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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

一握の砂

作者: Bianca

おひさしぶりの投稿です。

よろしくお願いします!


 小雨が降る夜だった。僕はもう自分の人生を終わらせるつもりで目を閉じた。僕の右目には僕の家族が眠っている。何を言っているのかわからない?そうだよねぇ。とにかく僕は僕の右目のせいで大事なものを無くしてしまうのが嫌で。こんな僕はきっと呪われていて。そんなわけで、またひと口酒瓶を煽ってため息をついた。

 生まれついてから体は丈夫で、病気らしい病気はしたことがなかったらしい。『なんて可愛らしい子!』赤ん坊の頃の記憶だ。僕を褒めちぎる声の後ろで両親が泣いていた。僕は両親がなぜ泣いているのかわからなくて部屋を見回す。目の前にいるはずの僕を誉める声の主の姿が見えない。変わりに揺れているのは点滴のチューブだった。酷くゆっくりと輸液が落ちていた。


 ガシャン!路地の向こうで瓶の割れる音がして、諍い合う声が近づいてきた。二対一?かな?アルコールのせいで視界がゆらゆらしていた。衝撃と共に沈みそうになっていた意識が覚醒する。

「コソコソコソしやがって!」

 バシン、と殴られたような音が路地に響いて誰かがたたらを踏んでいた。小雨が本降りに変わって、視線の先がよく見えない。けど、一人が押さえて、もう一人が押さえられた人を殴り付ける音が響いて、僕のところへもよく聞こえていた。僕は汚いゴミの山から何とか立ち上がって震える手で右目を覆う眼帯を撫でる。撫でてから思い直して、フラフラと三人の方へ足を向けた。

「なんだぁ?!巻き込まれたくなかったらあっち行ってろ!乞食が!」

 また殴打音。殴られた人が顔中血だらけにして僕を見た。ドクン、と心臓が跳ねる。バシン、ドスンと衝撃が体を走って、気づいたら殴っていた二人が地面に転がっていた。

「え……?」

 僕?僕がやったのか?殴られていた男が僕を見上げて、血だらけの顔でニっと笑った。

「アンタ強いなぁ!」

「え、あ?僕?」

「どうやったのか全然わからなかった!!!」

 ピィィィと少し遠くから笛の音がした。それが四方から僕たちに迫ってくる。

「やべ、アンタ走れる?!」

「う、うん」

 いくぞ!の声で僕らは路地を駆け出した。アルコールに浸された心臓がドクンドクンと脈打って、血管がキュウキュウと絞られる。目の前がチカチカするけど、僕はなぜだか僕の手を引く目の前の人に置いていかれないように必死で足を動かしていた。


「かわいいねぇ」

 誰の声だろう。僕の家族……家族はどこにいってしまったんだろう。滑った舌で舐め回されるような怖気のする甘ったるい声。

「片目を抜いて、出入り口にしよう。これほど澄んだ目は入れられないけれど。代わりの目も綺麗なものだから」

 コロコロと笑い声が頭のなかで響く。

「気に入らない奴がいたら、──ね?この──右目で───」

 なに?聞こえない。聞こえないよ。右目がなに?なんなの?僕の……

「家族……」

「あ、起きたか?大丈夫か?」

 ぼんやりと左目で辺りを見回した。

「ここは?」

 ソファに寝転んでいるらしい。まだ体がだるくて起き上がれなかった。

「俺んち。とりあえずさっきはありがとうな。流石にヤバかったわ」

 ワハハと笑う声。まだ左目がよく見えなくて、声を頼りに首を巡らす。ぼんやりと見えたのは赤い髪だった。

「風呂いけるか?言いたかないけどさ、お前酷い匂いだぞ」

 そう言ってまた笑う。貶めようとする笑いではなくて、僕は声に聞き惚れていた。僕を心配する声音だった。


 シャワーを浴びていると「髭剃るか?」と声をかけられた。曖昧に答えると、使い捨てのカミソリを渡される。「ありがとう……」久しぶりの単語を口にして、なんだかこそばゆい気持ちになった。渡されたカミソリで髭を剃って、鏡を覗き込む。髪は少し前に自分で切っていたから、鏡の中の僕はずいぶんさっぱりして見えた。眼帯を適当に洗って水気を切ると、慎重にまた右目を覆う。僕の左目はブルーだ。特になんの変哲もない青色。だけど右目は……ブルリと怖気を振るって左目を閉じる。僕の右目は……一体いつからこんな風になってしまったんだろうか。遠い記憶の中の両親と、おぼろげな誰かの影。その影が右目のなかで僕に手を振った。


「うわ、……やっぱりだ……あんた……」

 ビクリと肩をすくめた。目の前の彼が僕を見ている。なにかしてしまったのだろうか?

「良い体してんな!!!」

 二の腕をポン、と軽く叩かれる。掌の熱がじわりと肌を温めて、僕はうっすらと口角を上げた。

「なんか格闘技とかやってんの?さっきのあれ、二人一瞬でのしちまうとかさ、ほんと凄かったよ。アンタさ、もしかしてというか……あんなところに寝転がってたってことはさ……もしかして家が無い……とか?」

「あ、うん……そう……なんだ……」

「じゃさ、俺と組まない?俺探偵業やっててさ。さっきみたいなの日常茶飯事なんだけど、喧嘩とか……弱い訳じゃない……んだけど、別段強いって訳でもなくてさ……」

「組む?」

「そうそう。どうせならアンタみてーなのが相棒として一緒に居てくれると助かるかなって。衣食住はちゃんと面倒みるしさ。アンタも社会復帰できるし。悪い話じゃないと思うんだけど。どうかな」

「あ、僕……」

「その目、さ。眼帯してるってことは病院にもかかった方が良いわけだろ?」

「……目……」

「まぁ、いいじゃん。今の仕事の目処がついたから、とりまこの案件だけでも。な?」

 ……目……。そうだ。この目をどうにかしないといけないんだった……。頭のなかが霞が掛かっているみたいにボンヤリとしていた。

「あ、そうだ。俺アーチー、アーチー・ハンターだよ。よろしく」

 差し出された手を見下ろして考える。僕?僕の名前……。なんだっけ?僕の名前……名前……とファミリーネーム……?家族……僕の家族?

