目印を作りましょう
「邪王暗黒LOCKON」
約1ヶ月ぶりに呪文を唱え、イマジナリーに飛び込んだ。
そこは、相変わらず幽邃な闇に閉ざされた世界だった。
ニアの言う通り恒星や惑星のない宇宙のような空間。
まるでブラックホールに吸い込まれたかのように孤独で疎外感すら感じさせた。
足音さえも闇に飲み込まれるような静寂さが広がっていた。
尚、イチカの気配はどこにもない。
彼女の不在は俺の胸にぽっかりと空いた穴をさらに広げた。
「なんですの、その奇妙な呪文は」
ニアの声は疑問に満ち溢れていた。
声だけは、やけに鮮明だった。
「え?」
「今貴方様仰っていましたよね?「邪王暗黒」?興味深いですわ。何なのですか、それ」
「あぁ。呪文の事だな?この呪文を唱えないとイマジナリーに来れない仕組みになっているんだ。お前もここの住民なら、知ってるだろ?」
ニアは嘲笑したかのように「ぷっ」と笑ったのだ。
まるで俺の言葉があまりにも陳腐で我慢しきれなかったかとでも言うように、嘲りの色を隠そうともしなかった。
「なんだ?何がおかしい」
「なんでもありませんわ。さあ、一刻も早く目印となる建物や光を創り出しましょう!ところで(勇者)様はどうやって宇宙やこの美しい地球がどうやってできたと思います?」
話の流れを唐突に変えたニアに、苛立ちを覚えた。
ニアの気取った態度に、小馬鹿にするように俺は、反撃をした。
「言うまでもないな。ビックバンの大爆発で宇宙は膨張していて、今も尚膨張しているんだよ。そんなことも知らないのか?」
「一般的にはそう言われてますが、違いますね。呆れました。残念ですわ」
「....はあ」
「宇宙や貴方様が住む清き地球は、神様が7日間かけて創ったのです。よってこのイマジナリーでの神は貴方様なのです!」
「...さっきから君が何を言っているのか理解ができないな。そもそも創るってどうやってだよ。材料も何も無いこの世界でどう創るんだよ?」
俺の声には、苛立ちと困惑が混じっていた。そんな状況の中ニアの言葉はまるで謎かけのようだった。
幼い少女が秘密を打ち明けるように、クスクスと笑いながら彼女は続けた。
「此処はイマジナリーの世界。普通じゃ有り得ないような事が可能ですわ。創造を強く念じるだけで建物も、光を生み出せるのです」
「それは本当か?」
「ええ本当です。試しにやってみてください」
これがもし本当であるのならば、現実世界の息苦しさから逃れたいと思う程だった。
俺はお伽噺に出てくるような壮麗な城や、輝く豪邸を想像して、目を瞑り強く念じた。
金色の尖塔、煌めくシャンデリア、広大な庭園。だが、数十分経っても、闇は何も変わらない。目の前には果てしない暗黒が広がるだけだ。
「何も起きないじゃないか。騙したのか?」
「騙すとか卑怯な真似していませんわ。何を想像したのです?」
「大規模な豪邸や壮麗な城」
「それ、貴方様はそれを自分の目で確かめた事はありますか?」
「あるわけないだろ」
そこで俺は察した。
目で見た事ある物しか創れないということか。
「でしたら無理でしょうね...見たことあるものしか創れませんので..」
そんなの始めに言えよ。いちいちイラつく女だ。
ニアは、この俺を「神」と言ったが、神なんて大それた存在は、平凡な俺には遠すぎる。
京都の清水寺も伏見桃山城も見たことがない。ましてや、豪華な城など、一生縁がないだろう。
俺の人生は、老朽化したアパートと息苦しい学校に縛られている。
学校をイマジナリー世界に再現すれば虐めの記憶が蘇り、ノイローゼになりそうだ。
ひび割れた壁と軋む床のアパートを目印として創るのも、気が引ける。
ふと、杜若みやすけの住むマンションが脳裏に浮かんだ。
俺の唯一友達だったやつのマンションだ。
豪華で居心地の良い空間、広々としたリビング、大きなガラス窓、3人が入れる広い風呂、エントランスをを抜ければ、磨き上げられた大理石のロビーが迎え入れる。超豪邸マンション。
何時間もここに居たいと思わせるような、俺の人生とは無縁なマンションだ。
それは、24階建てでニアの言う目印にもなりそうな事は間違いなかった。
俺は目を瞑り、意識を全集中させた。
半信半疑だった。
でも...
