(4)活動指令 ファイルⅠ : あなた探し ②
堪えきれなくなった百合が、ゆっくりとことばを口にしはじめた。
「だけど、白井さんはそれを赦さなかった、っていうこと?」
「まあ、そんなとこね。白井さん、以前のようにやりましょうよって、詰め寄ったのよ。上の言うことばかり気にして、そんなの石黒課長らしくないって」
「はっきり言ったわけだ」
百合にも、わからないではなかった。
「ちょっと言い過ぎた、かも」
「それで飛ばされた」
「事あるごとに、昔みたいに夢のある仕事をしましょうよって食い下がっていたんだけど、最近は諦めたっていうか、ちょっとくさってたの。だからね」
声が次第に小さくなってゆく。それと引替えに、幸子の表情に辛さの陰が濃く漂いはじめた。頬の上に、マスカラで長く整えられたまつ毛が幾筋もの細い影を落として、まるで心の乱れを伝えるかのように揺れていた。幸子としても、話さないではいられない思いの中で、言ってはいけないことばと闘っているに違いなかった。勢いに押されるだけの方が、どれだけ楽か。百合は、幸子が抱える闇の深さを慮るかのように、何も言わず窓の外に広がる街の灯に視線を游がせた。
一度は閉じられた幸子の唇だったが、胸いっぱいに溜めた息を吐き出すのと同時に、小さく震えながらも開かれた。
「もういい加減にしなさいよ、って言っちゃったのよ、あたし。もちろん、白井さんが間違ってるって思ったわけじゃないの。でも、そんなふたりを見ているのが辛くって・・・」
後悔は、その先にまで続いていた。
「そしたら、石黒さん。みんなだってお前の言うことには付いていけないって思ってるんだ、って言いきったのよ。あたし、その後で何にも言えなくなっちゃって、それで、白井さん・・・」
「サッコのせいじゃないよ」
「でも、石黒さんにそんな言い方されちゃうと、あたしだって」
涙声を滲ませる幸子。納得など、できるはずがなかった。過ぎてしまったこととはいえ、未だに動揺を抑えきれない。その姿に、もしもそこに自分がいたらどうしていただろうかと、想像しても答にはならない自分の姿を重ねようとしている百合。幸子の頬を伝う、一筋の涙。モンドは、そこに事の全てを見た気がしていた。
気を取り直すには、時間がかかる。それでも「うん、またちょくちょく会おうね」と、互いに手を取り笑顔を向け合っていた。
モンドが「どうして女の人たちは、すぐ手を握り合ったりするのでしょうねえ」と、不思議なものでも見るような目を向けていた。それをどう受け取ったか、サブが「おいらの手を握ってくれたっていいのにさ」とニヤつく。モンドは、呆れるのも面倒なことだと、何も言わないことにした。変に反応しようものなら、サブの思う壺だと知っていたからだ。
いつものように、まず幸子が乗る三鷹方面に向かう中央・総武線の16番ホームに向かった。百合が乗る水道橋・秋葉原・千葉方面行きの中央・総武線の13番ホームは間に線路を挟んだ隣のプラットホームだから、幸子を見送れば、また階段を下りて地下通路の先の階段を上ることになる。ちょっとした手間だが、これがふたりで会った時の流儀というか、習慣だという。程なくやってきた黄色い電車が、多くの乗客を掃きだし、また呑み込んでいく様子を百合は少し引いた位置から見届ける。吊革につかまった幸子が、人に押されて苦痛の色を浮かべている。発車を告げるメロディがホームに流れ、ドアが閉じられた。どちらからともなく、手の平を胸の前に立てて小さく振り、笑みを交わした。カタンと小さな振動を残して、電車が動き出した。
その時だった。突然、幸子の顔が強張り、見開かれた眼の下で左の手の指先が口元に当てられた。視線が、閉じられたガラス窓を通して、百合とは微妙にずれた場所に注がれている。百合は、その意味が掴めずに、ただ周囲を見回すだけだった。後ろは、15番線山手線外回りのホーム。その先は、これから百合が向かおうとする線路を挟んだ隣のプラットホームで、手前側が14番線の山手線内回りのホーム。今日も人の流れが絶えない。
「あっ」
その中に、ツイードのスーツに身を固めたひとりの男を認めた。その顔を目の当たりにしたモンドも、驚きを隠せずにいた。
「サブ、あの男です。娘が死ぬ直前まで一緒にいた、ほら、コーヒーを飲んでいたあの男です」
思いがけない展開に、サブとしても「それにしたって、突如として現れたこの男は、いってえ誰なんでやんすか」と、ただ狼狽えるばかりだった。
「誰って・・・」モンドは「ふたりの娘達が知ってる誰かなんじゃないですか」と呟いたところで、はたとひとつのことに思い当たった。そして、「あっ」と息を呑む。
「もしかして・・・」
石黒か白井のどちらかということであるなら、年恰好からして、百合の同期の白井とは思えない。
「シニア プロダクト コー・・・えーと何といったか、その石黒じゃないですか」
「えっ、いきなりのお出ましですかい」
サブも驚きの声を上げていた。
「だから急展開というやつなのです。いいですか、目を離しちゃいけませんよ」
男が、電車の入選を告げるアナウンスに耳を傾け、列の後ろに付く。既に走り出していた百合が階段を下り、その先の階段を今度は駆け上がる。その後を追う、モンドとサブ。目の前に滑り込んできた電車。男の姿を求めて、百合がホームを速足で歩く。開いたドアの前にその男が立っている。乗り込む後を追うように、百合も続いた。何人もの発車間際の駆け込み乗車。背中を押されて、胸の前に組んだ百合の両腕が男の背中を突き上げる。
モンドとサブも、閉まりかけた扉の隙間から潜り込んだ。
(五)
「石黒課長」
百合の声が肩越しに男の名を呼んだ。首を回して百合に対面した石黒の顔に、驚きの色が広がった。モンドが「やっぱり」と、人の谷間に埋もれているサブに目配せをして大きく頷く。
「サブ、ここから先は死へと向かって一直線のはずです。どうやら理由は、信じ続けてきた人間に裏切られたからということのようです。二川に続いて、石黒とかいうこの男にまでとなれば、この娘にとっては、生きる目標を失ったも同然なのでしょう。こうなると、せめて信頼していた・・・、というよりも、熱い思いを寄せてきた白井という男だけでも助けなければ、という気持ちになるのもやむを得ないことかもしれません。どうやら、自分の命を懸けてでも、ということのようです。いいですか、一時たりとも目を離してはいけませんよ」
急な展開に度肝を抜かれていたサブも、モンドの勢いに押されて「がっ、合点だ。やっとこさおいらの出番ってわけだ。待ちくたびれたぜぇ」と、安請け合いを超えた空回りのことばを口走っていた。
「水沢さんじゃない。いやー、久し振り、今どうしてるの。それにしても、随分遅いね」
「ええ、まあ。それより、石黒さんこそ。会社帰りじゃないですよね」
「ああ、ちょっとね」
「あやしい、あやしい」
「そんなんならいいけど、相手は会社の人間。たまには東京を案内するかってことになってさ、新しくうちの部に加わることになった外人連中とちょっとね」
「フランス人ですか。本当にそういう会社になっちゃったんですね」
「ああ、すっかりな」
石黒の話す会社の様子は、モンドの耳には悪いことばかりでもないように聞こえる。
「合理性が強く出て、却って良かったんじゃないのか。ウチみたいに、古い体質から抜けきれずにいるような会社にとっては」というのが、石黒の見方だった。百合としても、今までとは違った国際企業としての刺激も加わって、結構楽しくやっているよと言われては、何が本当のことなのかが分からなくなる。しかし、そんなことはどうでもよいことだった。知りたい真実はひとつだけ。白井とのことだ。
「ご迷惑でなければ、渋谷でお茶でもしませんか。ちょっとだけ」
百合は、一緒に働いていた頃もかくやと思わせる甘い声と目配せで、石黒を誘った。
「ああ、今日は飲み過ぎたから、コーヒーくらいならね」
渋谷駅で降り、ハチ公前のスクランブル交差点を人の波に飲み込まれるようになりながら渡った。ビルの二階の喫茶店は、思いの外ひっそりとしている。
サブに「あー、ここだ、ここだ」と言われるまでもなく、そこは、移民局の管理官がモニターを通して見せてくれた、あの喫茶店だった。
積もる話も、いざとなると言葉にならない、ということか。季節の変わり目に見る不順な天候の話や、近付く総選挙の話題などに終始した。それでも、このまま無駄な時間を過ごしてはいられない。
「みんな元気にしてますか」と、口火を切った。時間も遅い、「白井さんとか、やっぱり頑張っているのかしら」と、名前を上げることに躊躇っている暇はなかった。ここが勝負と、畳み掛けるように、返答を促す。
「きっと、相変わらずなんでしょうね」
瞬間、石黒の瞼が反応したかにみえた。それでも、日々競争と戦闘に明け暮れる一流企業のマネージャーだ、こんな時にも付け入る隙は与えない。危うい心の動きを隠すことなど、お手の物なのだろう。