 固まってしまった僕を見上げてアーチーは目を丸くした。そうしてから

「じゃ、ジョセフだ!お前の名前。俺のセカンドネームをやるよ。アーチー・ジョセフ・ハンターのジョセフだ」

 と言って、固まった僕の手を力強く握った。

「ジョセフ……」

 僕の……名前……??口の中で転がして、舌に乗せて発音してみる。

「ジョセフ……」

「気に入ったか?」

 アーチーに左目を向けて頷く。僕はジョセフだ。ストンとなにか腑に落ちていた。


 アーチーはカルト宗教に取り込まれた息子さんを奪還して欲しいとの依頼を受けて動いていたらしい。上手く信者として潜入したけど、正体がばれそうになって僕と出会ったと。

「あんなとこで何してたわけ?」

 焼いたバケットを頬張りながらアーチーが尋ねる。僕は……あそこで……もう……

「家が……ないから……」

 死のうとしていたという言葉は飲み込んで、当たり障りの無い事を口にする。ほんのりと暖かいバケットにオリーブオイルを浸して食べる。少し噎せてしまった僕にアーチーはワインを差し出した。

「ほら、がっつくなよ。水の方がいいか?」

 僕はワインを受け取って飲み込む。喉が焼けるような熱を伝えて、僕はキッチンで飲み込めなかったワインをシンクに吐き出した。

「大丈夫か?!」

「あ。うん、ごめ……平気……」

「病気とかあるか?参ったな。明日先に病院行くか……」

「いらな、いらないよ!病気じゃない。僕は病気はしないんだ……!」

 アーチーがキョトンとして僕を見る。

「病気しない人間がいるかよ!明日午前中に医者行くからな!」

 アーチーが少し怒ったように語気を荒げた。病気しない人間……でも僕はずっと……咳一つしたこと無い。少なくとも記憶にある限りは……。父さんと母さんはいったいどこに行ってしまったんだろう。どうして僕は一人なんだろう。右目は?なぜいつも右目に眼帯をしているんだろう。歯磨きをしていると、僕の背後からアーチーが怒鳴ってごめんな、と鏡越しに僕に声をかける。いいよって意味で頷いて口を濯いだ。

「お前はソファな?ジョセフ」

 クッションと掛け布団を渡されて、ポンと二の腕を叩かれた。

「よろしくな、相棒?」

 その瞬間、背後からゴォッと風が入って背中を強く押す。アーチーが驚いて、僕の背後の窓を閉めに走った。

「なんだ?!いきなり?!大丈夫か?ジョセフ?」

 頭のなかで誰かの声が渦巻いた。

 ─だめだめ。君はずっとこちら側だ──

 なに?なんのこと?こちら側って?

「ジョセフ?」

「あ、うん。大丈夫……大丈夫だよ」

「窓が開いたみたいだけど、なんなんだ?ここの窓結構重たいのに」

アーチーがぶつぶつ言いながら鍵をかける。それから振り返って

「明日は早いぞ。さっさと仕事片付けて報酬貰っちまおう。カルト宗教は好きじゃないんだ」


 僕の手を誰かが引いている。はやくはやくと急かしているようだけど、僕の足はぬかるみにはまったみたいになかなか前に出なかった。

「待って、待ってよ」

 僕は喘ぎながら手を引く誰かに声を上げた。

 ─ダメだよ。早くしなきゃ─

「どうして?」

 ハァハァと息を吐いて、何故だろうと考えた。早くしなきゃなんになるのか。真っ黒な僕の前を行く誰かが振り返る。

「だって、お前は──だから」


 ガバッと布団を捲って飛び起きた。心臓がドキドキと脈打って、耳のなかで血管のなかに血が流れる音がこだまする。なぜか右手で右目をギュウと押さえつけて、僕は左手で膝を抱えた。まだ荒い呼吸を整えて、ゆっくり右手を離す。僕の左目は昨日と変わらないアーチーの部屋を写していた。でも右目は?そっと右目を眼帯のなかで瞬きしてみる。右目は光を受けることなく、暗闇のなかでただ闇を写していた。

 顔を洗っているとアーチーが起きてきて「おはよう」と挨拶をする。心に灯りが点るような気がする。こんな朝はいつぶりなんだろう。記憶の中の両親を探した。ポーチを出ると四頭立ての馬車が父さんを出迎えて……。馬のいななきが聞こえる。御者が鞭を振るって馬を制御するけれども、先頭の馬が泡を吹いて横倒しに倒れてしまった。ああ、そんな。なぜ?

「卵食う?」

ハッとして瞬きした。馬?馬車?なに?

「うん。紅茶をいれるよ」

「わりーな、でも紅茶はないんだ。コーヒー淹れてくれよ」

「あ、ああ、コーヒー。うん。うんわかった」


 コーヒーは僕に合わなかった。一口飲んでしかめ面した僕をまたアーチーは真ん丸な目をして笑っていた。

「渋い……香りはいいけど……」

 ティッシュで口許を拭う僕のことをケラケラと笑って、僕のマグを引き寄せるとアーチーはミルクと砂糖を足して「ほら」とまた僕に促す。

「苦いんだもん」

 頬を膨らませる僕に、イタズラっぽい顔をして見せると「今度は大丈夫だよ」とアーチーが口角を上げる。僕は恐る恐るマグを受け取って、一舐めしてからホゥと肩の力を抜いた。

「おいしい……」

 ミルクティーには負けるかもれ知れないけど、甘くしたミルクコーヒーは飲みやすくて、僕はあっという間に飲み干した。

「おかわりして良い?」

 アーチーは僕を見てやっぱり笑っていた。


 ここは大きな街だった。車が行き交って、人が沢山いる。アーチーは表の大通りではなく、一つ二つ中に入った細い道を選んで歩いた。僕が躊躇する度に振り返って「早く!」と促す。僕は慌ててアーチーの後を追うけど、夢の中のような歩き辛さは無くて、順調に彼の後ろをついていった。人気の無い住宅街で足を止めると、アーチーは赤い扉をトントンとノックした。庭のクロツグミが鳴いて僕らを警戒していた。

