第6回 川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます【連載版は完結済】
「ちょっと! このピラフ冷たいんですけど」
「申し訳ございません。すぐに新しいものをお持ちいたします!」
お客様を前にしてわたしはひたすら頭を下げつづけていた。
騒がしい店内。
もう何度目だろう。「調理ミス」の尻拭いをさせられるのは。
「失礼、いたしました……」
うんざりした気分のまま裏に戻る。
キッチンでは男の先輩たちが忙しそうにフライパンを振るっていた。
「あのー。これ、冷たいってクレームがあったんですけど……」
「ああ?」
先輩の一人が不機嫌そうに受け取り口にやってくる。
「ったく、こんな忙しいときによ。あーっ、もったいねえ!」
乱暴に皿を受け取ると、料理だけをゴミ箱に投げ捨てる。
わたしはその様子を白い目で眺めた。
(もったいねえって……そもそも先輩がきちんと作ってればこんなことには……)
ブツブツと心の中で呟いていると、そう思っていたのが顔に出ていたのか、先輩が恐ろしい目でわたしをにらみつけてきた。
「ああん? なんだその顔は。文句あんのか」
「あ、いえ……」
「はー、ったく客も細けえよなあ! ちっとぐらい我慢しろってんだ」
「ハハッ、言えてる。せっかく作ったのにな」
「んっとだよ」
お客様から聞こえない位置だとはいえ、わたしはそんなことを言い合う先輩たちにハラハラした。
「と、とにかく。もう一度ちゃんと温かいもの作ってください」
「わーってるって。うるせえな……。てかホレ、次のこれ、早く持ってけ」
「……はい」
出来上がったばかりのカルボナーラを受け取り、わたしは次のお客様の元へと持っていく。
途中、汚くなりはじめたドリンクバーが目に入る。だいぶ悲惨なことになっていた。けど、悠長に掃除をしているヒマはない。なにしろ人手が足りないのだ。
だからわたしは今日も「見ないフリ」をした。
そしてまたお客様の元へ行き、満面の笑みを向ける。
「お待たせいたしました!」
ここは埼玉の片田舎にある、国道沿いのファミリーレストラン。
駐車場が広いのでそこそこ客の入りがある。でも……いっつもこうだ。毎日こう。
「はあ……」
いい加減、自己嫌悪で死にたくなってくる。
もっと、ちゃんとしたいのに。
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「お疲れ様でしたー」
タイムカードを切って、ようやくわたしは解放される。
私服に着替えて、店の裏に停めてあった白い自転車にまたがる。
国道では、車がブンブンうなりをあげている。
相変わらず土埃がひどい。
道の両側にはどこまでも広がる田園風景。
遠くには、荒川の堤防。
傾きはじめた日。
そして、三月上旬の風。
「うー、さぶっ」
わたしこと羽田真白は高校卒業後、フリーターとしていろんなところに勤めてきた。今のファミレスに落ち着いたのが二年前。
(はー、なんだかんだ二年も続いてるなあ……)
ぼんやりとそう思いながら、荒川につながる支流沿いの道に曲がる。
左側には住宅、右側の川沿いには桜並木が続いている。
この先の橋を渡れば、自宅だ。
着信音が鳴った。
きっと友人からだ。
友人たちはみんな大学に行き、キャンパスライフを謳歌して、それなりの会社に勤めていた。彼氏ができたとか、どこどこに旅行に行ったとか、そんな報告をいつも聞かされる。
けど――。
わたしはこの桜が満開になっても、次の春が来ても、きっと今とあまり変わらない。
変わりたくても、どう変わればいいのかわからないのだ。
わたしは十年前にいろいろなものを失って、それから、代わり映えのない日々をずっと繰り返している。
「ん?」
家の前に着くと、川向こうに見慣れない車が走っていくのが見えた。
水色のワンボックスカー。
「えっ?」
それは思いがけないところで停まる。
家の真向かいには、真っ白い外観の古い洋館が建っていた。
しかし、その家は今は空き家だ。
「え……? なにあれ、泥棒?」
「泥棒、じゃないわよー真白。今日あそこに引っ越してきた人」
「お、お母さん!?」
声がした方を振り返ると、玄関先で草むしりをしている母がいた。
「あんたがバイトに行った後にねー、挨拶に見えたの、その人。さっきようやく業者さんたちも帰ったみたいだし、あんたもご挨拶してきたら? ちょうどほら、また戻ってきたみたいだし」
「いや、わたしはいいよ……」
そう言うと、母はニヤニヤしだした。
「ほんとにいいのぉ? その人が……九露木さんの息子さんでも?」
「え? 嘘……!」
九露木。
その名を聞いた途端、わたしは自転車を放って走り出していた。
胸が、痛い。
息が、切れる。
