアンの怒声が響き渡った。
静まり返る貴族たち。その中心で、私は優雅に扇子を開き、首を傾げた。
「あら、殿下。ごきげんよう。本日はまた一段とお声に張りがございますわね。発声練習でもなさったのかしら?」
「ふざけるな! ミナへの陰湿なイジメの件だ!」
ジュリアンの腕の中には、ピンクブロンドの髪を揺らす愛らしい子爵令嬢、ミナ様がしがみついている。彼女は涙で潤んだ瞳を上げ、震える声で訴えた。
「ひどいですぅ、殿下ぁ……。私、セラフィーナ様に階段で突き飛ばされて……足が、すごく痛いんですぅ」
「なんと痛ましい……! 聞いたかセラフィーナ! 貴様は未来の王妃となるべき器ではない。よって、この場で婚約を破棄し、国外追放を命じる!」
国外追放。それは貴族にとって死に等しい宣告だ。しかし、セラフィーナの思考は別のところを巡っていた。
(あらまあ。ミナ様ったら、昨日は元気に庭を走り回って蝶々を追いかけてらっしゃいましたのに。きっと演技の練習ですわね。殿下もそれに付き合って、私を試していらっしゃるのかしら?)
「衛兵! こいつを捕らえろ! 二度と私の視界に入らぬよう、街道の果てへ捨ててこい!」
ジュリアンの合図と共に、屈強な衛兵たちが私の細腕を掴む。
普通ならここで「無礼者!」と叫ぶところだろう。けれど、私は侯爵令嬢。取り乱すなど言語道断。
セラフィーナはニコリと微笑み、衛兵たちに会釈した。
「手荒な真似は不要ですわ。殿下の『サプライズ演出』でしょう? 喜んでお付き合いいたします」
◆
数時間後。
セラフィーナは王都を遠く離れた、断崖絶壁の上に立たされていた。
眼下には、遥か彼方を流れる激流と、尖った岩場が見える。落ちれば即死。いや、遺体の判別すらつかないだろう。
ここまでセラフィーナを連行してきた衛兵の一人――確か、王太子の側近である騎士が、剣の柄に手をかけて冷酷に言い放つ。
「悪いな、セラフィーナ嬢。殿下の命令だ。『追放』では生ぬるいとな」
「まあ。殿下からの追加オーダーですの?」
「ああ。ここで事故死してくれれば、ミナ様との愛の障害がなくなる。……恨むなら、自分の運命を恨め!」
ドンッ、と背中に強い衝撃が走った。
突き飛ばされた体は、あっけなく宙へと投げ出される。
重力が内臓を浮き上がらせる独特の浮遊感。遠ざかる崖の上で、騎士がニヤリと笑うのが見えた。
(あら……あらあらあら! これは、いわゆる『吊り橋効果』を狙った荒療治かしら!? 殿下ったら、なんて情熱的な求愛表現! 死の淵でこそ愛は燃え上がると言いますものね!)
普通なら走馬灯を見るところだが、セラフィーナの脳裏に浮かんだのは、二年前に他界した敬愛する祖父の笑顔だった。
稀代の冒険家であり、『地上最強の生物』と呼ばれたお祖父様。
お祖父様が遺してくれた一冊の本が、私のドレスの懐にはしっかりと収まっている。
――『崖に落とされた時の対処法 ~初級編~』。
「ふふっ。お祖父様、ついにこの知識を役立てる時が来ましたわ!」
落下速度が上がる。風が頬を切り裂く。
セラフィーナは空中で姿勢を制御すると、懐から本を取り出す暇はないため、記憶にあるページを脳内でめくった。
『第一章:パニックになるな。重力は友達だ』
『第三項:ドレスはパラシュートであり、翼である』
「風……来てますわ!」
セラフィーナは着ていたシルクのドレスの裾を大きく広げた。
コルセットで締め上げられた体幹は、鋼のようにブレない。広げたドレスが下からの強烈な風圧を孕み、パラシュートのように落下の勢いを殺す。
ババババッ! と布が激しく音を立てるが、最高級のシルクは伊達ではない。破れもせず、私を支えてくれる。
しかし、それだけでは岩場への激突は避けられない。
眼下に迫る岩肌。セラフィーナは目を細めた。
『第五章:着地点が見当たらない時は、壁を作れ』
「そこっ!」
セラフィーナは落下軌道を微調整し、切り立った崖の出っ張りに狙いを定めた。
本来なら足の骨が砕ける速度。しかし、彼女は衝突の瞬間に膝を柔らかく曲げ、呼吸を吐ききり、衝撃を逃がす「消力」の要領で岩を蹴った。
タンッ、タンッ、タタンッ!