「爺さん!頼むよ」

 アーチーがドアに向かって小声で話しかけている。ドアの向こうからはくぐもった拒絶の声がしていた。

「もう引退した!」

 とうとう怒鳴り声になった声の主がドアを開けて僕らを見上げる。それから不機嫌な顔をして「どっちだ」と唸るように告げた。アーチーはパッと顔を輝かせて僕を『爺さん』の前に押し出した。

「持病の有無とかさ、あと右目の様子を見て欲しいんだよ」

「目は……!目は大丈夫だから!!!」

 検温をして、一通り聴診器を当ててから、眼帯に手を伸ばした『爺さん』にそう告げる。

「潰れてるのか?」

 『爺さん』が慎重に手を引っ込めて、僕の左目を覗き込む。

「あ、うん。子供の頃病気で。だから本当になんでもないんだ。大丈夫だから……見られるのがすごく……あの……嫌で……だから……」

 口から出任せを並べていると、『爺さん』はポン、と僕の頭を撫でた。

「なんかあったら言えよ?」

 僕は安堵の息を吐く。

「ありがとう……」

「お前さんは健康体だな。血液検査は後でやってみなけりゃ判らんが」

「たぶん、大丈夫だと思う……から……」

「そう言ってる奴から病気で死んでいくんだ」

また僕の頭を撫でて『爺さん』はカルテにあれこれと書き込んだ。僕の体の異常は認められないと『爺さん』が言ってくれて、アーチーはホッとした顔をした。アーチーはすごく……正直だなぁとこの時初めて思った。

「はは、あは……」

思わず声を上げて笑った僕を、アーチーと爺さんが驚いて見上げていた。

「ジョセフ……お前笑うとこわいな?!」


 爺さんの家を出て、僕らはスタンドで紅茶とドーナツを買って食べた。紅茶は紙のパックの匂いの方がキツくて、ドーナツは砂糖まみれで難儀したけどアーチーが「うまいうまい」と食べているので、僕もそれにならってドーナツを食べた。食べた後でベンチに座るとアーチーは懐から地図を取り出して僕に見せる。

「わかるか?ここ、東から入って、三番目のテントにヒューイがいる。この子を連れて施設から出るのが俺たちの役割だ」

 僕はうんうんと頷く。

「んで、わらわらっと警備の信者が出てくるだろうから、ここでお前の出番だ」

「僕?」

「そう。昨日みたいに俺たちが逃げられるように奴らの相手をしてくれ」

「ええ?僕?でも、僕昨日の……どうやったかさっぱりなんだよ??」

「でもおまえがやったんだろ?」

「……わか、わかんない……」

「ヒューイももう限界だからな……二人で行けばなんとかなる」

「ええええ?!嘘でしょ??僕なんの役にもたたないかもなのに?!」

「うーん。最悪置いていくから。ちゃんとついてこいよ?」


 散々ごねたものの、アーチーの楽観主義が勝ってしまって、僕は結局、頭から教団のユニフォームを着せられる。白いコットンのワンピースのような物だ。凄く不安だけど、アーチーは満足げに僕を眺めては頷いていた。


 そういえば僕は喧嘩をしたことがなかった。そうだ。子供の頃もずっと。まって?僕はいくつだったっけ?子供の頃、最近でもいい。仲の良かった人は……?両親以外で。子供の頃は……ブラウスを着ていた。サスペンダーのついたズボンと……大きなフリルのついた衿……革靴と……そう。暖炉に薪をいれるのが好きだった。母さんは薪を抱えた僕を嗜めて、側仕えの……。まって?なんだか時代がおかしくはないか?窓ガラスは歪に歪んでいた。所々モザイク模様になっていたのは……霜や、大風で割れてしまったときに、取り替えるのが容易だからだ……。僕はなぜこんなことを知っているんだ??浅黒い肌……違う。霞でもかかったような黒い人影が僕に手を伸ばす。

 ──大丈夫だよ。傷つけさせはしないから──

 ──君は──だから──

 聞こえない。聞こえないよ。僕はなんなの?


 アーチーがウエストでひもを結んでくれた。

「変な格好だけど、まぁ我慢な!熱心な信者は下着もつけないらしいぜ」

 ケラケラと笑ってアーチーが裾を持ち上げた。勿論ちゃんと下着を履いているので、お尻が出ちゃうことはない。僕もちゃんと下着は履いてる。履いてるんだけど……ゲラゲラ笑うアーチーの太ももに目がいってしまって、目を逸らす。良くない。良くないと思うとどぎまぎしてしまう。

「ジョセフぅ」

 アーチーがニヤニヤしながら僕を覗き込んでいた。

「お前、どっち?」

「どっち……て……?」

「ヘテロっぽいけどどっちもいけるのかなって」

 ペロリと赤い舌が唇を舐める様子に釘付けになる。心臓がドクンドクンと脈打って僕を追い詰めた。

「でも、それは……あの、罪……でしょう?」

「はぁ?いつの話だよ」

 ケラケラとまた快活に笑う。そ、か……?同性愛は罪……じゃない??

「俺のこと、涎でも垂らしそうな勢いで見てたから、てっきりそーなのかなって思った」

「そーなのかなっ……て?あの、僕は……その……」

バシン、バシン、と背中を叩かれて、前のめりにたたらを踏んだ。


「これは罪だ。罪深いことだ」

 僕は目の前の誰かにそう言っていた。ああ、また白昼夢なんだろうか。胸が痛くて苦しかった。目の前の誰かは青年だった。彼の事は逆光だからなのかよく見えない。僕は目の前の彼が好きだった。でもそれはいけないことだってわかっていた。そうだ。この家にお嫁さんが来る何日か前のことだった。僕のお嫁さん。結婚して、子をもうけてこの家を繁栄させる。それが僕の役割のハズだった。

「度が過ぎた好意なのはわかっているんです」

 彼の声が震えている。なのに僕は彼を慰めてやることも出来ない。彼は馬番で、幼なじみだった。

「旦那さま……」

 僕は言わなくちゃいけない。彼に。

「君には暇を出す。他へ行くのなら紹介状を書こう。悪いようにはしない」

 本当は彼に愛していると伝えたかった。でも出来ない。それは罪だからだ。

「そんな……私はこのお屋敷以外での生きる術を知りません……お願いです。ここに……」

傍らの暖炉の中で火が爆ぜる。まだそんなに寒い時期ではなかったけど、手紙を焼くために火を起こしたのだ。僕が無造作に投げ入れた手紙が火の勢いを弱めてしまったので、傍らの火掻き棒で紙片をかき混ぜる。彼は僕から火掻き棒を受け取って僕よりも上手に手紙がきれいに焼けるように火の加減を整えてくれた。

