オチが死んでいる話(こんとらくと・きりんぐ)
湖を一本の道路が貫いていた。
日差しに輝く水面の上に、土を集めて固めた道路が持ち上げられ、道端には時おり、歯磨き粉の看板が刺さっている。
遠くにはねじったクリームみたいな形の白い山。そのふもとは蒼ざめた影に溶けていた。
右の湖――葦に囲まれた納屋の屋根。斜めに沈んだ学校の屋根。両生類の産卵場となった公民館前広場。そして、水中に潜む一階建ての家々――。
左の湖――水没をまぬがれた三日月形の土地にボートをもやった桟橋と白い木造小屋があり、煙突から白い煙が出ていた。
殺し屋は空のビール瓶に女性っぽい筆跡で紙に『助けて! 男に監禁されている!』と書いて、瓶に詰め、水に投げ込んだ。
気持ちよい五月の風はくだらないイタズラの記憶を髪から丁寧にくしけずって除けて(髪はショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見えるくらい伸びていた)、ついでに風は瓶を岸辺からさらって、沖の流れのなかへと押し込んだ。
涙色のクーペの鍵をまわして、エンジンをかける。前にいた町で点火プラグを全て新品に変えたので、年寄りの咳みたいな音を鳴らすだけでちっともかからないなどということはない。
カーラジオの電球が点灯し、ローカル局の懐メロ特集を流し出す。
アクセルペダルを少しずつ踏み込み、走りだす。肘をドアにかけて、風に髪を好きになぶらせながら。
湖は尽きることはなさそうだ。深場のある水面に黒いうねりが見え、背の青く細いナマズの群れがそのなかでヒレを浸している。
その暗い水を狙って、パンをつけた釣り針を放っている男がいた。そばに古いピックアップ・トラックを停めていて、麦わら帽子をかぶっているが、顔は安酒――田舎によくあるXXXの陶器に入った密造酒――で焼けていた。
殺し屋は車を停めて、ウィンドウから顔を出した。
「おれは無職だ」
男は言ったが、そこには悲観も恥もなかった。
「仕事を探さないの?」
「まともな職にありつくには前科が邪魔する。警官になるには頭がよすぎる。釣りは好きだが、漁師になるほどじゃない。お前はなんだ?」
「殺し屋」
あっさりバラしたが、不思議なことに前科のある釣り人に話して、密告される心配はなかった。
「誰もが好きな職にありつけるわけじゃないしな」男はまるで殺し屋がドブさらいみたいに言った。「仕事中か?」
「女の人を殺しに行く途中なんだ」
「へえ」と、男は言った。「殺せって誰に言われた?」
「別の女の人」
「じゃあ、ある女にとって、別の女は息してるだけでもカンベンならんわけだ」
「そういうこと」
「カネはたんまりもらえるのか?」
「あんまり」
「どこも不景気だな」
「このあたりは何があったの?」
「三年前に大水があった。いつもなら引いていく水が全く引かず、この有様だ。住人はみな散らばった。戻ってきてやりなおすほどの魅力がない町だった」
「あなたは?」
「おれは職無しだ。だが、釣り針に刺すパンのかけらを工面できれば、ナマズのフライとビール一本にありつけるし、このポンコツに入れてやるガソリンも、まあ、なんとかなる。おれが車だったら絶対に飲みたくない、クズみたいな混ぜ物をされたガソリンだがな」
殺し屋は男が元弁護士だったのではないかと思い始めた。弁護士は収入面では犯罪ピラミッドの頂点にいるが、名誉の観点からすれば最下層の人種だ。現役の弁護士はそのことに気づかないが、免許を取り上げられた元弁護士、それも前科持ちの弁護士はそのあたりの卑しさを「もう結構です。持ってこないでください」と言いたくなるほど思い知らされ、どこか悲し気な皮肉を帯び始める。そういう雰囲気が男にあった。そうだ、きっと元弁護士に違いない。
「昔は裁判長異議あり!ってわめくだけで、家も車も女も、何でも手に入ったんだがな」
殺し屋は男から見えない左手でガッツポーズをした。
「拷問好きのマフィアの幹部、男の子のチンチンを切り取って集めてたホモの連続殺人鬼、預金を横領して正直な顧客たちの老後の蓄えを食いつぶした銀行家。おれがシャバにリリースしたクズどもの数は計り知れない。そのたびにガレージにいかした車が一台増えていった。そんなおれがこうして魚を釣っているのは、それこそお前さんの追っている、女のせいさ。それが、ちょっと変わった女でな。正確に言えば、おれの人生を台無しにしたのは、女がひとり、アヒルが二羽なんだ」
「ちょっと気になるかも。きかせてくれるかな?」
