第21回 彼女と彼女のペリドット
彼女が彼女と出会ったのは、桜が満開の季節だった。
彼女と彼女が別れたのも、桜が満開の季節だった。
そして、
彼女と彼女が真実を知ったのは、五年後の――葉桜の季節だった。
わたしが彼女と出会ったのは、桜が満開の季節だった。
場所はK駅の駅ビル二階、喫茶「オリーブ」で。
当時わたしはK駅近くの小さな絵本専門店に勤めており、昼休憩でいつもこの喫茶店を利用していた。東側に窓際のカウンター席があり、その左端がわたしの定位置だった。
「あの、すみません。お隣いいですか?」
そう声をかけてきたのが、彼女だった。
読書中だったわたしは顔を上げて驚いた。なにせ海外のモデルさんのように素敵な人が立っていたからだ。短めのブロンドの髪と、若草色の瞳。それなのに流ちょうな日本語をしゃべっていた。外国人だと断定するにはあやふやな、不思議な人だった。
「ええ、どうぞ……」
わたしはミステリー小説を読んでいたが、とたんにどこを読んでいるかわからなくなった。女性はその間に右隣に座り、バッグを足元に置いた。わたしはあわてて本を閉じ、トレイに乗ったアイスコーヒーをすすった。まだ食べてないBLTサンドが、皿の上でじっとわたしを見つめていた。
「それ、美味しそうですね。私もそれ頼めば良かったな」
今のは、わたしに話しかけていたのだろうか? 隣を見ると、先ほどの女性がニコニコとわたしを見ていた。何と答えていいかわからない。あいまいに微笑み返す。
「ここからの眺め、いいですよね。もう満開だ」
やはり話しかけられている。寂しい人なのだろうか? 窓からは東口のロータリーと、その向こうの大きな公園が見えていた。公園内には桜の木がたくさん植えられていて、どこもかしこも桜色でいっぱいだった。
「この季節は、あまり好きじゃありません」
そう言ったことに、自分自身が一番驚いていた。
今となってはよくわからない。赤の他人に、そんな個人的な思いを突然打ち明けるなんて。普段のわたしなら絶対にしないことだった。
「どうして? 桜、お好きじゃないんですか」
わたしは口ごもった。実際その通りだった。桜は好きじゃない。なぜなら五年前のことを思い出すから。親しい人と死に別れたあの季節を。
「まあ、花見客で混みますからね、この時期は。私もそれほど好きじゃないかな。すいません、ペラペラと」
そう言って、女性はまた窓の向こうに視線を戻した。
しばらくして店員が女性の注文したメニューを運んできた。女性はアイスレモンティーとドーナツセットを頼んでいた。
亡くなった夏先輩もドーナツが好きだったな、などと思い出す。先輩はもっぱらチョコシリーズが大好きで、何個も何個もいろんな種類のチョコドーナツを食べて、その度に美味しい美味しいと笑っていた。あの頃が懐かしい。
「うん、美味しい! 当たりのお店だここは!」
思い出に割り込むように、女性の声がした。ええ、喜んでもらえてなによりです。回想はさておき、行きつけのお店のメニューが褒められるのは嬉しい。女性も笑顔でドーナツをほおばっていた。わたしも彼女に刺激されてBLTサンドを食べる。
「うん……美味しい。やっぱりここのごはんは最高」
「だよね!」
また急に話しかけてくる。しかも今度は馴れ馴れしく。
「あ、ごめんなさい。私この近くの英会話教室で講師をしている、ハンナと申します」
「ハンナ……さん?」
「はい。ずっとこのK駅付近に勤めてたのに、食事処をあまり開拓してこなかったなーと思いまして。この店は今日初めて来たんです」
「そうでしたか」
「あなたは、このあたりにお住まいですか?」
「いえ、わたしもこのあたりに勤めてて」
「あのう、もし良かったらお名前をうかがっても?」
「えっ?」
「またお会いするかもしれませんし。ね?」
どうしよう。新手のナンパかしら。警戒していると、彼女はバッグから名刺入れを取り出して、一枚差し出してきた。
「はい。どうぞ。英会話に興味なくても、私に興味あったら電話してください」
「どういう意味ですか?」
「私は気に入った人には全員、こうして連絡先を渡してるんです」
「はあ、気に入った人……」
「ね、名前教えてくれません?」
わたしは無視したが、結局さして日も置かずに「山田萌枝」という名前と電話番号を彼女に教えることになってしまった。別に仲良くなろうなんて思ってなかった。でも何度もこの喫茶店で会ううちに、次第に情が移ってきてしまったのだ。
窓の向こうの桜は、いつのまにか葉桜となっていた。
「モエさんっていうんですね。ようやく教えてくれた」
「あなたがしつこいからです」
「そんなひどい。同じお店を利用してる仲じゃないですか」
「会ったらあなたいつも挨拶してくるし、名前を知らないままじゃ、なんかよくないかなって……」
「ふふ。素直じゃないなあ」
「素直じゃない、ってなんですか? あなたが最初に……」