 結局不毛な言い合いになってしまった僕と彼は……あの後どうなったんだっけ?ズキン、と右目が傷んで目を瞑った。痛い。こんなことなかったのに。右目から頭の中心にかけて痛くて堪らない。


「大丈夫か?!」

 アーチーが僕を覗き込む。すっと痛みが引いて僕はホッと息を吐く。

「平気……平気だよ。ごめ……」

「やっぱどっか悪いってことないか?」

「ないよ!僕は健康!ね?早く行こう!!」

「無理ならすぐ言えよ?」

 赤い髪が揺れていた。赤……。なぜだろう酷く懐かしい。赤い髪。柔らかそうな癖っ毛が僕の目の前で揺れていた。


 借りたミニバンを施設の脇に付けると、僕らはバンの屋根に登って中を見下ろす。

「左手から数えて三番目だ、あのテント」

 テントと言うより、遊牧民の使う大きなゲルのような建物だった。結構しっかりした感じで、サーカステントみたいな。事前に見せられた写真の中のヒューイはブルネットに緑の目をした少年だった。母親に連れられてこの教団に取り込まれた子供だ。聞いた話では完全なヴィーガン食で生活することで体の不浄を取り除くとか何とか。僕は……肉も魚も好きだな。今朝のミルクコーヒーは絶品だったから、あれが飲めないのはツラい……かも???

「ロープをバンの扉に噛ませて、さらに後部座席に固定しよう。場合によっちゃヒューイを抱えてこの塀を越えなきゃなんねぇ」

「ヒューイはここから出たいんじゃなかった?」

「……ヴィーガン食は真っ平だって言ってた」

「アーチー???」

「ヒューイ奪還が目標だから!」

「アーチー????」

 座席にロープをくくりつけているアーチーはそれ以上話すつもりは無さそうだった。ほんの少しの不安と、僕への信頼がなんだか痛いんだけど、乗り掛かった船と言うヤツだから頑張ろうと気合いを入れた。


 ロープを伝って三メートル程の壁を降りる。そのまま目当てのテントを目指して連れだって歩きながら、注意深く辺りを見回した。シンとして閑散とした場所だった。もっと人がいても良いのでは?と思いながらアーチーの後ろを付いていく。

「ねぇ、いつもこんなに人がいないの?」

 前を行くアーチーが

「いまの時間はお祈りしてるはず」

 といって人差し指を口の前に当てた。静かにしろ?ってことかな?と口をつぐむ。三番目のテントを逸れて、その奥へ進むとコンクリート作りの建物が見えて来た。あそこがホールになってるらしい。

「もうすぐミサが終るからフード被れ」

 出入り口の脇で信者が出てくるのを待っていると、数分でゾロゾロと同じような格好の人々が出てくる。僕らはその流れに上手く合流して、それぞれのテントに帰る信者の波を掻き分けた。


「この子を助けて!」

 ハッとして頭を上げた。あれは母さんの声だ。また右目が燃えるように熱くなる。なんだこれは熱い。痛い。

「助けて!お願い!火掻き棒が目に!ああ神さま!お願い誰か!お医者を呼んで!!早く!!──を助けて!」

氷のような冷たい熱だった。熱いはずなのに。右目に深く刺さった鉄の棒は僕の眼球を焼いてその奥まで刺さっていた。肉の焼ける嫌な匂いが辺りに漂って、吐き気がする。母の後ろで半狂乱になった彼が僕を愛していると叫んでいた。ああ。僕もだ。体が熱くて冷たかった。母の祈りの声が途切れ途切れに聞こえている。

─神さま!神さま!!!お願い!!この子を助けて!─

 そうだ。僕は彼の握る火掻き棒で右目を……。でも彼は僕を傷つけようとした訳じゃないんだ。だから、……だから神さま、どうか彼に罰が下ることのないように……お願いします。神さま……


 ツン、と袖を引かれて我に返った。

「あの、ご気分でも?」

 僕を覗き込むブルネットには見覚えがあった。

「ヒューイ?」

「ええ。ワークでご一緒したでしょうか?」

「そう、そう、です。ええ。お若いかた。私を覚えていて下さいましたか」

ヒューイはマジマジと僕を見て怪訝な顔をした。

「僕。あなたにお会いしていたら忘れないと思うんです……だって、あなたにはとても特徴的な……その……」

そう言って右手を自分の右目の前でふって見せる。

「ああ。きっと、きっとヒューイに会ったときはこの眼帯がなかったのですよ」

 僕は微笑んで右目を掌で覆って見せる。ヒューイは僕をまたじっと見て、バツが悪そうに目を臥せた。そんなに酷い顔かな……ちょっとだけ傷ついてしまう。

「ものもらいが酷くなってしまって……」

 傷つきながら、手を外して下を向く。

「いいえ、きっと!きっと教祖さまが助けてくださいますよ。それにあなたの目も治ります!それから……」

 今度はヒューイは少しだけ頬を赤らめる。

「あなたはとても……その……素敵だと思います」

 面食らって狼狽えながらありがとうと伝えると、ヒューイはじゃあ、と言ってテントへ行ってしまった。後ろ姿を見送ると背中をバシンと叩かれる。

「なんで行かせるんだよ!!バカ!」

「へ?」

「ヒューイだったんだろ?!いまの!この!マヌケ!」

「え?あ、そうだった!おおい!まってよ!!ヒューイ」

 僕らは慌てて走り出した。


 ヒューイを追って潜り込んだ三番目のテントの中は一種異様な雰囲気だった。

「お前は右から探せ。俺は左からだ」

 円形のテントの壁際にそって宗教画が垂れ幕になってかかり、どうも垂れ幕の中が個室になっているようだった。個室と言ってもベッドが一つ押し込まれたような空間で、皆それぞれがベッドに座ったり寝そべったりしながら本を読んだり瞑想をしたりしている。窓がなく、淀んだ空気の中でお香のような香りが立ち込める。気分が悪くなりそうな程の香りの中で一つ一つ垂れ幕を捲ってヒューイを探した。


