第九十五話 二人目
彼女は機会を待っていた。
ラグナが王都にやってきてから、いや、そのもっと以前、ラグナが聖剣を手にした瞬間から彼女は待ち続けていた。
その機会がようやく訪れた。高密度の魔力に満たされ、結界に遮断されたその場所ならば力を十全にふるっても敵に気付かれる心配はない。
ゆえに、結界をすり抜けた。破ることはできずとも、判定に干渉し、自らをないものとしてしまえば侵入は容易かった。
問題は、その先。大魔法院の神童、かつての勇者の仲間、おそらく大陸おいて三本の指に入るであろう大魔法使いを打倒すことは彼女にはできない。
なにせ、自らの才覚のみで失われた古代の魔法を再現する怪物だ。セレンが本気を出せば王都を一撃で灰とにするのも容易い。現状は手加減しているとさえ言ってもいいだろう。
だが、だまし透かし、ラグナをさらうだけならば容易い。それらに関しては彼女の右に出る者はいない。なにせ、その人生において彼女は常に神々をも欺いてきたのだから。
◇
「――くっ!」
暗黒の太陽を前にして、ラグナは防御を固める。水銀の盾を大盾に変化させ、全身を覆った。
無駄というのはわかっているが、この場を生き延びるにはそれしかなかった。
相手は最上位の暗黒魔法だ。竜の鱗化、同じく高位の防御魔法でもなければ防ぐのは不可能だ。
歯を食いしばり、覚悟を決める。その瞬間、ラグナの大盾の前に人影が割り込む。
黒装束の女。ラグナが声を上げるより先に、女は右の掌をセレンへと向けた。
セレンの顔に怒りの形相が浮かんだ。
「邪魔するなぁ!!」
叫び声と共に、黒い太陽が落ちる。魔法が発動するその瞬間、それは起った。
『――法則干渉・削除』
空間に罅が入る。
ラグナが幾度となく目にしてきた、黒い罅。それこそは虫食いの証、世界の理に干渉する外側の力の現れだ。
罅は大きく広がり、暗黒の太陽をも覆いつくす。そうして、割れた。
空間が硝子のように砕け散る。その後には、暗黒の太陽は元から存在しなかったかのようにきれいさっぱりと消え失せていた。
ありえない、そんな思考がラグナの脳裏に過る。
目の前の女は間違いなく自分と同じ虫食いだ。だが、ラグナにはこんな芸当はできない。一度発動した魔法を消し去るなど、まるで奇跡、神々の御業だ。
『玄冬。枯れ野。この世の夜』
そんなものを目にしても、セレンは止まらない。素早く呪文を紡ぎ、術式を構築していく。
しかし、遅い。一度現れた虫食いは言葉よりも先に世界を侵食する。
『座標転換』
再び、空間に亀裂。ラグナと女の足元に黒い穴が開き、二人を飲み込む。
虫食いを利用しての空間転移。臓腑を掴まれるような異様な感覚がラグナを襲った。
転移の間際、ラグナはセレンの瞳を見た。そこにあったのは怒りではなかった。
悲しみと後悔、そして、縋るような懇願。
『どうして私じゃないの?』、かつてセレンに投げかけられた言葉が刃のようにラグナの胸を抉った。
転移の一瞬、ラグナの意識が混濁する。過去の記憶が残像のように瞼の裏に焼き付いていく。
空に浮かぶ光の輪。血塗れの両腕。降り注ぐ雨。そしてーー、
「さっさと起きてください。わたくしはあなたと違って暇ではないのですから」
居丈高な女の声に、意識を引き戻される。
ラグナは大理石の床の上に横たわっていた。
すぐにここがどこであるか理解する。荘厳な造りに、世界の始まりを表現したステンドグラスからして間違いない。
聖ケラウノス大聖堂だ。ラグナは聖剣教会の本拠地である大聖堂にいた。
素早く立ち上がり、盾を構える。状況は飲み込まないが、最悪の事態であることだけは確かだ。
女はラグナのすぐそばに立っていた。フードで顔を隠して、所在なさげに髪を弄っていた。