「部下を思う気持ちと、組織を守る管理職の立場、この両立が結構難しくてな。中間管理職に、悩みは付き物さ」と、理想と現実の狭間に揺れる苦しさを語ることも忘れない。その上で、「白井も変わっちまってな。この頃は言うことを聞かなくなったし、何かといえば文句ばかりだ。挙句の果てにやる気をなくしたみたいでさ。昔のように張り切って仕事をしようって声をかけても、聞いているんだか、いないんだか」と、百合の質問への答えを遠回しに口にする。
「えっ」と息を呑んでみせ、「本当に、あの白井さんがですか。石黒さんとはいい関係でやっていたから、私なんかも羨ましいなって思っていたんですよ」と、はじめて聞く話に驚いたとばかりに、顔を左右に振って目を見張る。
それにしても、話が違いすぎる。
百合は、スチールで縁取られたガラスのテーブルに置かれた石黒の左腕の袖口を見つめながら、「信じられないわ、嘘でしょう」と、問い質した。
「たしかに、昔しか知らない君なら、そう思うだろうな。それが、最近はさっぱりだった」
真実が何処にあるのか。モンドにとっても、それが謎であることは変わらない。
百合は、石黒の顔にそれを探った。そして、何も知らないと思われているのをよいことに、更に一歩踏み込んだ。
「さっぱりだ(、)っ(、)た(、)、なんて。今は一緒のチームじゃないみたい。まさか、そんなことないですよね」
「ああ、・・・」
小さく、石黒の左手首で光を放つ腕時計のブレスレッドが、下で受けるソーサーの縁と同じ柄に彩られた輸入物のコーヒーカップに触れて、冷たく硬い音を立てた。
モンドも、「おや、これは」と、気が付いた。たしか、以前目を通した資料にも簡単に触れられていた。毎年ひとり、その年に最も優れた成果を上げた管理職だけが手にすることをゆるされる、会長賞の記念品だ。
「そうかあ」
百合の目を通して見た、背中を向けて受け取る男の姿が思い出される。あれは、この男だったのだ。そして、それは使命感に燃えた部下が中心となってまとめた『新リサイクルシステム構築プロジェクト』の提案に対する表彰式の場面だった。国産のシンプルなデザインの時計だが、商品名にメーカーの名が冠された、疑いようのない高品質が評判の逸品である。裏蓋に刻まれたK.I.は受賞者石黒賢吾のイニシャル。その下には年度を示す四ケタの数字と『会長賞』の刻印が押されている。〝明日を約束する葵の御紋〟と、誰からも羨望の眼差しを向けられる所以である。
「今はまだ一緒だけど、実は、あいつ四月から広島なんだ」
「えっ、広島って、ディーラーに出向ですか。もしかして、営業・・・」
百合はどこまでも惚けて、驚いて見せるのだった。
この腕時計は、対象となる活動をリードした責任者が手にするというのが、慣例だった。そこに、異議を唱える者はいない。しかし、この時ばかりは違っていた。
さすがに正面切って口に出す者はいなかったが、プロジェクトチームのメンバーに限らず事情を知る者なら誰でもが、その部下の方こそそれを手にするのに相応しい人物だと、疑うことをしなかった。しかし、ルールはルール。彼は、管理職ではない。同期の中だけでのことではあったが、「もったいない」のことばが飛び交い、残念がられた。そんな声が、石黒の耳に届かないはずがなかった。
式には参加していたが、職場が分かれる直前のことだっただけに、その時の騒動に百合は巻き込まれていなかった。ついさっき、幸子から聞かされて、「そんなことがあったっけ」と、首を捻ったばかりだ。
それなのに、石黒はこれ見よがしに左腕を振りかざしている。百合の驚きがこの一点にあることは、疑いようがなかった。
そう言えば、幸子が「石黒課長は、自分の出世と引き換えに、大切な部下を手放したのよ」と、言っていたのをモンドも耳にしていた。ということは、この男の部下であるその社員こそが白井という男で、辻褄が合う。
本当に、そんなことができるのだろうか。モンドは確かめないわけにはいかないと思った。しかし、どうすればそれが可能なのか、その答が得られない。
「まあディーラーには違いないが、営業じゃなくて、広島中央販売の本社、業務部だよ。車の仕入れだとか営業所への配車なんかを指揮・管理する部署で、あいつ、責任者になるはずだ。週が明けたら一度現地に飛んで、挨拶だけでも済ませて来るようなことを言っていた」
石黒の話は、白井のやる気の無さにその原因があり、自分で自分の首を絞めたということに終始した。広島行きも、やむを得ないことだと。その語り口は、あくまでも穏やかだった。それでも、百合の耳には嘘としか聞こえない。それに加えて、せっかく救ってやろうと手を差し伸べたのに、白井は見向きもしなかった、とまで言った。そこまでして自己防衛に走る気持ちが、百合には理解できなかった。
「行った先で気持を取り戻せなかったら、もう本社に戻ることはないだろう」という石黒のことばに、百合が「それは違うわ。あなたが白井さんを葬り去ろうとしているんじゃない」と確信したのは、想像に難くない。
モンドも、「たしかに幸子という女性は百合の親友のようですから、嘘をつくはずがないと信じるのは自然なことだと思います。ただ、ここまで思い込みが激しいと、正直、不安にもなるのです」と、口を開かずにはいられなかった。サブも、「違えねえ」と、うなずいている。
「それじゃ、死んじゃったようなものですね、白井さん」
さすがに、石黒に殺されたようなものだとまでは言わない。力を失った目で、ウインドー越しに繁華街の夜景に浮かぶビルボードを見上げた。ライトアップされた板面を飾る、人気タレントの大型ポスター。その笑顔に、白井の優しい眼差しを思い出していたのかもしれない。周囲では、ネオン管の光がリズミカルに踊っている。添えられた蠱惑の彩りが、口元の艶めかしさを際立たせる。百合は、目を閉じ、唇を噛みしめた。そんな姿を、石黒はどのような思いで見詰めたのだろうか。
「この石黒という男は、かつての百合の上司です。この娘が何を感じているかくらいのことは察知したに違いありません。これ以上話しても無駄だと踏んだのではないでしょうか」
モンドの見立てに、サブも倣う。
「これ以上付き合ってても、面倒臭くなるだけってことでやんすよね」
百合の眼が、石黒の顔の上で右へ左へと行ったり来たりしている。諦め切れずに、自分にできることはないかと、今も考え続けているようだった。百合には石黒の顔が、この世のものとは思えないほどにおぞましい、まるで鬼のように見えていたのではないだろうか。
石黒が、「それじゃあ、また今度ゆっくり食事でもしよう」と伝票を手に席を立つ。その顔を、睨み上げる百合。モンドは、そこに並々ならぬ女の決意を見て取った。
さすがのモンドも、驚きを隠せない。
「この娘が、ショックから立ち直れないほどのダメージを受けたということはわかります。自分が信じてきた者たちに、ことごとく裏切られたと思っているのですからね。それにしても人間は、死のうという気持ちに、そう簡単になれるものでしょうか。わたくしには、理解できないのです」
頭を傾げるモンドに、サブも「自棄を起こすにしても、そこまではねえ」と同意する。
「サブ。昔のこととはいえ、あの頃であれば、騙されようが裏切られようが、それならそれで必死に生きて見返してやる、と却って発奮したのではなかったでしょうか。ねえ、そうでしょう」
熱い語りが止まらないモンド。ところが、ここに来て、サブの様子がどうもおかしい。いつもであれば、「違えねえ。死のうってのは、チーットばかり飛躍し過ぎってもんだろう」と相槌を打つところだろうに、どうしたことか、顎に手を当てたまま何の反応も示さない。不思議に思ったモンドが、「おや、どうしましたか」と問うと、自信なさげに口を開いた。
「いえね、この姉ちゃんの目つきを見てると、自分が死のうってだけじゃなくて、この石黒って野郎を巻き込んで一緒に逝っちまおうと思ってるんじゃねえかと・・・、どうも、そんな気がしたもんでやんすからね」
モンドも、これには驚いた。目を丸くして、「どうしたのですか、サブ。おまえ、なかなかの読みではないですか。道連れ、というわけですね」と、思わず参った!と白旗を上げるのだった。もしもそうだとするなら、注意の眼を向けるポイントも変わってくる。
それに引き替え自分の考えの何と浅いことかと恥じ入った。それだけに、「ところが、天のあの侍オヤジは、そんなことをこれっぽっちも匂わせなかった。ここんところが、どうにもおいらにゃ解せねえんだ」と言われた時には、「・・・・・・」、繋ぐことばも失った。
驚くべき洞察力と記憶力。このままでは、モンドの立場がない。
「尤も、どうして石黒ってぇこの男を道連れにしようと思ったのかさえ、おいらにゃ見当もつかねえんだけどさ」
モンドは、このひとことに胸を撫で下ろしていた。