 また、右目がチリチリと痛み出す。眼帯の上から右目を押さえつけて垂れ幕を捲り続ける。

「ヒューイ知らない?」

 何度尋ねたかわからなかった。おかしいな見た目からは想像できない程広い?もう二十は覗いているのに、まだその先に垂れ幕が続いていた。だって反対からはアーチーが来ているハズなのに……。ギュウ、と絞られるようにして右目が傷んでその場で踞ってしまう。


 強く目を閉じると、遠くに白い光が見えた。

「馬番は鞭を打って放り出せ」

 父さんの声だ。やめて、やめて。わざとじゃないんだよ。父さん。父さん。体が鉛のように重たかった。指すら動かせずに、けれども意識はハッキリとしていた。ぼくが寝かされている部屋から近い場所で行われているであろう鞭打ちのパシン、ピシリという高い音と、彼の悲鳴とすすり泣きと命乞いをする声が聞こえてくる。僕は必死で声を出そうと力を込めるが、やはり体はピクリとも動かなかった。


 母さんが僕の手を握って、なにか祈りの言葉を唱えていた。母はとても信心深い人で、滅多なことで取り乱すことのない厳しい人でもあった。僕は母の声を良く聞こうとして、ギクリと体を強張らせる。母の祈りは彼への呪詛だったのだ。

「憎い、子供の頃から目を掛けてやったのに。私の──を傷つけるなんて」

「鞭打ちでは足りない。あいつの目を抉ってやりたい。──の目を抉ったように。許せない。憎い」

 母さん、止めて。そんな言葉はあなたに似合わないから。母さん。母さん。お願い。そんなこと言わないで。

 ─助けてやろうか?─

 暗闇のなかで声が響いた。母の呪詛は続いている。誰だろうか?

 ─お前の右目に住まわせてくれるなら、お前の命を助けてやろう─

 待ってよ。なぜそんなことが出来るの?僕の右目に住むってどう言うことなの?

 ─お前の母親は同意したぞ。お前が拒むなら母親の命は貰う。そうしてお前は今夜のうちに死ぬ─

 母さんが?そんなことを?

 ─そうさ、どれ程信心を説いたところで人間なんてそんなもの。どうする?母子仲良く心中するか?それとも私を受け入れるか?─

 母さんを助けたい。君を受け入れたら母さんは死なない?あと一つお願いがあるんだけど……

 ─人間は欲が深いな。聞くだけ聞いてやる。言ってみろ─

 外の鞭打ちを止めて欲しい。


 脂汗をかきながら垂れ幕を捲る。

「貴方は?先ほどの……?」

 やっと見つけたヒューイの手首をつかんで、グィと引っ張った。

「一緒に、来て欲しい……」

 背筋がゾクゾクとして脂汗が吹き出す。右目が痛い。助けて。痛い。痛い……

「大丈夫ですか?医務科に行きましょう。教祖さまのお薬がいただけるのではないかと思います」

 教祖……違う。君をアーチーに連れていって貰わなくちゃ。

「こちらですよ、汗を拭きましょう。ひどい顔色だ」

 違う。イヤだ。行きたくない。向こうへは行きたくないんだ。ヒューイ、アーチーの所へ行かなくちゃ。


 鞭を振るっていた父がその場で崩れ落ちた。周りで使用人達が父のもとへ走り寄る。鞭打たれた彼が呆然と父の方を見ていた。僕はその様子を上空から眺めていた。彼の上半身は所々皮膚が裂けて血が滲んでいた。

「これでいいな?」

 傍らから声がして顔を上げると、僕と同じ姿形の誰かが楽しそうに足下の惨状を指差していた。まるで自分の感覚が布にくるまれでもしたかのように実感がわかない。震える声で何とか「父は……?」と呟くと、僕と同じ顔が笑った。

「鞭打ちは止めたぞ」

 ワァワァと喧騒がここまで届く。唐突に父は助からないのだなと直感で理解したあと、この時の僕はそのまま気を失った。


 ヒューイに連れられた医務科はテントに輪をかけて胡散臭かった。アーチーは大丈夫だろうか。あのどういうわけか広いテントからどうしてこんなにすんなりと場所が移動できたんだろうか。わからないことが多すぎる。

 「病を得た私の可哀想な信者はここかな」

カーテンの向こうから気味の悪い猫なで声がして、ムッとするような甘い匂いが押し寄せた。思わず顔を顰めて下を向く。

「教祖さま!」

 ヒューイが頭を垂れて跪くのと僕が下を向いたのとはほぼ同時だった。また右目が傷んで来て僕は歯を食い縛る。

「こちらの者が教祖さまのお慈悲を乞うております」

 芯から陶酔したようなヒューイの声がして、彼の頭を撫でる手が視界の端に入り込む。そして僕は目を疑った。


 ─腐ってるなぁ。あの手─


 ビクッと背中が跳ねた。なに?誰だ?頭のなかで笑い声が響く。いや、正確には右目の、奥……か……?

「怖がらなくて良い」

 教祖の手がこちらへ向かってきて思わず目を強く瞑る。イヤだ。あの手はイヤだ。猛烈な吐き気が込み上げる。ふと思い出す。これは母さんが死んだときの匂いだと。


 彼を鞭打っていた父さんは急に動かなくなって死んでしまったそうだ。母さんは父が亡くなったことで精神的におかしくなってしまった。何ヵ月も部屋に閉じ籠もって、ある日首を吊って死んでいるのを食事を届けに行った小間使が見つけたと随分後になって教えて貰った。僕はその頃まだ臥せっていて、言葉すら通じない有り様だったらしい。母さんが亡くなった翌朝突然起き上がったのだと聞いた。家長である父と寡婦となったばかりの母が亡くなった僕の家で、僕の覚醒は久々の朗報だったらしく皆泣いて喜んでくれた。


