レディの名前はイチカ
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彼女の声に出会ったのは中学入学して直ぐの事だった。
入学式の日、俺は自分の部屋の片隅に立っていた。
新しい学校生活に慣れるか憂慮に堪えない。
下ろしたての制服にも慣れず、学校生活の期待と不安は交錯していた。
そんな中、突然彼女の声は聞こえてきたのだ。
「(勇者)やっと会えた、よかった」
聞き覚えのない女性の透通った声がはっきりと俺の脳内から聞こえてきたのだ。
女の声だった。
後ろを振り返るが誰も居ないし、周りにも誰も居ないこの状況に俺はただひたすら困惑した。
幽霊や宇宙人の声だったらどうしようと戸惑った。
その声は俺の脳内に直接交信しているような響きがあった。
それを言語化するのは非常に難しい。
「ねえ、私の声聞こえてる?」
最初は当然無視をした。ただの幻聴に過ぎないと思ったからだ。
「返事をしてちょうだい」
しかし再び彼女はそう言った。
返事をしてしまうと、自分の頭がおかしくなった事を認めるようで怖かった。
中学を入学し、新しい環境に慣れず頭が混乱して幻聴が聞こえているのだと自分に言い聞かせ、聞こえないフリをした。だが、彼女は諦めなかった。
──ある夜、机に向かい数学の宿題に頭を悩ませていると、ふいに頭の中で声が再び聞こえてきた。
「(勇者)は、頑張りすぎなのよ。ちょっと休んだら?」
と言って邪魔してきた時、勉強に集中もできず本当にただストレスだった。
「うるさいな!俺は集中しているんだ!」
しかし、心のどこかでその声にほっとしていた。
それは問題集の数字が、頭の中で絡み合い焦りが募る中、彼女の声はまるで暖かいお湯のように俺の心を落ち着かせたのだ。
「ほら、深呼吸をして。公式ちゃんと見直して見て、(勇者)なら必ず解けるから」
俺はアホらしくも、彼女の言葉を真に受けて深呼吸をし、頁をめくった。
すると、確かに公式の使い方を間違えていた事に気づいた。
「なんで....分かるんだよ。」
そう呟きながらも、答えを導き出した瞬間、胸の奥にほんわりと安堵が広がった。
それだけじゃない。
初めは空想だと思っていた彼女の存在は次第に、俺の日常に透過していったのだ。
それはある日の深夜、夜遅くまでパソコンでゲームをしている事が母にバレた事がきっかけでパスワードを付けられてしまった時だ。
当然俺は母が考えたパスワードなんて知る訳が無く、ゲームをする事を断念した。
そんな時彼女はパスワードは「666」と言ったのだ。
そんな筈は無い。
なぜ彼女がパスワードなんかを知っているのだ?
とは言え、666...。どこかで聞いたことのある数字だ。
あぁ、そうか。
666は悪魔の数字だ。
俺は悪魔に取り憑かれてしまったのかもしれない。
恐怖で身体は強ばった。
だが、四六時中彼女は狂ったように「666」と、唱え続けていた。
あまりにもうるさくて半信半疑でパソコンのパスワードに「666」と入力すると、驚くことにロックが解除されたのだ。
少し恐怖を感じる一方で、彼女の存在を認め始めた瞬間でもあった。
なんなんだ....彼女は一体。
そして彼女の声は、俺の心の支えになる瞬間にも現れるようになった。
夜遅くまで机に向かって勉強をしている時や、慣れない中学生活で友達が一人も出来ず悩んでいる時、夕飯に嫌いなカレーライスが出てきた時。
「(勇者)、貴方ならできるわ」
「あまり、自分を責めすぎないようにね。私は味方よ」
「カレーライス私は好きよ。出来ることなら食べてあげたいくらい」
「ちなみに私の得意料理はミートソースパスタよ」
その声はまるで俺の心の隙間を埋めるように優しかったのだ。
さらに、夕飯のカレーライスは、不思議と味が消えたように感じた。
突然現れた彼女は俺の心の支えになっていた。
だが、ある夜、彼女の声はいつもと違う雰囲気を帯びていた。
部屋の電気を消し、ベッドに横になった時、再び頭の中から声が聞こえてきた。
でもその声はいつもの声とは少し違う。
「ねえ、(勇者)私貴方の事好きなのかもしれない...って言ったら、貴方どうする?」
俺の心臓がおかしな音を鳴らした。
架空である人物がいきなり俺に告白をしてきたのだ。
心臓がおかしくなって当然だ。
暗闇の中、目を見開き、息を呑んだ。
「は?な、何!?」そう声に出して叫び、慌てて起き上がった。
誰もいない部屋で自分の声だけが虚しく木霊する。
「な...なんだよそれ!」
「えへへ、びっくりした?でも(勇者)の事ずっと見てて好きになっちゃったの。(勇者)は私の事好き?」
俺は言葉が詰まった。
混乱だけが胸を締め付ける一方で、彼女のこれまでの言葉が俺を救ってくれたことを思い出す。友達も居ない俺を孤独から救ってくれた時、知らぬ筈のパスワードを必死に教えてくれた時、数学の難問を解いてくれた時、苦手なカレーライスに魔法をかけてくれた時。
いつも励ましてくれた彼女の声は俺を救ってくれていたのだ。
でも、彼女の正体は?ただの声(空想)なのに、それは本当に好きと言えるのか?
「君の名前すら知らないんだぞ?」
「そういえばそうだったわね。名前は、無いの」
彼女の姿、形は見えないが、何かを思いついたかのように手を鳴らした。
「そうだ!(勇者)が、私に相応しい名前つけてくれない?」
突然の彼女の提案に俺は困惑した。
「そんな事急に言われても困るな。レディとでも呼べばいいのか?」
しかし、彼女は不服そうな声で言った。
「嫌よ。そんな呼び方.......もっと可愛らしい名前がいい。」
可愛いらしい名前って....。
彼女は、俺を救ってくれた花のような存在だ。そう、一輪の花のよう、触れたら消えてしまいそうな儚い花....。
「イチカ......」
そう呟いてみると、彼女の声はパッと明るくなった。
「イチカ!素敵!嬉しいわ。その名前気に入った!」
彼女の姿は見えないが、喜んでクルクル回っているイチカが想像できた。
俺はそんなイチカを可愛らしいと感じ、愛らしくも思い始めたのだった。
それが、イチカとの出会いであり、俺がイチカという女を好きだと自覚した瞬間だった。