そこまで言ったわたしの口元に、細く長い人差し指があてがわれる。
「あなた、じゃなく、ハンナと」
「ハンナ……さん」
「呼び捨てでいいですよ。私もモエ、って呼びますから。ね?」
なんで呼び捨てしあわないといけないんだろう。でもわたしたちは、知り合いという枠を超えて、ここでともに食事をする仲になっていた。
「あの、前から聞こうと思ってたんですけど、ハンナ……はどこの国の生まれなんです?」
「生まれ? 日本ですよ」
「え?」
「父はフランス人で、母は日本人ですが、私は日本で産まれ、日本で育ちました」
「そうだったんですか」
「意外でしたか?」
「まあ」
「見た目は完全に外国人ですもんね。家ではフランス語と英語が飛び交ってましたし、この仕事についているのもあって、生徒さんにもなかなか信じてもらえないんですよ。でも学校は、普通の日本の学校に通ってました」
「だから日本語が自然なんだ」
「はい。それもよく驚かれます」
「ごめんなさい。でもハンナ……は初めて見たとき、一瞬外国のモデルさんかと思ったの。背が高くて、すらっとしてて、顔立ちもなんていうか、この辺で見たことないような整った顔だったし、目も――」
思わず本音が出ていた。しかも、後半はかなりくだけた口調で。だからだろうか。ハンナも同じように、スイッチが切り替わったらしかった。
「私だって、モエを初めて見たとき、なんて清楚で美しい女性だろうって思ったよ。身なりがきちんとしていて、窓際で本を読んでいる姿なんか、物憂げでさ。メガネしているのもとても知性的に見えたし。よくこんな突然話しかけてきた人に、しかも外国人の見た目の私に、ちゃんと返事してくれるなと思ったよ。優しいね、モエは」
「優しくなんか。ハンナが、しつこかったから……」
「ふふ。嫌なら無視すれば良かったのに。そうじゃなかったってことでしょ」
「あのね……」
なんでこう、彼女は余裕なんだろう。生まれつきこんな見た目なら、学校でもさぞかしモテていただろうな。というか、彼女はその……異性と……。
「あの、ハンナ」
「なに?」
「あなたって、その……」
どうしよう。聞くべきだろうか。こんなセンシティブなこと。でも聞いておかないと、わたしは彼女のことを「間違って」見てしまいそうだった。
「なに、聞きたいことがあるなら何でも言って」
「じゃあ聞くけど。あなたって、同性愛者?」
「うん。何か問題?」
「あ、いえ。それならいいの」
「いいって?」
「……」
心臓が飛び出しそうだった。なんで、こんなこと聞いてしまったんだろう。バカだ。恋することなんて当分ないと思ってたのに。五年ぶりにこんな気持ちになってしまった。
「ええと、信じられない? 前の彼女の写真もあるけど」
そう言って、ハンナはスマホのロックを外し、ギャラリーに収められた写真を画面上に表示させた。そこには、病院のベッドらしきところに寝そべっている髪のない女性が映っていた。
「えっ?」
「モエだから見せるんだよ。五年前に亡くなった。彼女は職場の生徒さんだった……」
なんと言っていいかわからない。それ以上に何か、違和感があった。
そうだ。わたしは、この女性を見たことがある。夏先輩の入院する病院で。そしてもっと気になるところがあった。その女性は、淡い緑色の宝石のネックレスをしていたのだ。
「これって……」
「ん? モエ?」
「ごめんなさい。そろそろ昼休憩が終わる時間だから。またね、ハンナ」
「モエ?」
わたしは荷物をまとめて急いで席を立った。食器の乗ったトレイを店員に返却する。ハンナが戸惑いながらわたしの名を呼んでいた。でも、もう彼女のいる方向を振り向けなかった。
速足で職場に戻る。店に着くと、店長はレジ前で接客中だった。わたしは軽く会釈してバックヤードの更衣室に入る。ドアを閉めると、とたんにバクバクと心臓が鳴った。
「嘘でしょ」
つぶやくと同時に、チリリとうなじに痛みが走った。ネックレスの鎖が髪を巻き込んでいる。いつもの、あの痛みだった。この痛みは夏先輩を思い出す。ロッカーの扉を開けて裏の鏡を見る。
「同じ……」
ブラウスの中に隠していたチェーンを引き出す。金のオーバル型の枠にはめられた淡い緑色の宝石。ペリドットのネックレス。
これは死ぬ間際、夏先輩から譲り受けたものだ。なのにどうして、あの写真の女性が同じものをつけていたのだろう。もし、これがあの人のと同じものだったとしたら、二人はどういう関係だったのか。
わたしは夏先輩が好きだった。
でも、最後まで気持ちを伝えられなかった。そんなわたしに形見だと言ってくれたのに。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。ハンナにもこれからどんな顔をして会えばいいかわからない。けれど、いずれは聞かねばならない。そう思った。
彼女と彼女のペリドットについて。
【メモ】
・第一会場
・23pt、総合順位37位