 覚醒した後に母の部屋で嗅いだ甘い匂い……。それと同じ匂いが教祖からする……。


 頭がガンガンする。甘ったるい匂いのせいだ。ここはイヤだ。イヤだ。助けて。誰か。ここはイヤだ。


 ヒュン、と空を裂く音がして目の前の教祖の首が消えた。頭がのっていた場所は噴水のように血が吹き出している。傍らでヒューイが悲鳴を上げて落ちた首を抱えていた。これはなに?何が起きたの?どうして?生暖かい血が僕に降り注いで、僕はたちまち血塗れになった。それでもまだ教祖の首からは血が吹き出し続けている。ヒューイの悲鳴がまだ聞こえる。ギャァァとか、ヒィ、とか人間てこんなに悲鳴のバリエーションがあるんだなと妙なところで感心した。そのうちにヒューイは抱えた生首を勢い無く血を吹き出していた首の上に乗せ始める。そして狂ったようになにかの題目を唱え始めた。生首は何度も地面に落ちて、その度にヒューイが血走った目で生首を置き直していた。三度目に生首が地面に落ちて、顔の皮がズルリと剥けると、眼球がデロリと床に飛び出す。僕はその濁った目玉を見詰めて「不味そうだな」と考えていた。


 医務科の垂れ幕が上がって、悲鳴を聞き付けた数人の信者が入ってきては叫び声を上げて出ていった。ヒューイは啜り泣きながら題目を唱えている。そして僕は……僕はと言えば、むせ返るような血の匂いの甘さにただただ酔っていた。ヒューイが僕を見てヒッと小さく悲鳴を上げる。そして後退さる。僕は無感情にただヒューイを見下ろしていた。なんの感慨も浮かばないどころか、酷く空腹だった。


 僕が目覚めて、家畜が死にやすくなった。馬も、牛もヤギも鶏も。犬や猫でさえいつの間にか姿を消した。家畜がいなくなると、今度は村の子供が消えていった。子供がいなくなると大人達が。両親が死んで、たった十年足らずで僕以外の人は消えてしまった。そうして僕は歩き出したのだ。女王陛下のおわす場所へと。僕は歩き回る災厄でしかなかった。立ち寄った村は悉く消えてしまった。そうして、戦争と言う名のもっと大きな災厄がこの国に振りかかった頃に、僕は空から落ちてきた鉄の塊の直撃を受けて、土のなかで眠りについたのだ。あの頃はいたるところに新鮮な死体が落ちていたなぁ。僕は思う様貪っていたから、だからこの間目覚めるまでずっと眠っていられたんだろうなぁ。そう思うとクスクス笑いが止まらなかった。


 医務科の鏡に僕の姿が写る。醜悪な笑みを浮かべたソイツは、口の端についた教祖の血を舐め取って、顔を顰めた。舌が痺れる。薬だなとすぐに気づいた。おかしなものを体に入れるから、生きながら腐るのだと。

 ─楽しいな?─

 誰かの声がした。ああ。楽しい。

 ─昔のように、腹一杯食おうじゃないか─

 ああ、そうだね。そうだ。たくさん、たくさん食べよう。だって腹ペコだもの。

 目の前のヒューイが居なくなった。腕だけが床に転がって、口中に甘酸っぱい味が広がる。咀嚼して飲み下しながら医務科から出て通路を進んだ。僕を見てすぐに垂れ幕のなかに引っ込んだ者は、数秒だけ命を長らえた。けれどもすぐに垂れ幕ごと切り裂かれて床に転がる。白かったテントの中が赤く染まっていく。楽しくて仕方がなかった。

「あはは、はは、……」

 いつの間にか笑っていた。足元に転がった脛を蹴飛ばしながら「神などいない」と高らかに宣言をして、天井をぶち破る。支柱ごと倒れ込んだテントの下から悲鳴が聞こえて、僕は中空で腹を抱えて笑っていた。

「ジョセフ!やめろ!やめろ!!!」

 テントから這い出した誰かが何かを叫んでいる。赤い髪だ。ふと、思考が止まった。あれは誰だ。赤い髪……ヨナ?……

 「ジョセフ!降りてこい!もうやめろ!やめるんだ!!」

 違う。ヨナは死んだ。労せず僕から愛されることを望んで、それが叶わなかったからといって僕の右目を焼いたヨナは。

「アーチー……」

 口が勝手に誰かの名前を象った。でも僕は知らない。誰のことだ?アーチー?

「ジョセフ!」

 違う。僕の名前はジョセフなんかじゃない……また右目が燃えるように痛くなって体を折る。それと同時に体が下降し始めた。


 鞭打たれた後、屋敷の主人の突然の死の混乱に乗じて、ヨナは森に駆け込んでいた。背中一面を覆う真っ赤なみみず腫れと、所々血が滲む皮膚は駆ける度にヨナを苦しめた。でもそれよりも辛かったのはあれほど愛していた男の右目を潰した事だった。あの時、ヨナは激昂していた。自分に暇を出そうする男の意気地の無さにだ。ヨナは彼を愛していて、彼も自分を愛しているのだと思っていたのに。あの瞬間までは。それでも焼けた火掻き棒を振り回すほど分別がないわけではなかった。彼の側に蛇がいたのだ。天井からぶら下がって鎌首をもたげていた。その蛇を排除しようとしたのだ。それがあんなことになるなんて。ジワジワと涙がせり上がって、暗い森の中を余計に見え難くしていた。月が朧に足元を照らしていたけれど、息の上がったヨナには月明かりはあまり助けにならなかった。


 右目の猛烈な痛みに耐えかねて、僕は地面に踞った。芝生が見る間に枯れていき、僕を中心に燃え上がる。眼帯を外してしまおうとした時にまた「ジョセフ!」と僕を呼ぶ声を聞いた。違う。僕の名前はジョセフじゃない。そんな名前は知らない。なのに、僕の口は誰かの声を紡ぐ。

「アーチー!」

「ジョセフ!眼帯を取っちゃダメだ!ジョセフ!俺を見て!俺を!」

「アーチー……!」

 ボロボロと涙が止まらない。けどなぜ泣くのか、この涙はなんなのか僕にはわからなかった。アーチーが僕の方へ駆けてくる。まっすぐに。燃えるような赤い髪の彼が、踞る僕の背中を撫でて右目に掌を押し付けた。