まるでダンスを踊るように、崖の出っ張りを三回蹴って減速。
最後は優雅に、ふわりと地面へ舞い降りた。
スタッ。
完璧な着地。
ヒールの底が少し削れた程度で、セラフィーナは無傷だった。
「……ふぅ。少々風が乱暴でしたけれど、これも殿下の愛の試練と思えば心地よいものですわ」
セラフィーナは乱れた前髪を指先で直し、埃を払う。
見上げれば、遥か頭上は雲に隠れている。あそこから落ちて生還したなどと知れば、殿下はどれほど驚き、喜んでくださるだろう。
「待っていてくださいませ、殿下。セラフィーナ、この程度の『障害』、愛の力で乗り越えてみせますわ。すぐに戻って、ティータイムにいたしましょう」
セラフィーナは扇子をパンと鳴らし、深い森が広がる王都の方角へと歩き出した。
その背中には、一切の迷いも、常識もなかった。
●第二章 森の熊さん(人語を話す)との交流●
崖下から王都へ戻る道は、険しい獣道だった。
鬱蒼とした森は昼なお暗く、得体の知れない獣の鳴き声が響いている。
普通の令嬢なら一歩も動けずに泣き崩れるシチュエーションだが、セラフィーナは足取りも軽く進んでいた。
「ランラ~ン♪ お祖父様の教え、その二。『道がないなら作ればいい。木々は道を開けるためにある』」
邪魔な太い蔦を素手で引きちぎり、道を塞ぐ倒木を「ごめんなさいね」と片手で放り投げながら進む。
ドレス姿で森を歩くのは少々不便だが、これぞアドベンチャー。
しばらく歩くと、前方の茂みがガサガサと揺れた。
現れたのは、熊のように大柄な男たち。薄汚れた革鎧を身につけ、手には錆びた剣や斧を持っている。その数、十人あまり。
目つきは鋭く、口元からは下卑た笑みが漏れている。
「へっへっへ。おい見ろよ、上玉だぜ」
「こんなところに貴族の嬢ちゃんが一人とはな。おい姉ちゃん、痛い目にあいたくなけりゃ、身ぐるみを置いていきな」
「へへ、身ぐるみだけじゃ済まねえけどな!」
男たちはジリジリとセラフィーナを取り囲む。
セラフィーナは立ち止まり、扇子で口元を隠して彼らを観察した。
(まあ。殿下のお使いの方たちかしら? でも、ずいぶんと……ワイルドな格好ですわね)
彼らが王太子の差し金――正確には、彼女が死んだか確認しに来た、あるいは生き残っていた場合にとどめを刺すための刺客であることは、火を見るよりも明らかだった。
しかし、セラフィーナのポジティブフィルターを通すと、事実はこう変換される。
(きっと殿下は、私が無事に戻れるか心配で、この方々を護衛に寄越してくださったのね。でも、身なりも言葉遣いもマナー違反だわ。これは、未来の王妃として教育が必要ですわね)
「ごきげんよう、皆様。殿下のお迎え、ご苦労様ですわ」
セラフィーナが微笑みかけると、男たちは顔を見合わせた。
「あ? なに言ってんだこいつ。頭がおかしいのか?」
「まあいい。俺たちを楽しませてくれりゃあ、命だけは……いや、保証はできねえな! ギャハハ!」
先頭にいた大男が、斧を振り上げて襲いかかってきた。
無駄のない、殺意に満ちた一撃。
しかし、お祖父様のスパルタ教育を受けてきた彼女の目には、止まっているように見えた。
『護身術・対人編 第三条:相手の力は己の力。円を描くように受け流せ』
「マナーが悪いですわッ!」
セラフィーナは一歩踏み込み、振り下ろされる斧の柄に、扇子を添える。
ガキンッ! と受けるのではなく、スゥッと軌道を逸らす。大男の体が前のめりに崩れた瞬間、セラフィーナはドレスの裾を翻し、彼の足を払った。
ドスンッ!