「その前に仕事を終えな。帰り道にここに来たら、話してやるよ」
「えー」
「安い仕事なんだろ? 目的はひとつでも増えたほうがいい」
それもそうか。殺し屋はもっともだと思い、その場を後にした。
湖沿いの小さな町。観光で成り立たせるには景色が退屈過ぎたし、ナマズも小さかった。
殺し屋は表通りと名づけられた幅十メートルの固められた土の線をのろのろと走った。保安官事務所があり、十字路の角には小さな国法銀行、農業機械の販売店。
それにガレージがある。〈スージーの修理店〉。ツアーリング・セダンがジャッキで持ち上げられ、修理屋のスージーが車の下に潜り込んで、オイル交換をしていた。
殺し屋は車を停めて、外に出ると、操作レバーを拾い、ジャッキのリリーズスクリューを一気に緩めた。
グシャッ。
元弁護士の釣り人のもとへ戻ると、保安官事務所の車が停まっていて、ゴムの胴長をつけた男たちが水のなかから釣り人の死体を引っ張り出しているところだった。
「何かあったんですか?」
殺し屋がたずねると、保安官が噛み煙草をペッと吐いた。
「轢き逃げだよ」
「轢き逃げ……」
「その野郎、死体を湖に捨てていった。それで発覚が遅れると思ったんだろう。で、お前さん、訳あり顔だな」
「いえ。この人と、さっき話をして。その、この人が弁護士をやめるきっかけの出来事、それも女の人がひとり、アヒルが二羽絡んだ話で、帰り道に教えてくれる予定になってて」
「ああ、プラッツは、――これはあの男の名前だが、あの男はそうなんだよ、デタラメ話をするんだ。笑える話でな。あいつ、話をどんどん膨らませるんだ。あいつが主人公で、美人が出てきて、スペクタクル、そのうち百人の殺し屋とか一万人の独裁者の手下に囲まれたとかで絶体絶命になって、で、どうやってその場を切り抜けたのか、こっちが楽しみにして続きを待つ。そうしたら、あいつ、なんて言うと思う?」
「なんて言うんですか?」
「『それでおれは死んじまったんだ』って言うのさ。まあ、罪のない法螺話だが、そういう話ができるやつがひとり、このつまらん世界を旅立った。それだけは残念な話だ」
「犯人は?」
「このまわりを見てくれ。水に沈んだ村だ。誰もいない。目撃者がいない。町が保安官事務所の予算を削ったから、まともな捜査ができない」
「そうですか」
と、こたえる殺し屋の眼は道に刻まれたタイヤ痕のひとつを目ざとく見つけていた。
一週間後、殺し屋は別の州の別の郡の別の町の社交クラブにやってきた。
割と規模のある町で、規模のある町というのは犯罪もそれなりの規模になる。
薄暗いビリヤード・ホールでスマートな口髭の男が六番をサイドポケットへ沈めようとしていた。
ドアのすぐ横で漫画雑誌を読んでいた用心棒の大男が首筋を膨らませながら立ち上がり、
「失せな。チンピラ」
――殺し屋の肩をつかもうとした。
殺し屋は自分で考案した面白いやり方で固めた拳を思いきり、男のみぞおちで突き込んだ。
大男が倒れ、血走った目で殺し屋をにらみ、ウェストバンドの銃をまさぐったが、
「いいんだ、マックス」
スマートな口髭の男がやめさせた。
ショット。
キューボールが回転をかけながら、ラシャを滑っていった。
六番ボールはその回転力を受け継ぎ、九番を弧を描いて避け、ポケットに落ちた。
用心棒はみぞおちを痛みを散らそうとするように揉みながら、椅子に座った。殺し屋は落ちていた漫画雑誌を渡して、講和の意志があることを示しておいた。
「久しぶりだな」と、口髭の男。
「うん。しばらく」
口髭の男はキューを持ったまま、左手で殺し屋と握手した。ジンクスの問題らしい。
「おれの華麗なショットを眺めに来たわけじゃなさそうだな」
「探してるやつがいてね」
「おれは他人の仕事に関わらないことにしてる」
「そうじゃなくて、ぼくが個人的に探している」
「お前が個人的に? そいつ、何をした?」
殺し屋は報告書を取り出した。あの後、タイヤ痕のことなら何でも知っている男を乗せて、現場に引き返し、そして、報告書を作ってもらった。
「プライスのコンティネンタル。人をひとり轢いて逃げた」
「轢かれたのは生き別れの家族か何かか?」
「嘘つきの弁護士」
「弁護士全員がそれに当てはまる」
「愉快な法螺話が得意な元弁護士」
「ぐんと絞れるな」
「彼はぼくにどうして弁護士をやめることになったのか、女性ひとり、アヒルが二羽絡む話をしてくれることになっていた」
「それだけか?」
「そう。それだけ。でも、殺す価値はある。ぼくはもう一週間、ろくに寝られない。女のひとがひとり、アヒルが二羽絡む話が気になってね」