「絶対に眼帯は外すな。ジョセフ。俺を信じろ」

「……うん……」

アーチーの目が芝生を焼く炎を写して赤く染まっていた。


 とうとう樫の木の根元で走り疲れたヨナは踞ってしまった。背中の無数の傷に汗が滲みて声にならない呻き声を上げる。今朝まで自分を受け入れてくれていた馬番の小屋にはもう帰れなかった。孤児だった自分を馬番にするために先代の馬番が自分を引き取ってくれてから、ヨナは他へ行ったこともなかった。だから心はあの場所へ帰りたいと泣いていた。

 暫く樫の根元で踞ったヨナはやがて目を閉じた。傷の痛みと疲労で、眠ってしまったようだ。月は中天を過ぎて変わらずぼんやりとヨナを照らしていた。

 ─起きなさい。ヨナ─

 深い眠りから引きずり出されるようにヨナは目覚めた。ヨナの目の前にはまるで貴人のような一羽の白い鷺のような鳥が佇んでいた。その鳥はゆっくりと、しかしまっすぐに自分の目の前へやって来ると、信じられないことにヨナに話しかけた。

 ─お前はもうすぐ狼に食われてその命を落とすでしょう。けれども私にはお前の魂が必要なのです。あの蛇を打ち負かすために。協力をお願いできますか?─

「……狼に食われるのはイヤです」

 鳥の言葉に対してヨナは答えた。鳥は瞬いて、そしてコロコロと笑った。

 ─ではどうしようか。お前の命はもう尽きているのに、肉を獣にやるのがイヤだという。お前だって散々獣の肉を食べたろうに─

 ヨナも瞬きして答える。

「痛いのはイヤです。……俺はもう死んでいるのですか?」

 鳥はまた瞬いて、それからヨナを湖のあるほとりまでゆっくりと案内をした。湖は鏡のように澄んで、鳥とヨナの姿を湖面に写していた。ヨナは鳥に促されて湖面を覗き込む。ヨナの体はたくさんの草に覆われて、あちこちから骨が飛び出していた。驚いたヨナが悲鳴を上げると、鳥は静かにこう言った。

 ─お前は食われるのはイヤだと言った。だから苗床になったのだよ─と。ヨナはその場で崩れ落ちて、体から魂が飛び出した。鳥はヨナの魂を咥えてから一息に飲み込んだ。

 ─さぁ。あの憐れな蛇を捕まえにいかねば─

 それから鳥はヨナの魂の行方について回った。蛇はなかなか姿を現さず、生まれ変わったヨナとも接点が無かった。そうして、鳥や魚や、虫になったりしながら十七回生まれ直して、ヨナの魂はアーチーになった。そうしてアーチーになったヨナは自分の名前を分け与えた「ジョセフ」のことをゆっくりと思い出す。

 鳥もまたアーチーになったヨナに囁いた。「眼帯を外させてはいけない」と。


 アーチーが僕の眼帯を押さえてくれていた。その顔が苦痛に歪んで、そして、僕の口のなかに血が溢れた。混乱しながらアーチーを見上げると、手が……僕の右目に吸い込まれていっていた。

「手を、手を離して……アーチー」

「外れ……ねぇ……食ってやがる……俺の腕……」

ゴフ、溢れた血が逆流して、激しく噎せる。耐え難い嘔吐感がせり上がって、僕は地面に向かって血を吐き出した。吐きながら、力の入らない腕でアーチーの体を突き飛ばした。ズルッとイヤな感触が目の奥でして、アーチーの腕が僕の右眼孔から抜けていった。その感覚が気持ち悪くて、また僕は嘔吐する。地面には肉片が散らばり、僕が吐いた血の匂いが辺りに漂っていた。

「あぁ、ちぃ……」

 ひっきりなしに胃からせり上がる血をドボドボと吐き出しながらアーチーの方へ向かう。僕のせいだ。僕の。なぜこんなことになっているんだろう。どうして僕はこんなことをしているんだろう。

─ご苦労だったな。お前はもう必要ない─

 眼底のもっと奥で声がした。それから体の奥から引き攣るように何かが右目から出てくる。脂汗と涙が止まらない。ゲェゲェと血を吐きながら歩みを止めて、左手に切れた眼帯の残骸を握っているのに気づく。瞬間右目から何かがズルリと出ていった。それがドスンと地面に落ちる。衝撃で膝をついた僕が見たのは、目の前で、何の感情も現さずに立っていたのは、僕と同じ顔をした男だった。

「ご苦労だったな」

 僕と同じ顔が似ても似つかない露悪的な顔で僕を見下ろす。

「……だれ、誰……なの?」

 ハッと短く笑って男が僕と目線を合わせた。

「ずっと一緒にいたろう?お前を守り、助けてやった。その命を長らえさせてやったじゃないか」

 男は僕の頬を撫でて言葉を続けた。

「二人でたくさん人を食ったろう?お前も楽しんでいたじゃないか。あの鉄の塊に押し潰されるまでは」

 ああ、そうだ……僕、僕……人を……。激しくえづいてまた血を吐く。吐いた血のなかに指や千切れた耳が混じっていた。これを僕が……ぐるぐると今までのことが過る。少し離れた所のテントからはまだ潰されたままの人たちの苦悶の声が聞こえていた。そうだ……アーチーを助けなくちゃ……うつ伏せになってピクリともしないアーチーの背中に手を当てる。起きて、起きて。アーチーの左手が手首の下からズタズタになっていた。かろうじてのこった三本の指が時折ぴく、ぴくと痙攣するように動く。早く手当てを……。手当てしないと……。

「まだ死なないか。しぶといな」

 僕の隣で同じ顔で酷いことを言う男。

 僕の右目の奥に住んでいたっていうこの男の顔が僕と同じなのは何か意味でもあるんだろうか。

「だが、もうすぐ死ぬ。この体でこれだけの血を流したらもう助かるまいよ」

 なんで、なんでこんな酷いことを言うんだろう。僕と同じ顔をしているのに。

「アーチー……アーチー……」

 涙がポロポロとアーチーの背中に落ちていく。僕は必死で彼の背中をさすり続けた。地面に広がる赤い髪に既視感を覚えて、目眩がした。

「お前がそれを食べたらいい。そんなに執着しているなら。俺は向こうのテントの下にいる奴らを貰う。トバイアス」

「え……?」

呆けた僕を見つめてから、男はゲラゲラ笑った。

「名前を忘れたのか?トバイアス」

「トバイアス……」

 何かがまた記憶の扉を叩いた。トバイアス。僕の名前……?でも僕は……。僕は……?