実は、サブも指示されたことであれば都合の良い結果に向けて段取りをつけるくらいのことはできたが、自分で考えるということには慣れていなかった。ましてや、今回のように与えられた条件を繋ぎ合わせて隠された謎を解き明かすなどということは、これまでに一度も経験したことがない。行き詰まるのも、やむを得ないことだった。こうなると、いよいよモンドの出番である。ここで自分の見解を述べられないようでは、明日がどうなるか知れたものではない。
「それは、白井を守るためと考えるのが順当でしょう。たとえばですよ、このまま放っておいたら、白井は益々追い込まれてしまう。へたをすれば、それこそ石黒自身が予言めいた言い回しで語っていたように、立ち直れなくなってしまうかもしれない。それならば、逆に石黒の方を排除してしまおう。百合がそう思ったとしても、あながちあり得ないことではないかもしれません」
しかし、サブは首を縦に振らなかった。
「排除するって、一度はあんなに信頼を寄せていた石黒をでやんすか? そりゃ、ちいっとばかり無茶が過ぎるってもんでやんしょう」
そんな抵抗で、怯むモンドではなかった。益々エンジンの回転を上げて、「サブ、本当にそうでしょうか。たとえば、女がおまえを捨てて他の男に乗り換えたとします」と、謎を掛けはじめた。
「そいつぁ、たとえが悪すぎるというもんだ」
思い当たる過去がそう言わせたか、サブがモジモジと小さくなってゆく。
「どうです?それが遊びで付き合っていた女と、好きで好きでたまらないほの(、、)字(、)の女とでは、どちらが悔しいか、よーく考えてごらん」
いくらモンドのことばとはいえ、「考えるまでのこともねえや」と目を剥いて、「惚れた女に決まってらあ」と答えないではいられなかった。その声の勢いが、モンドの顔にニヤリと笑みを浮かばせる。そして、伸ばした右手の人差し指をサブの眉間にぴたりと当てた。
「それだ。それが答えです。思いの深さに、反動の大きさは比例するのです。百合にしてみれば、信頼していただけに、裏切られたショックは隠せない。ここは死んでもらうしかない。そう思うのが、当然のことではないでしょうか。おまけに、被害者が大好きな白井とくれば、尚のことです」
今度は、サブが恐れ入る番だった。
「おいら、このおっさんにはかなわねえや」
それでも、男として、このまま引き下がるわけにはいかないと、意地を見せる。
「だけど、管理官のオヤジが言うことに嘘は無いってんなら、結局百合はひとりで死んでゆくって、そういうことでやんすよねえ」と、思いつく限りの抵抗を試みることを忘れなかった。
それもこれも、モンドにとっては想定内のことだった。
「差し違えても、必ずふたり揃って死ねるという保証はないのです。たとえ、崖から身を投げたところで同じです。運び込まれた病院で、ひとりだけ息を吹き返すということも珍しいことではないでしょう」と、見てきたようなことを口にする。軽くいなして、サブの口をつぐませるくらい、モンドにとってはたやすいことだった。
だからといって、自分でも全てが納得できたわけではない。放っておいても石黒が死ぬことはない、管理官はそれを知っていたから、百合だけを救うことに傾注しろと言ったのか。はたして、実際の現場に立った時に、そんな割り切った行動がとれるものなのか。
「まさか、百合の殺意に気付いた石黒が反撃に転じて、ということではないでしょうね」
それをどうやって止めろというのだ。顏にこそ出さないが、モンドとはいえ、混乱せずにはいられなかった。
上目遣いの百合の目が、石黒の顔を捉えて離さない。
「もう少し、石黒さん、もう少しだけ。いけませんか」
モンドさえ予期しなかった、急展開である。
一瞬、石黒の左手首で、まるで魔が差したことを告げるかのように、あの腕時計がキラリと光った。
「いやあ、いいけど、キミは大丈夫なの」
石黒の声が床を這う。心にもない躊躇い含みの言葉で、百合の心の内を探った。それと同時に、自らの心に灯る理性の火を吹き消した。
それは、サブの目にも、明らかだった。
百合が、そんな石黒の下心を逆手に取った。まるで目の前の獲物に止めを刺そうとするかのように、濡れた視線で、誘うようにせがむように、石黒の顔を舐めまわした。
「少し飲みませんか。こんなことってそう度々あることじゃないんですもの。このまま帰りたくない、なんて言ったら叱られちゃうかしら」
モンドが、ゴクリと唾を呑み込んだ。その音が聞こえてしまったのではないかと、恐る恐るサブの顔を横目で覗き見る。
「いよいよ、この娘はやる気のようです。さあ、どうしたものでしょう」
サブにも、この状況が尋常ならざるものであることくらいは、容易に察しがついた。
「それにしても、この娘がこう出るとは思ってもみなかった」
何処へ行って何をしようとしているのかと想像するだけで、サブの声は上ずった。何とも情けない。
「これじゃ、思いを寄せる白井に合わせる顔もねえや」と、余計な心配までしている。
普段なら、笑って調子を合わせるモンドだったが、今となっては、はしゃぐサブに付き合っている余裕もなかった。
「んー?」と唸っては、考え込んだ。
「白井かあ・・・」と、意味なくサブのことばをなぞりながら、目を閉じた。と、そこに閃くものがあった。
「そうだ、確かめなくてはいけないことがあったのでした。サブ、おまえには悪いけれど、ちょいと白井という男のところに飛んで行ってはもらえないだろうか」
「えっ」と驚いたふりをして、わかっていながら「白井って、このネエチャンのお気に入りだっつう、あの男のことですかい」と聞き返してくる。面倒臭いと思ったときの、サブの悪い癖である。それをモンドが、「当たり前のことを言うんじゃありません、いったいどこに他の白井がいるというのですか」と叱りつける。ふたりの間で、こんなやり取りが、何度繰り返されて来たことか。
「わたくしにはどうにも腑に落ちないことがひとつあるのです。この娘、勢いばかりで、考えることに緻密さが感じられません。聞いた話に気持ちを揺らしているばかりで、当の白井本人がどう感じているのかを、一度たりとも確認したことがないのです。もしかしたら、反対に石黒を陥れようとしているのが白井だったということも、あり得ないことではないでしょう。まあ、そこまでではないにしても、このままではどうにも危なっかしい。そんな気がしてならないのです」
「誤解ってやつですかい。まあ、若い女なんてのは、どうせそんなもんじゃねえかなあ」
「それにしてもですよ、死のうか殺そうかという時に、それはまずいというものでしょう。わたくしたちにしたところで、それでは手を打つ段になっても、決断する拠り所さえ持つことができないということになりかねせん。そんなことで使命が果たせるほど、この仕事は甘くないと、わたくしは思うのです」
時間は、ほとんど残されていない。やにわに慌てだした、モンド。サブも、億劫がっている場合ではなくなった。
「そこで、おまえに白井の気持ちを探って来てもらいたいのです。ほら、覚えていますか、管理官が言っていたではないですか。関係する人間であればという条件付きではありますが、ちょいと頭の中で念じれば、何処へでも飛んで行けると。さあ、ものは試しです。目を閉じて白井、白井と、二、三度念じてみてごらん」
言われるままに目を閉じて、サブは白井の名を唱えつつ、そいつが今いる所に行かせてくれと念じてみた。するとどうだ、瞬時に姿が見えなくなった。後には、煙ひとつ残されていない。
モンドは、百合と石黒、ふたりの後を追って店を出た。見れば、石黒の腕が百合の背中に回されている。そこに、思わぬハプニング。
まるで、ふたりの行く手を阻もうとでもするかのように、ひとりのヨッパライが右に左にと揺れる足取りでやって来た。百合の歩幅が一歩だけ狭くなったのを、モンドは見逃さなかった。声には出さなかったが、「ええーっ、ウソでしょう」とでも言っているような、微かな動揺がそこにあった。一瞬で、百合にはそれが誰であるかがわかったに違いない。それなのに、よけることなく左の肩で思い切りぶつかっていった。これには、モンドも驚いた。
ヨッパライは、歩道上に置かれた飲み屋の看板に足を取られ、呆気なく尻餅をついた。今度は、石黒が驚かされた。慌てて、「あっ、危ない」と百合をかばうように抱き寄せた。百合からすれば、ぶつかっていったのが自分の方だということを悟られては、面倒なことにもなりかねない。咄嗟に、よろけてみせながら、「痛い」と小さな叫び声を上げた。
百合の背中に回した石黒の手に、力が入る。それでも、このまま放置してまずいことにでもなったら・・・と気に懸かったか、男に歩み寄ろうとしていた。ダメ。百合の反応は、早かった。
「こんなだらしない男、放っておきましょうよ」と、石黒の手を引いて、先へと急がせた。
見捨てられた、哀れな男。その風体は、何処から見てもその辺のサラリーマンと違わない。あっけなく蹲り、電柱の街路灯から落ちる丸い光の中で、居眠りをはじめた。
「このままでは、電車も無くなって帰れなくなるでしょうに」
モンドは、やおら屈みこんで手を差し伸べた。しかし、今のモンドには触れることも、力を加えることもできない。