水色のワンボックスカーはすでに洋館の右手のスペースにバックで停めようとしていた。わたしは急いで橋を渡り、車の前まで行く。
「あ……」
ちょうど運転していた人と目が合った。
男の人はハッとしたようにわたしを見る。
ギッと音がして、エンジンが止まる。
そして、運転席からゆっくりと降りてくる。
「……真白?」
「青司、くん?」
目の前に、青司くんがいた。
九露木青司くん。
十年前に引っ越していってしまった、わたしの幼馴染。わたしの……初恋の人。
少し見た目が変わっていたが、間違いなかった。
サラサラの黒い髪に、眠そうな目。猫背気味の高い背。そして……この独特で落ち着いた、低い声。
もう、会えないと思っていたのに。
世界がぱっと色を取り戻したみたいだった。
青司くんの周りだけが、色鮮やかに輝いて見える。
「ひ、久しぶり……」
「久しぶり」
そう言い合うと、お互い無言になってしまった。
彼はこの十年ですっかり大人になっていた。
わたしより三歳年上だから……今は二十八、か。
わたしはあまりにも嬉しくて、今にも倒れてしまいそうだった。
でも、そうならないように、なんとか次の言葉をつむぎだす。
「さ、さっきお母さんから聞いて。び、びっくりしたよ……」
「ああ。いろいろあってね。また、ここで暮らすことになったんだ。とりあえず、中で話す?」
「うん……」
青司くんは助手席から買い物袋を二つ取り出すと、表の方に回った。
大きな玄関扉。
その横には、「お絵かき教室」の看板が掲げられている。
すっかり色あせてしまっているが、青司くんのお母さんの名前もまだそこに書かれていた。
「これ……」
「ああ。俺も今日、これ見て懐かしいって思った」
鍵を開けて中に入る。
すると、そこには昔のままの景色が広がっていた。
「……懐かしい」
アンティーク風の木の机が五つあって、それぞれの上に椅子が四つずつさかさまに乗せられている。
わたしはかつて、ここの教室に通っていた。
そこには優しい水彩画家の女の先生と、その子どもの幼馴染がいた。
十年前に突然消えてしまった、わたしの心のよりどころだ。
何も変わっていない。
床はワックスがかけられたばかりなのか、飴色に輝いていた。
窓もどれもピカピカで、十年空き家であったとは思えないほどの綺麗さを取り戻している。
業者が来たと母が言っていたけど、これはなるほどプロの技だ。
奥には手洗い場と、サンルームがある。
その先の庭にはいろんな草花が植わっていて。
左手には画材をいろいろ入れていた棚があり、その上の壁にはたくさんの絵が――。
「え……?」
それは、生徒たちが描いた絵ではなかった。今飾られているのは……あきらかにプロの絵。
しかも、おそろしく美しい水彩画だった。
計算された色彩、グラデーション。精密に描かれた人物や風景。
それは心が洗われるような絵だった。それと同時にひどく懐かしい気持ちにさせる絵でもある。
「青司くん、これ……」
振り返ると、彼もちょうどわたしを見ていた。
「ああ、それ俺が描いたんだ。これでも一応、画家だから」
「えっ、画家? 青司くん、画家になったの?」
「うん」
「すごい。これ全部、青司くんが……」
青司くんは照れたらしく、ささっと奥の方へ行ってしまう。
右奥にはカウンター式のキッチンがあり、その前には足の長い椅子が五つ並べられていた。
買ってきた食材を冷蔵庫に詰めながら、青司くんは電気ケトルのスイッチをポンと押す。
「今、お茶入れるから。そこで待ってて」
「うん……」
カウンター席に座ると、なんとなく昔のことが思い出された。
「ねえ。よくおやつの時間にさ、先生がいろんなお菓子とか飲み物を……ふるまってくれたよね。わたし、それがホントに大好きでさ……」
先生の手作りのおやつ。
もう一度食べてみたいと思うけれど、もうそれが叶うことはない。だって先生はもう、十年前に亡くなって――。
「はい、どうぞ」
「え?」
見るといつのまにか目の前に白いチーズケーキと、あたたかい紅茶が置かれていた。
わたしは思わず目をしばたたく。
「これ……」
「母さん直伝のケーキ。それと、昔と同じ銘柄の紅茶。良かったら、一緒に食べてみて」
わたしは胸がいっぱいになった。
「青司くん……」
「俺、昔母さんがここでやってたみたいなこと、したくなってさ。絵とおやつとみんなの笑顔……それに囲まれたいって思って。それで、ここに戻ってきたんだ」
青司くんは、そう言ってふわっと笑う。
その笑顔はとても優しくて。
「だから、ここでアトリエ兼、喫茶店を開こうと思ってる。良かったら手伝ってくれないか、真白」
【メモ】
・初参加作品
・第二会場
・16pt、総合順位23位
・企画終了後に連載→https://ncode.syosetu.com/n7115fm/