3 私、崖を登りましたの
目を覚ますと、木漏れ日の眩しい昼間だった。
落とされた時に背中から鈍い音がして、宙空で気を失ったのは覚えている。
何故か私の周りだけ土が凹んでひび割れ、折れた太い木の枝がいくつも転がっているけど、とりあえず私に怪我はない。痛みもないし、立ち上がって軽く体を動かしてみたけれど、問題ない。
「あら、ドレスが……」
薄緑のオートクチュールのドレスは細かく枝葉によって切り裂かれている。長手袋には血も付いているが、私自身の皮膚は裂けた様子もない。
そういえば、小さい頃から転んで擦り傷を負ってもすぐに治っていた。護衛との鬼ごっこ、と言って勝手に走り回って転んだりしても、服は汚れても私は怪我をしていないし、そもそも大きくなってからは怪我をする事もないので忘れていた。
「まぁ……、私、崖から落ちても無傷なのね。生命神様の加護、というものかしら……。ありがとうございます、生命神様」
そっとお祈りを捧げる。
だって、私が一階の窓から身を乗り出すだけで、お父様もお母様も青くなって心配するんだから。普通ならきっと、この高さから落ちたら死んでいたはず。
それが無傷でピンピンしているのだから、これが教会で習った『加護』というものだろう。
知恵の神、商業の神、芸術の神、そして、生命の神。神は運命の道筋を知っていて、必要な人に加護を与えるという。私はどうやら生命神様の加護をもっているようだ。
「シュヴァルツ殿下は私との結婚が嫌だと言っていたわ……婚約破棄なさればよかったのに。こんな事をしていては、他の方なら死んでしまいますもの。ちゃんとお話ししなければなりませんね」
(あら? ということは、シュヴァルツ殿下は私を殺したかったのかしら? でも、愛していたと言っていたし……不思議な方ね)
屋敷の方が助けに来てくれるわけが無い。私が崖から落ちた、と伝えたら崖から人が落ちたら普通は死ぬと知らない殿下以外の方は私が死んだと判断するはず。
そして、私が死んだと伝えるために、今頃殿下は王都に戻られているだろう。とても急いで。
崖から足を踏み外したのは私だと思うのだけれど、せっかく掴んだ手を離したのは殿下だもの。いけませんよ、ときちんと進言しなければ。
婚約破棄されたとしても私は臣下なのだから。殿下に、崖から人が落ちたら普通は死ぬ、という事をきちんと言って聞かせなければならない。今回は進言だけで済ませましょう。
助けが望めないならばしかたない。私はてっぺんが遥か遠くに見える崖を見上げて、崖に手袋をした指をめり込ませた。
「いっ……、たくないですね。一瞬だけなら大丈夫そうです」
崖登りなんて初めてだ。指を崖にめり込ませるたびに爪の剥がれるような鋭い痛みが走るが、それも一瞬だけ。痛い、と思う前に治っていく。
私、気疲れはするけど体力は無尽蔵なようで、確かにはじめての馬車での長旅でも楽しみすぎて疲れはしたけれど、お尻が痛くなったり肩が凝ったりはしなかった。
こうして私は両手の五指を崖にめり込ませながら、すいすいと切り立った崖を登っていく。掴むところがないねずみ返しになっているところも、指を食い込ませれば簡単に登れた。
「ふぅ……、夕方ですか」
いつの間にか日が暮れ始めている。
屋敷に入ってご飯をいただこうかと思ったけれど、自分の手袋を見てやめた。怪我は無いのに血まみれだ。それに、殿下が私を崖から落としたなんてことをうかつに人には言えない。
私は屋敷の方に見つからないようにそっと裏庭を抜けて、王都に向かう街道を歩き始めた。
殿下、待っててくださいね。あなたの間違いは必ず正してみせます。一緒にいい国を造る貴族の一人として。