「悪いが、ここはどうしようもないのです」と、術もなく顔を覗き込んだ。その刹那、瞳に浮いた憐れみの色が、驚きのそれに変わった。
「えっ、ええーっ」と、思わず声を上げていた。百合が勤めていた会社で、今は部長に昇格したという営業の若林ではないか。百合は顔も見たくないと言っていたが、モンドに嫌う理由は何もなかった。何故か、親近感を感じていたくらいであった。やはり、このままにしていくわけにはいかない。それで、耳元に口を寄せて「こらこら、こんなところで寝ていたら死んでしまいますよ。ほら起きなさい、さあ目を覚ましなさい」と、念じてみた。するとどうだ、若林が何かに驚いたかのように目を開き、首を回して辺りを見回しはじめた。ところが、そこにあるのは先を急ぐ男女ふたりの後ろ姿だけだった。一時首を傾げて目をパチクリさせていたが、ブルッと身震いしたかと思うと矢庭に立ち上がり、赤提灯の下をフラフラと歩きはじめた。何が自分の身に起きたのかさえわかっていないようだった。
モンドは、「今日も接待ですか、あなたも自分なりに頑張っているのですね。春とはいえ、夜はまだまだ寒いですから、風邪などひかないように」と、見送った。
百合は二件目のパブで、カウンターに凭れるようにして石黒の声を上の空で聞いていた。辞めてしまった会社でのことでもあり、どうあがいたところで手の届く話ではなかった。
石黒が、「白井とは、たまには会ったりしているのか」と、聞いている。百合も、「辞めてからは一度も。もう昔のことは忘れないといけないですね」と、心の中の思いを素直に口にしていた。できることなら、忘れたくない。それでも、今日ですべてを終わらせると決断した。だから、わすれるしかないのだ。モンドには、そんな百合の心の内が、わかるような気がした。しかし、一方で「それでホントにいいのだろうか」と、何もかもを捨てて行かざるを得ない現状に、疑問を抱いていることも理解できた。
百合の唇が、小刻みに震えている。
きっと、みんなで過ごした日々の記憶を辿っているのだろう。沈黙の長さが、百合の思いの深さを表しているようだった。
向かいの席から、そんな百合の様子を石黒が見つめている。この男には、別の意味で、百合が覚悟を決めたように見えているに違いないと、モンドにも察しがついた。
化粧を直しに、百合が席を立った。既に心は定まっているのだろう、後ろを振り返ることはなかった。
ドア越しに漏れ聞こえる、百合の声。モンドは、耳を澄ませた。それは叫び声にも近かった。
「石黒さん。あなたは知らないことだけど、私、転職先で、あなたと同じくらいに素敵で、私に刺激を与えてくれる人に出会ったの。本当よ。いろいろなことを、私、その人から学んだわ。上司で、二川さんっていう部長だった。その人が会社を辞めた時に、私気が付いたわ。私は、その二川さんを通して石黒さん、あなたを見ていたんだって。だから二川部長のいない会社には何の意味も感じられなくて、ついこの間、私も会社を辞めたの。二川部長のような人を、つまり、あなたのような上司を探してこれからも生きていこうって思ったのよ。私が生きる意味を思う時、そこにはいつもあなたがいた。わかってもらえますよね」と、思いの丈を響かせた。
「だけど、本当はふたりとも、それだけの人じゃなかった。二川さんも、石黒さん、あなたも。最後は、自分のことばかり。そのことを知った時には、本当に辛かった。生きる力もなくなりそうだったわ。でも、あたしにはもうひとつだけ、本当に最後のひとつとして、生きる力の源があった。どうやっても、忘れられないあたしの宝物。そう、白井さん。でも・・・、聞けば、その彼もあなたに殺されようとしているというじゃない。こんなことってありますか。あたしにとって、彼は最後の砦のような人なのよ。だから、石黒さん、あなたをこのままにしておくというわけにはいかないの。それでは、私が大切にしているものを大切にしないということになってしまうから。あたしだって、自分自身に嘘をつき続けながら生きていくなんて嫌だもの。そんなこと、できるはずがないでしょう。だから私は、あなたのしてきたことに対してけじめを付けるって、決めたの。でも、あなただけなんていう卑怯なことはできないから、私、あなたを連れて一緒に逝きます。それが、白井さんを守る最後の手段であり、わたしが生きてきた証しを残すことだと思うから」
ここで、自分までをも裏切り者にするわけにはいかない。決断の宣言が、最後には泣き声になっていた。
席に戻った百合の顔に、最早迷いの色は見られなかった。
「キミも少し飲み過ぎたんじゃないのか。さあ、そろそろ出よう」
これまで聞いたこともない、声のトーン。紫色、それとも深い臙脂色。百合は頭をもたげながら、意味ありげな視線を送ってくる石黒の目をじっと見詰めた。
何度も喉元まで浮かんでは、その都度抑えてきた思い。それを口にするときがついにやって来たと、石黒は思ったようだった。唇が僅かに開き、舌先と前歯の隙間から這い出す掠れた声で「近くで、少し休んでいこう」と、囁きかけた。
「でも・・・、どこで知り合いに会うかも知れないから、この辺はちょっと」
それは、拒否のことばではなく、より現実へと引き込む誘いのことばだった。
「確かにな。とにかく出よう。JRで三つも行けば大丈夫だろう」
そのことばに、百合は腰を上げた。そして、おもむろに石黒の手を取ったかと思うと、急き立てるようにして店を出た。交差点を渡る人の波に揉まれても、その手を離すことはしなかった。言葉数が急に少なくなったことで、石黒は百合の心の中を覗き見た気になっていた。
人ごみにまみれてスクランブル交差点を渡り、ハチ公改札を抜けて山手線の目黒・品川方面行きホームに上がった。
百合の指先が、握られた携帯のメールに「幸子、何だかあたし面倒臭くなっちゃった。今日しかないから連れて行くわ」と打ち込んで、迷うことなく送信のボタンを押した。
それを見たモンドは慌てた。
「ここが決行の場所かどうかはわかりません。もしかすると、行った先でブスッと、ということなのでしょうか。それにしても、面倒臭くなったから男を道連れに死んじゃおうかって、そんなふうに思うのが当たり前だなんて、ついていけません。もう、わたくしにはそれをどうやって止めればよいのか、見当さえつかないというのが正直なところです」と呆れ、「サブ、今こそおまえが必要です。何をやるにもふたりは一緒、って約束したではありませんか」と、急に弱気を募らせて、縋ることばを吐いては右往左往するのであった。おまけに、自分で送り出しておきながら、「サブ、いったいいつまでそっちにいるつもりですか。このままでは、この娘、本当に死んでしまいますよ」と、責め立てるようなことまで言い出す始末。
挙句の果てには、「どうせこの地上では、赤子ほどの力も出せないというではありませんか。それでは、何もできないのと同じことです。そんなわたくしひとりに、あなたはいったい何をしろというのですか。酷い、あまりにひどすぎる」と、天の管理官を罵ることばまで口にしだした。
乗客もまばらなホームの縁に、最後尾のドアの位置を示すマークがペイントされている。その薄暗がりに、百合と石黒は二人並んで電車の到着を待っていた。
終電間際の山手線、幸い、すぐにやって来る気配はない。
いたたまれなくなったモンドは、あっさり逃げを決め込んだ。サブを迎えに行くという口実で。
「サブ、サブ、サブ」と唱えた上で、一心に、「サブが一緒にいる、白井という若者のところに今すぐいけますように」と念じた。
たちまちその姿は、闇にまみれて見えなくなった。
気がついた時には、サブの隣に立っていた。
「うわっ」と、サブが声を上げてのけ反った。
「なんだ、モンドのアニキじゃねえですかい」
いつものサブのノリに合わせてやりたいのは山々だが、モンドには余裕がなかった。
「いいから、早く結論を言いなさい」と迫る。ところが、サブは落ち着いたもので、「何を慌ててるんですかい」と、取り合おうとしない。おまけに、「上着のボタンを掛け違えていやすよ、アニキらしくもねえ」と、服の乱れまで茶化す始末だった。苛立つモンド。それでも大声を出すわけにもいかず、「じっ、時間が、時間がないんです。ここでの話は後で聞きますから、すぐに帰りましょう」と、今度は一緒に来るようにと手を引きはじめた。
「おっとっと、慌てなくても大丈夫でやんすよ」
「何も知らないくせに、何が大丈夫です。向こうでは、百合が今にも死に向かって突っ走ろうとしているのです。さあ、行きますよ」
落ち着き払ったサブに、付き合ってはいられない。引く手に、更に力を込めた。それなのに、「わかったから、手を離しておくんなさいよ。いいですか、おいら、こっちに来て気が付いたんだ。思ったときの思った人のところに来られるんだから、帰るときも同じに違えねえって」と、動こうとしなかった。さすがのモンドも息が切れてきた。それでつい、「そんなことを言って、保証できますか」と、責任を押し付けるようなことばを吐いていた。それなのに、「いや、そりゃやってみなくちゃわからねえけどさ、まず間違いねえ筈だ」と、返事は何とも心許無いものだった。