「ぐべっ!?」
「兄貴!?」
地面に顔面から突っ込んだ大男の背中に、私はヒールで優しく、しかし体重をしっかりと乗せて踏み下ろした。
「次はどなた? 挨拶の仕方も知らない野蛮な方には、わたくしが直々にステップを教えて差し上げますわ」
「こ、このアマ……! やっちまえ!」
残りの九人が一斉に襲いかかってくる。
剣、槍、棍棒。
四方八方からの攻撃だが、彼女は慌てない。
「あら、そんな大振りでは当たりませんわよ?」
右から来る剣を、最小限の動きで避ける。切っ先がセラフィーナのまつ毛の先を掠める。
そのまま回転し、遠心力を利用した裏拳を男の鳩尾へ。
「かはっ……!」
左から来る槍は、扇子を閉じて突きをいなし、すれ違いざまに相手の小指を極める。
「ぎゃああああ!」
後ろから抱きつこうとした男には、お祖父様直伝の『背負い投げ・エレガントスタイル』をお見舞いする。
宙を舞う男たちの悲鳴が、森の静寂を破るワルツのように響き渡った。
「ワン、ツー、スリー♪ ワン、ツー、スリー♪」
数分後。
そこには、地面に転がって呻く十人の男たちと、汗一つかかず、扇子で優雅に風を送るセラフィーナの姿があった。
「ま、参りました……! 勘弁してくだせえ!」
「姉御……いや、女神様! 命ばかりはお助けを!」
男たちは涙と鼻水を流しながら土下座をしている。
セラフィーナは閉じた扇子で、リーダー格の大男の顎をクイッと持ち上げた。
「わかりましたか? レディに接する時は、まずは自己紹介。そして武器ではなく花束を向けるものです」
「は、はいぃぃ! 勉強になりますぅ!」
「よろしい。では、あなた達をわたくしの『従者』として雇いますわ。殿下の元へ戻る道中、荷物持ちと露払いをなさい。拒否権はありませんのよ?」
セラフィーナの瞳の奥に燃える「教育熱心な炎(殺気)」を見たのか、男たちは激しく首を縦に振った。
「よ、喜んでお供しやす! 姉御!」
「一生ついていきます!」
こうして、セラフィーナは十人の強面な従者を手に入れた。
彼らはボロボロの体を引きずりながらも、私のために倒木をどけ、泥道に自分の服を敷いて道を作ってくれるようになった。
「姉御、ここ滑りやすいんで気をつけてください!」
「あら、気が利きますわね。名前は……そうね、『クマゴロー』になさい」
「へい! 俺、今日からクマゴローです!」
和気藹々とした(?)旅路。
だが、試練はこれで終わりではなかった。
●第三章 空飛ぶトカゲは淑女の嗜み●
森を抜け、見晴らしの良い丘に出た時だった。
空が急に陰ったかと思うと、強烈な風圧がセラフィーナたちを襲った。
「な、なんだぁ!?」
「あ、姉御! 空を見てくだせえ!」
クマゴローの指差す先。太陽を背にして、巨大な影が旋回していた。
翼長は十メートルを超え、全身は硬質な鱗に覆われている。鋭い鉤爪と、凶悪な牙。
空の王者、飛竜だ。
「ヒィィッ! ワイバーンだ! なんでこんな所に!?」
「逃げろ! 喰われるぞ!」
元ならず者たちはパニックに陥り、散り散りになろうとする。
しかし、セラフィーナはその飛竜の瞳を見て、ピタリと足を止めた。
爬虫類特有の縦に割れた瞳孔が、じっと私を見つめている。そして、何やら鼻をヒクヒクさせ、興奮したように喉を鳴らしているではないか。
(あら? あの子、わたくしを見て……頬を赤らめてますわね?)