「何だか平凡なマンションですわね。」
目を開けると本当に杜若の家のマンションがそびえ立っていた。
驚きが胸を満たす。
手を伸ばせば、壁の冷たさが指先に伝わる。
紛れもない現実感だ。
ニアには「平凡」でも、俺には裕福の象徴だ。
「これだけですか?他に何か建てませんか?」
ニアの声は、闇の中でも聞こえやすいほどはっきりとしている。
杜若のマンションを創り上げた達成感は、瞬く間に薄れていった。
このイマジナリーの幽邃な暗黒を前にすれば、どんな建物も小さく見える。
もっと鮮烈な目印が必要だった。
だが、俺の頭は空っぽだった。
平凡な人生を送ってきた俺には、華やかなイメージなどそう簡単には浮かばない。
目を閉じ、闇の中で思考を巡らせた。
暗闇の暗黒な筈な世界に何かが蠢くような、誰かの視線を感じた気がする。
ニアの言う「他の仲間」が、この無限の闇を彷徨っているなかもしれない。
だか、今はそんな想像に耽る余裕は無い。
心のどこかで、イチカの不在が重くのしかかり、俺を焦らせていた。
「何かって言われても困るんだが。ニアがやってみろよ」
「わたくしですか?無理ですわ。私はこの世界の神では無いですから。神は貴方様だけです」
神か……俺が神だなんて皮肉な言葉だ。
俺はただの虐められっ子で、ひび割れたマンションに住む凡人だ。
なのに、イマジナリー世界では、俺が全てを創り出す神だと言う。「ふっ」笑えるな。
現に杜若のマンションが完璧再現できたのだから、できない筈は無い。
だが、何を創ればいいんだ?遠くでも届く目印とやらを。
ふと、記憶の奥底に、ある光景が浮かんだ。幼い頃、両親がまだ離婚をする前、家族で訪れたホテルの食事処。
あの頃の俺は、父と母の笑顔に囲まれ、暖かな照明の下でスープを啜っていた。
テーブルの上には、色とりどりの料理が並び、窓から差し込む柔らかな光が食器をきらめかせていた。
父が「これ美味いぞ!」と笑いながらフォークでミートソースパスタを巻き、母が「あなた、食べ方が汚いわよ」と笑う声。
俺はただ、二人を眺めながら、ケーキの甘い香りに包まれていた。
あの瞬間家族は一つだった。
笑顔が、笑い声が、俺の小さな幸せを満たしていた。
だが、今は違う。
父はもういない。
母は仕事追われ、俺と顔を合わせる時間すら少ない。
家族で笑い合うことなど、もうない。
あの食事処の温もりは、遠い夢のようだ。
ぽっかり空いた記憶の片隅に残る食事処、記憶を呼び起こすたびに疼く。
だが、この光景なら、目印になるかもしれない。
誰かがいたら、きっとそんな場所を気に入っただろう。
痛みを振り払い、俺は瞼を閉じた。
あの食事処が再現出来れば、誰かの心を掴むかもしれない。
しかし、記憶は曖昧だ。
テーブルの木目の感触は?窓から見える景色は?遠くで響くピアノの旋律はどんなだった?細部を思い出す程、記憶は曇りのように薄れていく。
こんな中途半端なイメージで、創れるのか?いや、試さなければ始まらない。
俺は現にマンションを完成させたのだ。
食事処だって作れる筈。
深く息を吸い、食事処の情景を強く祈念した。父の笑顔、母の笑い声、暖かな光を。