10い
東京総合大学。
東京の郊外に広い敷地を持つ、国内で唯一「TS学科」がある大学である。
TS (transsexual)、つまりは性転換の研究である。
なにをバカみたいなことをと思うかもしれない。
だが、ここ数年、実際に世界中でTS患者が増えている。
軽いストレスや不妊、ホルモンバランスの乱れから、実際の性転換やそれに準ずる症状など、その名前によらず様々な病気を研究するものであり、この研究室の卒業生はかなりのスキルを得るため科を問わず引っ張りだことなるのである。
ほかの大学や病院ではこれを診られる医者は多くないほか、症例も増えたとはいえ多くはないため、患者は必然的にここの大学病院に来るのである。
学生が2人、研究室のドアをノックした。
「高島教授、聞いてもらいたい話があるんですが。」
「はいよ。よっこら。」
一人の学生に呼ばれて立ち上がった教授は、そのおっさん臭い口調や行動と裏腹に眼鏡や白衣と服装は野暮ったいが整った顔をした女性だった。
「タカちゃんおっさん臭ーい。」
別の学生が言う。
「いいじゃねえか。私の勝手だ。
というか田坂と、もう一人はどこの人かな?」
高島は荷物をまとめつつ尋ねる。
田坂と呼ばれた女子が答える。
「えっとね、獣医の…」
「は?獣医だ?」
「あ、うん。」
高島の勢いに圧され、少し引く田坂。
「いや、済まん。要するに獣医でこっちの対応が必要なんだろ?
えっと、お名前は?」
「獣医」の青年が答える。
「はい。僕は獣医内科の4年、犬鳴といいます。実は妊娠中のワンちゃんからこちらの寄生虫では見たことのないやつが出まして、先生が高島教授案件だと言っていたんです。
なんでも、教授の発見した細菌と酷似しているということで見てほしいと思いまして。」
田坂が続ける。
「下腹部の構造変化とかやってる、不妊治療に役立つかもって言ってたやつだって。」
「田坂、どこまで入り浸ってる?出禁とは言わないが衛生面は気を付けておけよ?」
高島は窘めつつ、
「よーし終わり。行こうか。」
「犬鳴君、その犬ってのは、避妊してたはずが妊娠したってことで間違いないな?」
「はい、そのはずです。放し飼いに近い状態で飼っていたようなのですが、気が付いたら妊娠していたと。
間違いなくうちの病院で見たことがある子なんで、おかしいぞとなってこうなっているんです。」
高島は納得したようにうなずく。
高島の過去の研究には、寄生虫に関するものもあった。
その中には、その症状に該当する寄生虫がいる。
女性の細胞を持つが女性の生殖器官を持たない場合に、周りの似た器官を変形させて作り上げていつの間にかいなくなってしまうという、目的も最終宿主も謎の寄生虫であった。
ほかのウイルスと働くことで男性の生殖器官を不可逆的になくすこともある。
高島には、原因はこの寄生虫であるという確信があった。
第一に、この寄生虫が不妊の女性に寄生した場合、女性の妊娠機能が回復するということ、
第二に、この寄生虫が観察される期間は生殖器の変形から数週間はあること。
これらから、高島はこの寄生虫が何らかの方法で犬に感染し、妊娠の原因の一つとなったと推理した。
「まあ、判断は見てからだ。
今日暑いけど、お前ら歩いて来てるか?」
獣医学部は医学部と離れたところにある。
歩いて10分はかかるため、本来は交流などあまりないのである。
一方で大学自体の交通アクセスは悪くないため、徒歩や自転車で来る生徒が多い。
それは生徒たち二人も例外ではなく、
「はい、僕は歩いてきています。」
「あたしは自転車。あっちに置いて来ちゃったけど。」
「よし、すぐではあるが私の車に乗せてやろう。」
生徒の熱中症が多く、教室や研究所内はどこでもエアコンが効いている状況。
そんな中歩いてきた生徒たちをねぎらいたいと考えたのだが…
「「あっつ!」」
「…」
犬鳴は遠慮して言わなかったが、田坂はお構いなしに言う。
高島も想像以上の熱に言わざるをえなかった。
炎天下。黒い車。しかも高島はサンシェードを忘れていた。
真夏の陽光に晒され、高島のコンパクトカーはサウナと化していた。
「…歩いてこっか。」
「待ってやめてお願いたまには大人ぶりたいからすぐ涼しくなるしちょっと喋りたいから!」
捲し立てる高島。
いつものおっさんのようなゆったりさからかけ離れた焦りが見える。
哀れなものを見る目で高島の車に乗る生徒2人。