これでは、モンドの不安は拭い去れない。
「そんなこと言って、もし違ったらどうするつもりですか」と、ますます語気は強まるばかり。サブは、そんなことには慣れっこだった。
「アニキ、何言ってるんですかい。おいらが一度でも責任を取ったことなんかありやしたかい」
この男、おかしなところだけは、自信を込めて言う。
「ということは、今回もまた無責任に、ということではないですか」
「あたぼうよ。いつだって、サブに裏表なんかありゃしねえ」と、啖呵まで切っていた。
それはそうとして、思い出してみれば、たしかにあの管理官も同じようなことを言っていたのではなかったか。行きたい時に行きたい場所へ、それも僅かなら時間のずれも問題なしと。ということは、こちらに向かったときに時間を合わせて戻れば、まだ百合は死なずにいる、そういうことになるのかもしれない。ここは、それを信じてみてはどうだろう。モンドは、サブが語るこちらでの話に、じっくり耳を傾けることにした。
それによると・・・・・・
行き着いた先 まさにここがその場所というわけだが は、神奈川県は湘南の地元出身の人気バンドに因んで名付けられたビーチ近くにある洒落たパブの中だった。海からの風が、電線に引き裂かれて泣いている。不規則な陰影となった叢雲が、月の面を横っ跳びに通り過ぎてゆく。
見れば、気の合った者同士の飲み会だろうか、一番奥のテーブル席で、数人の男女が手に手にジョッキを掲げて話をしている。
「白井さん、もう向こうの家は見つかった?」
手前の椅子に座っている女性が、一番奥の男性の顔を見ながら問いかけた。
「ああ、販売会社の方で探してくれている。悪いところでもなければ、来週行った時に決めてくるつもりなんだ」
男は元気な声で答えた。まるで、明日の遠足を楽しみにしている子供のような目をしながら。どうやら、この男が白井という、あの水沢百合の口から何度もその名を聞かされた、悲しい運命の男に違いない。ウェーブのかかった髪の下で、切れ長の二重の瞼に囲まれた目が笑っている。明るくて、清潔感に満ちている。こんな若者なら、あの娘が心の中で思い続けるのもわからないではない。しかし、サブには自信がなかった。本当にこの男が白井か、と疑わないではいられなかった。どうにも様子がおかしいのだ。どうしても、上司に見捨てられた揚句に都落ちする、そんな人間には見えないのである。
「そうなんだぁ。いよいよだね」
よっぽど、こっちの女の方が悔しさを顔にも声にも滲ませている。サブは、この現実を前にして、すっかり混乱していた。
「いったい、どうなってるんだ、こりゃ」
挙句の果てに、隣の男までもが「羨ましいよなあ」と言いはじめていた。
「俺たちを置いていくつもりなんだよ、こいつ。ひとりだけいい思いをしちゃってさ。ついてる奴ってのは、どこにでも必ずひとりはいるもんなんだよなあ、ちくしょう」とテーブルを叩いて、今にも暴れ出しそうな勢いだ。
「何だよ、送別会を開いてくれるっていうから来たのに、これじゃまるで嫌われ者の追い出しコンパじゃないか。勘弁してくれよ」
そんなおどけたことばで、収まりが着く場の空気ではなかった。
同期とは思えないほど落ち着いた風貌の男が、白井の目を睨み上げるようにして、「なあ白井。今日はおまえを同期で送り出す送別会だ。それなのに、ここに小川幸子はいない。おまえ、その理由を考えたことがあるのか」と、謎をかけた。
「用でもあったんだろう、どうでもいいじゃないか、そんなこと」
「よくない。よくないんだよ、白井。おまえ、よく聞けよ。幸子はな、用があったんじゃないんだ。用を作って、逃げたんだよ。俺は知ってるんだ。ああ、何でも知ってる。幸子の奴は、何やら電話をしてたんだぞ、今日の朝、会社でな。そして、用を作ってこの送別会をキャンセルしやがったんだ。えー、何でだ。何で幸子はどっかへ逃げたんだ。わかるか、白井よう」
白井よりも、この話に驚いたのはサブだった。
「さっきから、こいつらの話はどうなってるんだ、さっぱりわからねえ。あの女は、ただ水沢百合に会いたかったから新宿まで飯を食いに行ったんじゃなかったのか」
答えられずにいる白井の頭に手を置いて、二、三度軽く叩きながらこの酔っ払いの若者は話し続けた。
「幸子はな、このよい子の白井君が憎かったの。おまえだけいつも最後はいい目を見るって事に、我慢ができなかったんだよ。この地獄のような現実から解放されて、ほとぼりが冷めるまで天国のような広島のディーラーで息抜きしてきなさいって、こりゃ誰だって文句のひとつも言いたくなるだろう。幸子は、おまえと自分を比べて、泣いてたぞ。あたし、もう耐えられないってな。わかるか、この気持ち。だから、アホ臭くて、おまえを見送るなんてことできなくなったんだ、あいつは」
白井も馬鹿な男ではなかった。
「そうか。ホントにそこまで感じていたのか」と、わかってやれなかった自分を悔やんでいた。そして、自分の今の気持ちを、素直に語りはじめた。
「でも、わかってくれ。俺は、つくづくダメな人間だと思わされたんだよ、本当だ。みんなみたいに、変わってゆく会社に合せて、自分を変えてゆくこともできないんだからな」
腹から突き上げる息を吐きながら、肩を落とした。
「大人だったら、自分はどうだとか、そんな面倒臭いこと言ってないで、周りに合わせてやってゆくのが当たり前だろう。俺だって、そんなことくらいわかるさ」
歯を食い縛り、目を閉じた。それが、いったい何を意味するのか。
「だけど、俺にはそれができないんだ」
沈黙に、誰も口を挟まない。
「だから、相手が気心の知れた石黒さんだっていうことに甘えて、自分の思いを貫き通した。最初は、石黒さんも怒ったさ、かんかんにな。でも、そのうち、わかってくれたよ、俺のことを。こいつはただ文句を言ってるだけじゃない、こういうふうにしかできない情けない奴なんだって。だったら、こいつが以前のように、やりたいようにやれるところに送ってやるしかないだろうって、八方手を尽くして、広島にその道を探してくれたんだ。だけど、これだけはわかってほしい。俺がそうなるように仕向けたわけじゃない。俺のそんな弱さを理解してくれていた石黒さんが、こいつはこのままじゃダメになるって、俺の知らないところでそうしてくれていたんだ。だから、出向を言い渡された時には、本当にびっくりした」
ゆっくりとではあるが、顔を上げて、白井は一人ひとりの顔に視線を注いだ。
「俺は、石黒さんには感謝している。命の恩人だと思ってる。ここに残るみんなには悪いけど」
告白。それは、信じられない内容だった。
「おいおい、白井は石黒にはめられたって、あの女言ってなかったか」と、頭を抱えるしかないサブだったが、矢庭に「そうか・・・」とパチンと指を鳴らして、首を何度も前後に折った。サブは、ここに至ってはじめて事の真相を理解した、と思った。
石黒は、白井を陥れたりしちゃいなかった。白井も、石黒のせいで切り捨てられるなどと恨んじゃいなかった。それでは何故。
すべては、小川幸子の、つまらぬ嫉妬と表現力のなさが生んだ誤解だったというわけだ。たったひとこと、「あたしも、自分に素直にしていたら、石黒さんに救ってもらえたかしら」とでも言えば良かっただけなのだ。
「石黒は悪くなんかねえんだ。幸子とかいうバカ娘のせいで、百合が勘違いをしているだけじゃねえか」
何のために百合は死のうとしているのか。サブはこのことをモンドに一刻も早く伝えなければならないと思った。それで、モンドのアニキ、モンドのアニキと唱えながら、心の中でモンドの元へ行きたいと念じた。しかし、サブは飛べなかった。サブも勘違いをしていた。関係する人間(、、)のことを念じなければいけないのだから、ここはモンドではなく、百合なり石黒なりの元へ飛ぶことを念じるべきだったのだ。
どこにも飛ばない理由がわからず、サブはただ苛立つばかりだった。
それでつい、「あの女が馬鹿だから、こんなことになっちまったんじゃねえか。できることなら直接会って、言ってやりてえもんだ。全ては、おまえのせいだってな」と、呪うようなことばを心に浮かべていた。本人としては念じたつもりでもなかったのだが、たちまち、サブの姿は消えてなくなった。飛んだ先は、家路に着いた幸子の家の最寄り駅、高円寺のホームのベンチだった。酔いが回って歩けなくなったのだろうか、すっかり寝入ってしまったようで、微かに鼾まで書いている。
咄嗟に「おまえのせいで」と言いかけたところで、幸子のジャケットの胸ポケットがブルブルと震えはじめた。スマートホンだか携帯電話だかは知らないが、着信があったようである。よくできたオモチャのように気を引くばかりか、おとなの目にもカッコイイ。サブは、常々、自分も欲しいと思っていた。だから、それがマナーモードのバイブレーション機能だというくらいのことは、知っていた。しかし、眠り続ける幸子は気付かない。覗き見れば、液晶モニターの上に、封筒マークが表示されている。