「そんなんで、よくここまで生きのびてきましたね。よほど運がよかったのかしら」
「……あんたは」
女の声にラグナは聞き覚えがあったが、声と顔がどうしても一致しない。口調も声から受ける印象も何もかも違っていた。
「まだわからない? まあ、初対面のようなものですしね、許してあげましょう」
女はゆっくりとフードを外す。窓から差し込む光が女の顔を照らし出した。
白い髪に、透き通るような青い瞳。白磁の女神像のようなその女を知らないものはこのアルカイオス王国には存在しない。
聖剣教会筆頭大司祭にして今代の剣の聖女、アリアナ・へカティアル。
大陸全土の聖剣教教徒、その頂点がラグナの目の前に佇んでいた。
混乱と困惑にラグナは唇を噛む。
不可解な戦況や絶望的な劣勢には慣れっこなラグナだが、それでもこの状況はあまりにも突然すぎる。
聖剣教会の大司教が虫食いで、その上、敵であるはずの自分を助けた。何から何まで、想定外のことだった。
「じろじろ見ないでくださる? 獣ににらまれているようで落ち着かないのだけど」
「……失礼した」
「あら、認めるの? さすがは異端者。聖職者も情欲の対象なのかしら?」
「そういうわけでは……」
「では、わたくしには女としての魅力はないと? それはそれで傷つきますわ」
対する、アリアナにはラグナをからかって楽しむだけの余裕がある。獲物をもてあそぶ猫のようにラグナの反応にほくそ笑んでいた。
普段の彼女、大司教としてのアリアナとはまるで別人だ。いや、それどころか、聖剣教の聖職者にとっての禁忌をアリアナは犯していた。
「あんた、本当にあの大司祭か?」
「なに、疑ってるの? ああいや、そうね、らしくしてみせましょうか? 天に座します、偉大なる理の神よ。われらの営みをなんちゃらかんちゃらって」
「……いや、いい」
神聖なる祭壇に腰かけ脚まで組んで見せるアリアナに、ラグナは眉をひそめる。聖剣教に帰依したことはないが、それでも彼女の態度は目に余るものがあった。
「わたくしは、間違いなくアリアナ・へカティアルですよ。そして、貴方と同じ虫食い。後者に関しては、今更証明はいらないでしょう?」
アリアナは祭壇の上に身体を倒し、掌を頭上に掲げる。細い指先から黒い罅が空間に走った。
間違いない。虫食いだ。それも使いこなしている。彼女のように自在に罅を生じさせることはラグナにはできない。
「聞きたいことは山ほどあるだろうけど、まずは安心していいわよ。兵士を待機させたりはしてないから。気配くらい、探れるでしょ?」
言われた通りに、周囲に感覚を巡らす。
引っかかるものはない。少なくともこのことに関してはアリアナは嘘を吐いていないようだった。
依然、主導権は握られたままだ。アリアナの一存で状況はどうとでも変わる。指の一つでもならせば、大聖堂中の聖堂騎士たちがここに殺到するだろう。
慎重に立ち回る必要がある。
だが、それ以上にアリアナからできる限りの情報を引き出さねばならない。
虫食いについて。聖剣教会について。王都の現状について。彼女が持つ情報は今の戦況を覆しうる。
「……狙いは何だ? なぜオレを助けた」
「わからない? 意外と鈍いのね」
「よく言われるよ」
ラグナの返答に、アリアナは口角を上げる。意地の悪い含み笑いが荘厳な聖堂にこだました。
アリアナはひとしきり笑うと、姿勢を起こす。蒼い瞳の奥に何か暗いものが過るをラグナは見た。
「貴方を助けたのは、貴方に借りを作るため。協力者にするにしても、上下関係は大事でしょ?」
「……協力者?」
「そう、協力者。わたくしと貴方で、全部壊すの」
アリアナは牙を剥くように、笑みを浮かべる。彼女はこの瞬間を心の底から待ち望んでいた。
降神暦1595年12の月、その二週目のこと。二人の虫食いがここに邂逅した。