高島はこの数週間講義もなく、ずっと研究室で籠っていて、人の温もりに飢えていた。
犬鳴はこのことを知らないが、だいたい察したのか大人しく車内に身を投じた。
田坂は高島の研究室によく居たものの、会話はしなかった。
また自分は自分で友人とリアルで会えない寂しさを味わっているため、憐憫と共に助手席に突入した。
大学構内の道路を走りながら、高島が訊ねる。
「犬鳴君、もしかしなくてもだが、獣医の教授ってのは鳥居のことか?」
少しばかり緊張したような声。
犬鳴はそれを察し、恐る恐る答える。
「はい。鳥居教授ですが…何か心配事でも?」
「あー、知らないのか。
実はタカちゃんと鳥居せんせーね?」
田坂が続きを言おうとした瞬間、無言で音楽を爆音で流し始める高島。
「うるさーい!わかったよ言わないから!」
田坂の大声での抗議に、音楽を止める高島。
「よろしい。勘弁してくれや。」
犬鳴は察して再び黙る。そして田坂は余計に一言、
「どうせ着いたら分かるし。」
田坂は音楽を鳴らそうと手を伸ばす高島をなだめつつ、
「ほら、もう着くよ。その虫とやらを見せてもらおうか。」
ちょうど車内が冷えてきた頃合い。
そんな中で外に出るのだが。
「あつーい!早く建物入ろ、ほら早く!」
田坂はダッシュで建物に向かう。犬鳴は少し呆れた様子で歩いて向かう。
高島はと言うと、
「待ってくれよ…」
篭りっきりで運動機能もボロボロのため、のそのそと着いていく。
研究室。
2人の教授が睨み合っていた。片方は高島。そしてもう片方は、
「鳥居。私は寄生虫の話をしに来ているのだが。」
「高島よ、貴女いっつも理由つけて来ないじゃないですか。それに寄生虫が摘出後時間経って観察できる訳ないでしょう。」
もう片方、つまり鳥居は、高島を呼んだ張本人、だが彼女はサンプルをすでに医学部の寄生虫学科に渡していた。
呼ばれ歩かされ、たらい回しにされる高島の怒りは当然のものだった。
「すみません、呼んで来いとしか言われておらず…」
犬鳴の謝罪に、いや…としか言わないものの、すでに高島の怒りは鳥居に向いていた。
「どうせ来るごとに採ってんだろうが、余らせるとかねえのかよ」
「寄生虫はうちの管轄外なのでね。うちと医学部の寄生虫に渡すだけで良い量しか得られないし、薬でこの頃は多分母数も減っているんです。ワンちゃんの体に何かあってもアレだし。遺伝子解析が終わったからうちの寄生虫は貴女の管轄だと分かったんですよ。」
「テメェ大体生徒パシらせてやりたいのがこれかよ。性格終わってんなオイ」
「まあ淑女にしてはお言葉がお汚いですわよ?た、か、し、ま、ちゃん?」
キレた高島は、遂に自分が隠していた秘密に勝手に突っ込んでいく。
「女歴はこっちのが上だろうが。お前が性転換した時は俺はとっくに済んでいて、大体お前のは大半俺からの粘膜感染じゃねえかよ。何が獣医だケダモノ!」
「そうだよねーあんなに気持ちよさそうに鳴いてたもんねー笑」
「え゛っ」
声をあげて驚く犬鳴。一人称の変化にさえ気がついていない。教授たちはお構いなく言い争っているが、
「気持ちはわかるや。あたしは元々女だけど、あの人達違うんだって。」
遠い目をする田坂。
「んで、あれの関係は元同級生。地元から大学までくっついてて、まあ仲は良いんだろうね。」
罵詈雑言には、確かにそれを示唆する発言も多くあった。
だが、そう言う問題ではなく、
「ええ…?先生方肉体関係持ってたの…?」
あからさまに落ち込む犬鳴。
田坂は肩に手をポンと置き、
「胸でかいもんね。タカちゃん。
でもね、あれはいろんな病気の産物だからね。うち来ればアレになれるかもよ。」
「いや…大丈夫です…。」
そんなことを言っているうちに、大人気ない喧嘩は終わっていた。
「高島、出禁。」
「上等だ。田坂、寄生虫に行くぞ。
犬鳴君、恥ずかしいところを見せたね。
案内ありがとう。それじゃあ。」
「いえ…。あっ、それと、寄生虫の大河教授、本州出張って言っていたはずです。」
「マジかよ…マジだわ。」
オンラインの、教員の予定表掲示板を見て察する高島。
「帰ろっか、タカちゃん。」
「待て、レスバで負けてたまるか…やめろ引っ張るな!」
「ご迷惑おかけしました〜。」
「テメェ話拗らせやがって!犬はどうした寄生虫はどうした!」
田坂に引っ張られていく高島。
愉悦の表情で見送る鳥居。
後に高島は寄生虫学科へ行き、彼が見つけたものとほぼ同じものであると確認した。
その後の論文地獄は、また別の話。