「おい馬鹿女、メールが届いてるぜ、と言っても聞こえちゃいないか。とにかく、この女を起こさないことには、どうにもならねえや」
サブが、耳元でがなりたてる。しかし、何も起こるはずがなかった。
「おっと、そうだった。あのちょん髷、こういうときにも信じて念ずればどうにかなるってなことを言ってなかったか。信じて念じる、ってことは、逆に言えば、ジタバタしても仕方ねえってことだ」
サブは、そうとなればと、一心に念じはじめた。単純なだけ、切り替えも早かった。
「なあ、起きろ、起きろ。起きて、あのねえちゃんの誤解を解け。そして、下らないことをしないように言って聞かせろ」と、繰り返した。
するとどうだ、小川幸子が突然「はっ」と息をのみ、目を開いた。何かに気が付いたかのように、考えはじめていた。
「あっ、そうだ。百合に電話しなくちゃ」
幸子が胸の内ポケットからスマホを取り出した。見ると、一件着信がある。百合からのメールだった。
「なになに、幸子、今日しかないから連れて行くわ、って、どういうこと。誰を何処へ連れて行こうっていうのよ。それって、もしかしてさっきホームで別れた時に見た、石黒さんじゃないよね」と独り言を口にしながら、幸子は慌てて返信を打ち始めた。
『百合、あたしの言い方が悪かったら謝るけど、あなた誤解してるんじゃない?。石黒さんは、このまま放っておいたら本当にダメになっちゃうって、白井さんのことを思えばこそディーラーに行かせることにしたの。それを一番喜んでいるのが白井さん(^_^)v。細かいことは今度説明するけど、あたし、羨ましくって、白井さんひとりがズルイって思いながらだったから、ついあんな言い方しちゃったけど・・・、ごめんねm(_ _)m。誤解してオカシナことしちゃダメだよ!』
「っと、これでいいかな」
幸子は、もう一度読み返して、送信ボタンを押した。
そこまで確認した上で、サブはまたここに舞い戻ってきたのだという。
聞いていたモンドが、「そうだったのですね」と、渋い顔で頷いている。
「あれは何だったんでしょうね」と不満顔を浮かべては、「イライラしたりハラハラしたりして、損をした気分です」と、本音を口にした。
「それだけに、このまま百合を死なせちゃマズイってことでやんすよね。それに、何ひとつ悪いところのない石黒が道連れになったりしたら、それこそ目も当てられねえや」
うなずくモンド。
「いずれにしろ、あの二人が危ないところにいることは、変わりありません。取り敢えず、百合と石黒のところに戻るとしましょう」
ここにきて、モンドも慌てる様子は見せなかった。こちらに来てから費やした時間は短くない。ここはサブが言っていたように、まだ間に合うところに戻ることができると信じるだけだった。
ふたりで声を合わせて、「百合と石黒、百合と石黒」と唱えた後で、一心に念じはじめた。モンドが「わたくしがここに来る直前までいた、あのホームのふたりのところに戻れますように」と、そしてサブが、「モンドのアニキがここに来た直前の、ふたりのところに戻れますように」と。
行った先では長かった時間も、戻ってみれば一秒ほども経っていなかった。 相変わらずの喧騒が、渋谷の駅を取り巻いている。モンドとサブは、ホームの陰からふたりを見守った。
ここで何かが起こったとしても、自分ひとりでは何ができるわけがない。それで、もしもここにサブがいてくれたならどうにかすることができるのではないかと、期待したモンドだった。しかし、一緒に戻っては来たものの、やはり途方に暮れることに変わりがなかった。
電車は、まだ来ない。
そこに突然、あの管理官が姿を現した。相変わらず、そのまま馬にでも跨がらせてやれば、チャンバラ映画の中といった出で立ちである。こんな事態にもかかわらず、皺の寄った唇に笑みを浮かべている。
「ご無沙汰、ご無沙汰」と手を振りながら、近付いてきた。ぴょこんと頭を下げて、「いやー、ご苦労様でした」と、この場には全く不似合いな挨拶のことばを口にする。モンドとサブは、ことばを失って、顔を見合せるだけだった。それなのに、「どうしましたかな、そんな顔をして」と、気に留める様子も見せない。これにはモンドも呆れて、「どうしましたかもないものです。それに、開口一番ご苦労様では、何と答えればよいのかもわからなくなります」と、不平のことばを並べないではいられなかった。目をパチクリさせていたサブでさえ、「まったくだ、まだ何にも終わっちゃいねえってのにさあ」と、声を荒げた。それなのにこの管理官、悪びれるどころか、「サブさん、あんたが貴重な情報収集と小川幸子の世話に勤しんでおられた時のことじゃから知らないのも仕方ないのだが、モンドさんがちゃんと手を打ってくれておるから、安心しなされ」と、宥めにかかった。
「えっ」と、驚いたのがモンドの方だった。
「何を勘違いしているのかは知りませんが、やきもきするばかりのわたくしに、いったい何ができたというのでしょう」
そんなモンドの独り言も、この管理官は聞き逃さない。
「あなた方の役割は、地上のヒーローのように力づくで相手をやっつけたり、攻撃を受ける人の前に立って楯となることではありません。そのことはおわかりじゃな」
管理官の問い掛けに、サブが答えた。
「とはいうものの、おいらたちは救急救命チームだ、人の命を助けるのが役目なんでやんしょ」
管理官は、「まさに、そのとおり」と、満足げに頷いた。
「要は、最終場面を迎える前に手を打つということじゃ」
このことばに、ガックリ項垂れたのがモンドだった。
「ということは、もう今さらジタバタしたところで、どうにもならないということではありませんか」
それなのに、「そのとおりじゃ。しかし、モンドさん。あなた、そのために、さっき人助けしたことをまさかもう忘れてしまったというわけではないでしょうな」と、探るような目で人を見る。モンドに、そんな記憶はなかった。
「そのための人助けですって? そんなこと、した覚えはございませんが」
つい、突慳貧な言い回しで答えていた。それなのに、管理官は怒ることもなく「はっはっは、まあ、まあ、そう興奮しなさんな」と笑い返すだけだった。
「寒空の下で、酔い潰れている人を起こしてやるのが人助けでないとするなら、この世に人助けなんてないことになってしまうじゃろう。違うかな、モンドさん」
そこまで言われて、「あー、そういえば」と思い出し、「たしかに、若林という水沢百合が以前勤めていた会社の男が酔い潰れて道端で居眠りしていたので、声をかけてやりました。というか、起きろと念じただけですがね、風邪でも引いてはいけないと思ったものですから。で、それが何か」と問い返した。
「その人助けこそが、この娘の命を救うことになるんじゃ。なあ、モンドさん」
そう言われても、モンドにその意味が理解できるわけがなかった。
「えーっ?」と、声を発するのがせいぜいである。
「それに」
管理官は、サブに向き直って話し続けた。「あなたの働きが、百合に真実を教え、これから後に過ちを二度と繰り返さないようにさせるのじゃから、言うことなしじゃ。なあ、サブさん」
サブはニカっと笑顔を輝かせる。この男に、理屈は必要なかった。役に立ったということばを、ただただ素直に喜んだ。
それでもふたりは、キョトンと、狐につままれたような顔を隠せなかった。
「まあいいから、あなた方も一緒にここに来て、腰を下ろしませぬか。さあ、お手並み拝見。ラストシーンを楽しむとしよう」
ここまでくると、ふたりには返すことばのひとつもみつからなかった。
都会の表通り。光織り成す饗宴が華やかであればあるほどに、その舞台裏は落とし穴のような陰を深める。そんなビルの隙間を埋める闇の中から、滑るようにふたつ並んだヘッドライトがやってきた。緩やかなカーブの先で駅に向かって姿勢を整えた車体が、高架橋に差し掛かったところでその姿を浮き上がらせる。
「さあ、行きましょう」
ホームを吹き抜ける冷たい風をよけるように、百合の体がそっと石黒の背に寄り添った。バッグの中でメールの着信音を奏でているスマートホンに一瞬気をとられたが、今ここでそんなものに対応しているわけにはいかない、と思い直した。鉄の車輪が神経に障るレールとの摩擦音を響かせながら、目の前まで近付いてきている。百合の痩せた左肩が石黒の右肩甲骨の下に当てられた。
「今だ」
思いを力に変えた右足に全体重を乗せるようにして、百合が石黒を前に押し出した。
「あっ、痛えー。この野郎、押すんじゃねえよ」
巧みに隙を突いて割り込んできた酒臭いサラリーマンにぶつかった。ドスの利いた声を張り上げて、肘で石黒の胸をど突き返す。その拍子に後ろにいた百合が尻もちをついた。見上げた先にあるのは、見慣れた顔だった。
「えっ、若林さん」