普通の人間には威嚇にしか見えないだろうが、動物図鑑も熟読していた私には分かった。
あの飛竜は、発情期真っ只中のオス。しかも、キラキラした装飾品や、美しい人間に目がない「収集癖」のある個体だ。
「グオオオォッ!(可愛い人間ハッケン! 巣ニ持ッテ帰ル!)」
飛竜は翼を畳み、一直線にセラフィーナめがけて急降下してきた。
その速度は砲弾の如し。
「あ、姉御ォォォ! 逃げてェェェ!」
クマゴローが絶叫し、私を庇おうと前に出る。
だが、セラフィーナは彼を片手で制した。
「下がっていなさい、熊五郎。あの子はわたくしにご執心なようですわ」
「へ!? 何言って……来るぞォォ!」
巨大な鉤爪が、セラフィーナを鷲掴みにしようと迫る。
風圧で髪が乱れる。口から放たれる熱気が肌を焼く。
しかし、セラフィーナは一歩も動かない。
懐の『対処法』には、こう書かれていたはずだ。
『第六章:猛獣に言葉は通じない。痛みで愛を語れ』
『応用編:飛来する敵には、カウンターの一撃こそが最大の挨拶』
飛竜の鼻先が、セラフィーナの目の前数センチに迫ったその瞬間。
ドレスの中に隠し持っていた、護身用の鉄扇(鉄の骨が入った扇子)を一閃させた。
「躾がなってませんわよ、トカゲさんッ!」
セラフィーナの全体重と、遠心力、そして飛竜自身の突進速度が合わさったカウンターのアッパーカット。
狙うは、鼻先の最も敏感な神経が集まる一点。
ガゴォォォォォッ!!
鈍い音が響き、飛竜の巨体が空中でカクンと跳ね上がった。
脳を揺らされた飛竜は、白目を剥いてバランスを崩し、そのまま彼女の横へズザザザザッ! と派手に墜落した。
土煙が舞い上がる中、ピクピクと痙攣する巨大な竜。
「な……」
「い、一撃……?」
従者たちは顎が外れんばかりに口を開けている。
セラフィーナは優雅に扇子を閉じ、倒れた飛竜に近づいた。
飛竜はふらふらと頭を持ち上げ、涙目で私を見上げている。
「キュ……キュウ……(痛い……でも、強い……好き……)」
「あら、まだ反省が足りないのかしら?」
セラフィーナがニコリと笑い、拳を握ってみせると、飛竜は「ヒィッ!」と小さく鳴いて、お腹を見せてゴロンと転がった。服従のポーズだ。
「いい子ですわね。あなたの名前は……そうね、今日から『ポチ』ですわ」
「グルルン(ポチ……悪くない名前だ)」
飛竜は嬉しそうに喉を鳴らし、巨大な頭をセラフィーナの掌に擦り付けてきた。
鱗は硬いが、どこか愛嬌がある。
「クマゴロー、皆様。素晴らしい移動手段が手に入りましたわ。これなら予定より早く、殿下の元へ帰れます」
セラフィーナはポチの首元を撫でながら、振り返って宣言した。
「さあ、乗りなさい。王城へ『凱旋』ですわ!」
従者たちは顔面蒼白で震え上がっている。
「あ、姉御……マジっすか……」
「飛竜に乗って城に殴り込み……じゃなくて、帰還なんて、前代未聞ですよ……!」
「あら、何を怖がることがありますの? わたくしが手綱を握れば、どんな猛獣も大人しい猫ちゃんと同じですわ。ほら、ポチも皆様を歓迎していますよ?」
「シャァァッ!(乗るなら速くしろ、雑魚ども)」
ポチが従者たちに向かって牙を剥く。
彼らは「ヒィィ!」と悲鳴を上げながらも、セラフィーナの笑顔の圧力に屈し、恐る恐る飛竜の背中へとよじ登った。
◆
上空の風は冷たかったが、ポチの背中は温かかった。
眼下には、豆粒のような森や街道が流れていく。
(待っていてくださいませ、殿下。ミナ様)
セラフィーナの胸は、再会の喜びで高鳴っていた。
(殿下はきっと、私の強さと愛の深さを知って、涙を流して喜んでくださるはず。
ミナ様も、私の無事を知れば、あの愛らしい笑顔で「すごいですぅ!」と褒めてくださるに違いない)
「お祖父様、見ていてくださいね。私、最高のレディとして、殿下の元へ舞い戻りますわ!」
夕日に染まる王城の尖塔が見えてきた。
そこでは今頃、私の「追悼」と称したパーティーが開かれているはずだ。
そこに、飛竜に乗って華麗に登場する私。
これ以上のサプライズがあるだろうか?
「ポチ、スピードを上げて! あのバルコニーへ一直線ですわ!」
「グオオオオッ!」
風を切り裂き、セラフィーナたちは王城へと突っ込んでいく。
それが、王城の人々にとって「悪夢の襲来」になるとは、露知らず。
私の愛と、物理的な暴力が詰まった帰還劇。
その幕が、今まさに上がろうとしていた。