「で、安眠を奪った罰を与えたいから轢き逃げ犯を探せと」
「プライスのコンティネンタル。どこかのガレージに鹿を轢いたって言って修理をしたやつがいると思うけど、それが見つからないんだ。もちろん、お礼はするよ。お金は――まあ、なんとかなる」
「お前からカネを取ろうとは思わないよ。技術力で支払ってくれるのはどうだ?」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
「一応探すが、万が一見つからなかったら、後腐れがないようにカネで払う。これでもいいか?」
「もちろん」
「マックス」
用心棒は立ち上がり、冷蔵庫の上にある雑誌を取り、そのなかに挟まっていた封筒を口髭の男に渡した。そして、それが殺し屋の手に渡る。
「すぐにかかるよ」
「なあ」と、口髭の男が言った。「あとで、どうして教えてくれなかったって言われるのもなんだから、教えるが、その弁護士、おそらく、おれは知っている。アーサー・プラッツだろ?」
「たぶん、そいつだね」
「手下が世話になった。おれはそいつが弁護士をやめた理由を知っているが、知りたいか?」
殺し屋は首をふった。
「やめとくよ。ぼくは見た目よりずっとメルヘンなんだ」
口髭の男にハメられた。
殺し屋はそう思った。
機関銃を胸に抱いて、ビールも煙草も我慢して、もちろんトイレも我慢して、二十四時間もこの姿勢で待っている。
轢き逃げひとり探してもらうだけでは割りの合わない仕事だ。
箱の外からきこえてくる祈祷の文句。
――主よ、彼のものをあなたの御許へ参らせたまえ。
殺し屋は噛んだガムで箱の蓋に貼りつけた指向性爆薬の点火ピンを抜いた。。
爆音とともに棺の蓋が飛び上がり、死体のかわりに殺し屋があらわれ、喪服のギャングたちが慌てふためく。
四十五口径の機関銃弾が墓石のあいだをあたふたと逃げていくギャングを次々と薙ぎ倒していく――。
もらったメモの通りにデューク・プレイス・ホテルに行ってみたら、駐車場でフロントグリルとボンネットが真新しいプライス・コンティネンタルを見つけた。
ソファーや観葉植物、フロントデスクの配置に病的なまでに左右対称を追求したロビーを抜けると、エレベーターのそばの椅子に大男の用心棒が座って、漫画雑誌を読んでいた。
「やあ、マックス。まだ、みぞおちは痛む?」
「まあな」
「まだ、ピーウィー・レイトンは連載してるのかな?」
「三か月前に打ち切られた」
「見る目のない編集者どもめ」
「同じオチの話を半年も続けさせてやったんだから、むしろ寛大なほうだ」
「あれは様式美なんだ。で、やつはどこに?」
用心棒は鍵を渡してきた。プラスチックのキーホルダーには七〇八とある
エレベーターは自分で操作するタイプのもので、七階のボタンは丸いガラスを切り抜いて、電球を仕込んだものだった。押すとボタンが光り、蒸気圧エレベーターよりもずっとスマートに、騒音少なく、七階まで殺し屋を運んだ。
深く沈むカーペットの廊下を歩き、七〇八号室の前で四十五口径のオートマティックを抜いて、スライドを引く。鍵を差して、静かにまわし、部屋に踏み込んだ。
「でね、マックス。ドアを開けると、そこにやつがいた。やつはぼくに言ったんだ。飛んで火にいる夏の虫とはお前のことだな、って」
「それで続きは? ちょうど雑誌に飽きたところだ。きいてやるよ」
「野郎ども、出てこい! そう叫ぶと、銃を手にしたやつの手下がそこらじゅうからあらわれたんだ。カーペットの下、クローゼットのなか、トイレの便器。あらゆる場所に隠れて、やつらはぼくを待っていた」
「おれが見張ってた部屋に銃を持った男たちが隠れてたって言うんだな」
「その通り。ショットガンとリヴォルヴァーを手にして、ポケットを予備の弾薬でパンパンにしたガンマンが一万人」
「一万人のガンマン?」
「その通り。一万人の軍隊だよ」
「わかった。で、それから」
「やつらはガラガラヘビみたいに睨みながら、ぼくを包囲した。一万丁のショットガンがぼくを細切れにしてやろうと手ぐすねひいて、――ショットガンに手はないけど、もしあったら、手ぐすね引いて待っていたね。で、ぼくは一万人の凶悪なガンマンたちに降伏はしなかった。プライドが邪魔してね。それで――ぼくは、どうやって切り抜けたかと言うと、――うん、一万人対たったひとりで、それで、……えーと、それで、そこで、なんていうかな、ぼくは、うん、蜂の巣にされて、死んでしまったんだ」