あまりの驚きに、声も出ない。咄嗟に下を向いて、顔を隠した。取り落としたバッグの中身が、ホームに散らばっている。慌てて拾い集めているところで、スマホに着信があったことを思い出した。
「どうした、どうした」
「何、なに、何騒いじゃってるわけ?」と、残業帰りのサラリーマンや、夜遊びに現を抜かす女子高生たちが取り巻いて、辺りは一時騒然となった。あちこちからストロボが飛ばされる中、何が何だか分からないままに、「いや、ちょっと躓いちゃって。申し訳ありませんでした」と、石黒が頭を下げている。
「ふざけやがって、いい女連れてるからって、逆上せあがってんじゃねえぞ」と悪態をついて、若林が電車に乗り込んで行った。
そそくさと横に身を避けて着信メールを開いていた百合が、「ウソでしょう」と、驚きの声を上げる。幸子からの返信メールが、自分の間抜けな思い違いを気付かせた。
「まったくー、もうすこしで死んじゃうところだったじゃないのよぉ」
百合は、自分が踏んだドジのおかげで命拾いしたことを改めて知り、冷や汗をかいた。危うく、違った顛末に身を置くところだった。
このままで済ませるわけにはいかないと、覚悟を決めたときにはまったくといってよいほどに怖くもなかった自分の死が、助かった今になってはじめて、例えようもないほどに恐ろしいことに思えてくるのだった。身震いも、止まらない。もうこんなことは二度としないと、心に決めた。さすがの百合も、顔色を失っていた。それなのに、次の瞬間には憤りに顔を歪めていた。
「幸子ったら、ホントにバカなんだから」
自分のことはさておいて、事の次第を人のせいにする。そこに、モンドとサブの苦労がどれだけあったかも、知らないで。
おまけに、「それにしても、今日のことをどう話してやろうかしら。はーっはっはっは、あーおかしい」と笑い飛ばされては、モンドもサブも開いた口が塞がらなかった。
勢いを失った石黒が、間抜けな顔を隠そうともせずに、電車に乗り込もうとしている。
「それじゃあ、またお会いできるといいですね」と言葉を残して、百合は振り向きもせずに階段を駆け降りた。
乗り遅れた人で溢れる真夜中の改札口。駅前広場には、濡れた傘の花が開きはじめていた。急な雨のせいもあってか、いつも以上に混み合っている。駅員が詰めている部屋の中から、中国地方で発生した土石流の凄まじい被害の様子を伝えるニュースの声が、漏れ聞こえていた。
「農村地帯では恵みの雨なんでしょうけど、そんなことばかりも言ってられないのよね。また、沢山の人が死んじゃったのかしら」
同じものであるはずなのに、与えられるのが恩恵か仇かで、それに向ける気持ちは百八十度異なる。
「はははー、完璧じゃ」と、管理官はご満悦である。
「命が助かったばかりか、これに懲りて、もう二度とこんなバカなことをしないという決意も、しっかり胸に刻まれたのじゃからな。あんたらの実力は、想像以上じゃった」
何が何やら。モンドとサブは、ポカンと開いた口を閉じることさえ忘れていた。
「おいらたちの手柄だって、ここは喜んでもいいんでやんすかねえ」
実感を持てぬままに呟くサブ。モンドも、それに答えられずにいた。
「さあ、夜も遅い。まずはこのお嬢さんが無事に家に帰り着くのを見届けてから、解散としましょう」
柄に似合わず、管理官が優しいことばを口にする。モンドが頷き、サブも「中途半端はいけねえっすからね」と後を追う。
百合が駅前でタクシーを拾った。百合に続いて管理官とモンドが飛び乗ると、タクシーは勝手にドアを閉めて走り出した。ここでも何をグズグズしているのか、間に合わなかったサブが、慌ててルーフのサインにしがみつく。
「神楽坂まで」
百合が口にした街の名が、今宵はいつにも増して懐かしく感じられる。モンドが茜とひと時を過ごした忘れられぬ街である。だからこそ、地上に下りてきて最初に訊ねないではいられなかった。何処も彼処も変わり果ててはいたが、今や都会には珍しい低層階の家屋が軒を連ね、その佇まいには往時を偲ばせる落ち着いた雰囲気が残されていた。
「そういえば、慌ただしく坂道を下っていった女性とぶつかりそうになったのでした」
踏みつぶされたサブの、あの情けない姿。今サブは、どんな格好でいることやら。助手席のモンドが後ろに首を捻って、百合の隣に腰を下ろしてうたた寝をはじめた管理官に声をかけた。
「サブのやつ、振り落とされなければいいのですが」
「心配はいらんじゃろう。落ちたところで、もう死ぬわけではないからな」
「おや」ここは、あの日サブとふたりで彷徨った路地の四つ角。振り返る間もなく、タクシーは今日まで何度も通わされた三階建の瀟洒なマンション前に到着した。都心にありながら、喧騒とは無縁の静寂が辺りを包んでいる。
すっかり酔いも冷めたか、思いのほかしっかりとした足取りで、百合がマンションのエントランスドアに向かう。背の高いガラス扉のオートロックは、カードをかざすだけで解錠すると同時にロビーを明るく灯す。
「ん?」
その後ろ姿が、あの日、真正面からの朝日を受けて走り去った女性のシルエットに重なる。普段はパンツルックが多かった百合だけに、スカート姿を見誤ったのかもしれない。
ふと視線を上げれば、今まで気にも留めたことのない突きだした庇にPURPLE WIND MANSIONの金文字がはめ込まれている。
「パープル ウィンド マンションですか」
手際よく、ポケットから取り出したコンパクト英和辞書を開く。
「紫の風、とは、この娘らしい洒落た名前ではないですか」と感心したのも束の間、「あっ」と怪訝と驚愕の入り混じった表情に顔を歪めて、モンドが喉を詰まらせた。
それを見ていたサブが屋根から滑り降りてきて、「ここは」と声を上げた。モンドにも察するところがあった。暗闇の中に沈んでいるからこそ見えてくるものがある。見上げれば、自分たちの時代と変わらない、あの満天の星空が広がっていた。
「まさか・・・」
モンドが、管理官を振り返った。しかし、年老いた侍は目を細めるばかりで、何も言わない。
モンドが「紫といえば藤の花。ウィンドではなくワインドで、巻く」と呟けば、サブも「アップを付ければ、この時代の人気スポーツのひとつ、野球でいうところのピッチャーの肩慣らし」
「藤が、巻く・・・」
目を見開いたサブが、「姐さん」とひとこと呟いたまま、絶句する。
百合が何故か先祖の姓を今も大事に掲げるマンションの、エレベーターの前で立ち止まった。何処からかやって来たトラ猫が、身をすり寄せる。屈んだ百合に顎の下を撫でられて、気持ちよさそうに目を細めている。点滅を繰り返していた扉の上の数字が1になり、チーンと澄んだ音を響かせた。百合が、上を見上げて、すっくと立ち上がる。
「水沢とは、母親の嫁ぎ先の姓なのかもしれません」
その後姿の、えも言われぬ美しさ。モンドは、目を見張らないではいられなかった。
「ということは」と、俄にサブが元気付き、「やっぱり姐さんには子供がいたと。それも、一人っ子とくればモンド兄貴の忘れ形見としか考えられねえ。この、このーっ」と、肘で小突いてモンドを慌てさせる。話は、「そしてその子はどうにか東京大空襲を掻い潜り、戦後に結婚して元気な子を儲けた。それが百合・・・じゃ計算が合わないかあ。ということは姐さんは百合の曾婆ちゃん」と、止まるところを知らない。
モンドが「たしか、茜の家には藤巻庵の表札が掛けられていたと思うのですが」と口を挟んで、話を戻す。
「ああ、それに倣ってパープル ワインド マンションってわけか。ううっ、うううー」
嗚咽を漏らすサブ。それでも、無理矢理笑みを浮かべて「ねえ、管理官。姐さんの子や孫が女ばかりじゃなかったとしても、これなら辻褄が合いやすよねえ」と、煽りまくる。しかし、管理官はここでも目を細めるばかりで、何も言わない。
街灯の光も届かないフェンスに隠れた小さな暗がりを、一陣の風が吹き抜けた。
ホンワカ弾む丸い影に連れられて、後ろ髪を引かれる長短デコボコのふたつの影が天へと昇っていったことを、水沢百合は知らない。
こんな時間にもかかわらず、眠らぬ烏がカアーとひとつ鳴き声を上げた。
エピローグ
天の入口の事務所に戻ってきたモンドとサブ。すぐに戻る、と言い残して、管理官は出て行ったままだった。
モンドにとって、安易に死を選んだ自らの経験に照らしても、人様が死にたくなる気持ちをどうだこうだと批判的に述べることなど、そう気安くできることではなかった。
それでも水沢百合と過ごしたあの日々が、モンドをして、自らの手で命を絶つという行為だけは無くさなければいけないと思う気持ちを芽生えさせたのだった。