 三本しかない指が僕の手首をつかんだ。アーチーの顔が上がる。

「コイツは『ジョセフ』だよ。バカ野郎」


 逢瀬はいつもイチイの木でだった。赤い実が色づくと、二人で摘まんで食べながら、他愛の無い話をしては笑いあった。僕は幸せだったんだ。そうだ。彼の名はヨナだ。僕の幼馴染みで、初恋の人だ。赤い髪が燃えるようで、きっとイチイの実を食べすぎたから髪がこんなに赤くなったんだとよく冗談を言い合った。ヨナはイチイの実が好きだった。種に毒があるから気を付けなくちゃいけないと教えてくれたのもヨナだった。

 ヨナは孤児院から買われた子で、母さんはヨナを嫌っていた。父が結婚する前に愛した女性が赤毛だったからだと使用人たちの噂話で聞いたのは僕がずいぶん大きくなってからのことだ。父と結婚するはずだったその女性は、お産の時に死んでしまったらしい。産まれた赤子がどうなったのかは僕は知らない。僕はそんなこと関係なくヨナが好きだった。孤児だったヨナの正確な歳や誕生日がわからないからと、僕は彼に「じゃあ、同じ日に産まれたことにしよう」と提案した。ついでに背格好もその時はたいして変わらなかったから同じ歳ってことにしてしまった。

 いつから彼に恋していたのか。

 赤い実がなったある日、僕らはキスをした。


 それが人に見られていたなんて。即座に僕は教会に連れていかれて、教会の守の名の元で鞭打たれ、聖水を頭から掛けられて、二度と罪は犯さないと誓わせられた。僕は恐ろしくなった。彼を愛するのは罪なのだと。すぐに縁談が纏められて、僕は自分の意思だと思い込みながら結婚の書類にサインをしていた。花嫁が嫁いでくる前日に彼に暇を出そうと思った僕は、彼をも罪人にしてしまうのではと怯えていた。愛していたから。彼を愛していたんだ。だから幸せになって欲しいと……。


「あ、あ、ヨナ……ヨナ……僕のヨナ……」

 溢れだした涙が止めどなく流れていた。けれども、右手で僕を殴り付けて彼が叫んだ。

「俺はアーチーだ!!間違えるな!そんで、お前はジョセフだ」

「……僕は……ジョセフ……君はアーチー……」

 頭の中の霧が晴れていくように、急に何もかもがクリアになる。僕はジョセフ。アーチーが名付けた。僕の名前だ。ジョセフ。

「トバイアス!何をやってる。そいつを喰え」

 アーチーを抱き起こして僕は僕と同じ顔の男に叫んだ。

「食べない!絶対にだ!!」

腹の底から声が出ていた。

「ははは……!」

 と声を出して笑った。凄く気分がよかった。僕はジョセフだ。

「今さら喰うのを拒否した所で、お前の体は散々貪った人間の肉で出来ているんだぞ?滑稽だな」

「ちがうね」

 アーチーが僕の手を強く握って反論する。

「喰ったのはお前だ。トバイアスの形を借りてそこにいるだけだ。お前の帰る家はないぞ?お前を受け入れる肉の家はもう無いんだ。お前は滅ぶしかない。まだ気づかないのか?」

 アーチーの指差した場所。男の腹から腸が飛び出していた。

「俺は知っているんだ。イチイの種には猛毒があるって。さっき俺の手を喰ったろ?毒はもうお前の体を巡ったろう?お前はもうおしまいだ!!」

 繋いだアーチーの手が小刻みに震えている。僕は彼の手を握り直して、恐ろしい形相になる男を真っ直ぐに睨んだ。

「小賢しいな。たかだか人間の分際で!」

 男の足元から煙が吹き出して、見上げるような黒い蛇に形を変える。

「俺に死は訪れない。ダメージを負ったらしばらく眠るだけだ」

 生臭い匂いが鼻を突いて辺りに充満した。アーチーが三本しかない指を真っ直ぐにのばして蛇に狙いをつけるように構えた。

「そうか!なら永遠に死を繰り返せ!!!」

 ブワッと風が巻き起こって、アーチーの腕の先から白い鳥が飛び出した。鷺のような優美なそれが蛇を足で鷲掴むとグン、と強く羽ばたいた。蛇は断末魔のような叫びをあげてのたうち回るが、しっかりと掴まれた鳥の足が外れることはなかった。


 目覚めるとベッドの上だった。キビキビと立ち働く看護師が僕が目覚めたのに気づいて近づいて来る。

「ガス管の破裂だそうですよ。あなたは大きな怪我がなくてよかった」

 僕は曖昧に笑って、部屋を見渡した。窓付近のベッドのカーテンが開いてアーチーが顔を覗かせる。

「起きたか!ジョセフ!」

 左手にぐるぐると巻かれた包帯が痛々しかった。それでも僕の方を見ながらキラキラとした笑顔を向けてくれる。僕は体を起こしてアーチーのベッドまでゆっくり歩いた。アーチーの目が驚愕に見開かれていく。それから、クシャりと顔を歪めて泣き出した。

「泣かないで」

 ようやくベッドに辿り着いた僕の体は砂のように崩れ掛けていた。そりゃそうか。だって、人としては長すぎる時間を生きてしまったんだから。

「君に会えて良かった」

 アーチーの涙が崩れた肌に染み込んで蒸発する。赤い髪の向こうで青い空が広がっていた。綺麗だな。凄く。

「ジョセフ……ジョセフ!」

 アーチーが泣いてしまう。でも僕は君に笑って欲しいんだ。ヨナにもそうだった。最後に見たヨナの顔は苦悶に歪んでいたから。だから

「笑って……アーチ……」

 ああ、ありがとう。アーチー。


 ベッドの上の砂はあっという間に消えてしまった。ジョセフを診に来たドクターや看護師が戻らないジョセフを探して右往左往している。俺はそれを見ながら可笑しくなって、小さな声で笑ってから少しだけ泣いた。バイバイ。ジョセフ。生まれ変わって会いに来いよ。何度でも。何度でも。


おわり


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