「何が有効な手立てとなるかは事情によって異なるのかもしれませんが、少なくとも独りで思い詰めずに、誰かを頼って話をするということが必要なのではないでしょうか。そのためにも、愛する人をひとり傍に持つということが・・・」と言ってはみたものの、いくら話されたところで、そしてそこにある事情をどれだけ慮ったところで、その全てを正しく理解することなど、殆どといってもよいほどに不可能に近いことなのかもしれない。それが心の奥底に秘めた痛みや苦しみについてであれば、尚のことである。ましてや、救いとなるようなことを話して聞かせるとなると、誰にでもできることではないだろう。だからといって、話すということには意味がない、そういうことではあるまいと、モンドは言いたかった。やはり、話をし、聞かなければ何もはじまらない。ひとりよりはふたり、僅かではあれ、そこにある可能性を信じて声を発してほしい。不完全にしろ、人間には与えられた能力というものがあるのだから、最大限に活かしてほしいと思わずにはいられなかった。
「さすが、ダイヤモンドは言うことが違わあ。でもさ、大切なことであればあるほどに、口を噤んじまう。それが人ってもんだからなあ」
その結果、どうなるか。事が起こり、周囲の者は何も知らないにもかかわらず、いや、何も知らないからこそ尚のこと、勝手な思い込みに陥る。そして、まるで自分がさも特別な人間ででもあるかのように「そんなことなら、ひとこと相談でもしてくれてればねえ」などと語り、万能者のごとくふるまう輩が出てくるものである。あー嫌だ、いやだ。
今回のことで言えば、大方、幸子とかいうあの女あたりが、自分の妬みが生んだ誤解にもかかわらず、「百合はさ、結局石黒さんのことが忘れられなかったんだよ。でも、奥さん相手に戦うっていうのも百合らしくないじゃない。だから、ふたり手をつないで飛び込んじゃったのよ」などと、知ったか振りしてしゃべりまくっているというのが、ありがちなオチではなかっただろうか。
物知り顔に話す人間に遭遇すると、一発でも二発でも力の限りにぶん殴ってやりたいという衝動に駆られる。
「人間に、心の葛藤は尽きない。それにしても、その苦しみの末にとる手段として、死を選択することだけは思い留まらせなければいけません」
死にたくなくても死ななくてはならない者の事件や事故、そして時には病。そんなことが当り前のように、それこそ毎日山のように起き、繰り返されるのが、この世の中である。せめて、自ら命を断つことだけはしてもらいたくない、と願うのだった。
「それにしてもさあ、水沢百合には驚かされやしたよねえ」
「藤巻とは姓も違うし、まさかなあ」
「独身だからって、油断したわけでもねえんだが。まあ、たとえ男でも、婿に入れば姓は変わっちまいやすからねえ」
当然、飛ぶ話題。
最初に神楽坂の家から出てきた女を目にした時のことが脳裏によみがえる。一瞬とはいえ、それが大正時代に騙し、金を巻き上げた茜師匠の孫か曾孫かと思わなかったわけではない。しかし、よもやそれが水沢百合だったとは、思ってもみなかった。そして、何も知らずに一緒に過ごしてきた今日までの日々。
「きっと姐さんも見ていてくれたと思いやすよ、オイラたちのことを。ねえ、モンドのアニキ」
「そうだといいが」
モンドが、照れ臭そうに目をつぶり、遠いあの頃のことを思い出す。サブが、「姐さん、おいらたち、やりやしたぜ」と嬉しそうにことばを口にしている。はたして能天気に浮かれていてよいものかどうか、そこのところは自信がないが、図らずも犯した罪の贖いを、まね事程度にとはいえさせてもらうことができたと思えば、嬉しくないはずがなかった。
「いやあ、それにしても百合はいい女でやんしたよね。ちょいとばかり頭がいいってんで生意気なのが玉に瑕だったけど、姐さんにも負けないなかなかのべっぴんさんだった」
「いい女ねえ」
これでは、感傷に浸ってもいられない。それでも、いつものことと、モンドは怒ることをしなかった。サブのそんなところが気に入って、何も考えずにここまでついて来てしまった自分の方こそ反省すべきだと、思わされた。
自分には家族のひとりもいない。だからまだいいとは言わないが、「黙って死なれては、何もわからぬうちに残された方こそ、いい迷惑だ」と、思いの真ん中のところだけを口にしてやめにした。
やおらサブが、「それにしても、おいらたちの働きが天の役人連中にどれだけ高く評価されるのか、楽しみでやんすよねえ。ここまで来たら、あとは地獄なんか振り向きもせずに、天国まで直行だってわけにはいかねえもんでやんすかねえ」
モンドは、それには答えられずにいた。はじめの内は、どうにかして(、、)やる(、、)こと(、、)はで(、、)きね(、、)え(、)もの(、、)か(、)と無我夢中に考えたりしてみた今回の救命活動だったが、蓋を戻してみれば、こっちが取り返せない過ちの罪滅ぼしをさせて(、、、)もらった(、、、、)というだけで、何も自慢できるものではなかった。それでも、どうにかなって胸を撫で下ろした。しかし、これで全てが済んだわけではないのだ。詫びなければならない相手は、茜ひとりではない。それどころか、もっと酷い目にあわせた娘がいる。モンドには、あの、東尋坊に身を投げた娘のことが引っ掛かっていた。
どうか、天国にいてほしい。
いつの日にか自分もサブを伴っていくことができたなら、どんなことがあっても探し出そう。そこで何ができるのかまではわからないが、せめて頭を下げて心から詫びるくらいのことはしようと思った。
それで何になるんだと言われようとも、それぐらいのことをしないで、何が男だ。モンドは、これを機会に生まれ変わると誓った。
そんなところに、管理官が髷を揺らしながら戻って来た。相変わらずの、おっとり刀は健在である。
「さて、どこから話したもんじゃろうのう」と、腕を組み、顔を天のそのまた上へと向けて目を閉じてしまった。
「じらせやがって」と、イライラを募らせるサブが、「もう、どこからだって構やしねえから、さっさと結論を言いやがれ」と、怒鳴りまくる。
それからすれば、モンドは神妙だった。次から次と詐欺を繰り返しては、どうにか喰いつないできたあの頃。腕を上げれば、さらに上を目指したくなる。一旗揚げる、の夢を追った。しかし、デカイ稼ぎや旨い話に限って、その陰には、必ず落とし穴が潜んでいた。一発逆転など、この世に うーん、ここはあの世であった ありはしないのだ。それをイヤというほど経験してたきたのではなかったか。
「話は手短に。躊躇わずに、ここはバチッと一発で言い渡してくださいまし」と、頭を下げる。
そのことばを聞いて、管理官は目を開け、薄笑いを浮かべた。
「そうか、それで安心した」と、ふたりに顔を向けた。さも、言い辛い決定をどう宣告したものかと考えあぐねているという素振りを大袈裟に加えながら。
「天国行きとか地獄に落ちるとかいう話は後回しじゃ。ご覧のように、地上は、我らが救急救命チームを必要としている者たちで溢れかえっておる。まずはそれをどうにかしてから、とのことじゃ」
管理官の話によれば、急きょ、救急救命チームが増員されることになったという。メンバーは、相変わらず窃盗団や偽医者、そして似非弁護士といった地獄行き直前の者たちばかりのようだ。その中には、政治家として名を上げた者なども含まれているというのだから情けない。いずれにしろ、地上は相変わらずの状態で、休んでいる場合ではないということのようだった。
「ってことは、またお仕事でやんすか」
「はっはー、そのとおりじゃ、サブさんはなかなか察しが宜しい」と、管理官は上機嫌。ところがサブは、「冗談じゃねえよ」と、二度と立ち直れないのではないかと思うほどに落ち込んだ。それでも、どうにか最後の力を振り絞って「おいらを誰だと思ってるんでえ。甘く見るのも程々にしやがれ」と啖呵を切る。勢いよく立ち上がったまではよかったが、その姿がいただけない。踵を踏んだ靴は飛び散り、ズボンからはみ出したシャツの裾が腹の上で踊っている。その上、隙間だらけの縮れた髪が、額から鼻筋を伝って頬の上にバーコード模様を描く。慌てて掻き上げる指と指の間に、抜けた毛が三本。
「げっ」
見開く目からも、力が抜けてゆく。
天国で、キュートな娘とアバンチュール。そう決め込んでいたサブの落胆ぶりは、見るにも忍びないほどだった。それに比べてみれば、モンドの顔は、平安に包まれていた。
「また刺激に満ちた働きに戻れる。そういうわけですね」
それよりも何よりも、ひとまず地獄に落ちずに済んだ、その悦びは一入だ。
「ところで管理官、ひとつ質問があるのですが」
「何じゃね」
「もしかして、あの水沢百合が茜師匠の血縁だったってことを、はじめからご存知だったりして」
すると、俄にニヤつきはじめた管理官が、「そりゃ何のことじゃね。茜師匠?その方はモンドさんあなたのこれかな?」と、小指を立てた。そればかりか、「もしかして」と、勘繰るような視線を向けてくるではないか。慌てたのはモンドの方だった。ここでまた昔の話に戻っては、元も子もなくなる可能性がある。首を振りつつ、「いえ、だったらよいのです。お気になさらずに」と、惚けた。
「さて次の案件じゃが、宜しいかな」
サブが我関せずを決め込んで、プイと顔を横に向けたのは言うまでもない。
了