第九十三話 妹
その霊園は貴族街の外れにある。
城からも大聖堂からも離れたその場所には歴代の勇者の墓がある。それゆえ、古くから多くの信仰を集めてきた聖地でもあった。
オルフェの霊園。その中央に鎮座する聖樹の袂に勇者の墓はある。
墓は拍子抜けするほどに簡素で、装飾と言える装飾さえない。ただ永遠石に刻まれた十五の名前だけがここが勇者の墓であることを示していた。
一番下に刻まれた最新の名は、ロンド・ライデイオン。その名前の前にラグナは立っていた。
「わざわざ危険を犯してまだやることが墓参りとは……わらわには分からぬ。友情とはそういうものなのか、爺」
離れた馬車の中で、アリティアが言った。彼女には墓前に立つラグナの背中がひどく力なく見えていた。
この墓地に寄ったのは、まったくの予定外だ。
ギルドからの帰路でたまたま視界に入ったところ、ラグナがどうしても寄りたいと懇願したのだ。そのうえで自分を降ろしたらすぐに立ち去るようにともラグナは言っていたが、アリティアはそちらの懇願は無視している。
今この状況で一人きりにするほど、彼女はラグナを信じてはいなかった。
「少なくとも男にとってはそうですな。ただ、ラグナ殿の場合はもっと複雑かと。騎士にとって守るべきものを守れなかったというのは、一生の悔恨となりましょうぞ」
「騎士でなくとも後悔はある。だが、理解はできる。多少は、でしかないが」
アリティアが頷くと、グスタブは髭を擦る。
こうした柔軟さ、物わかりの良さはアリティアの長所でもあるが、それが同時に彼女を苦しめていることを彼は知っていた。
「出過ぎたことを申すようですが……」
「ならば申すな。わらわの頭はギルドの連中のことで一杯じゃ」
「姫様は、参らずともよろしいのですか?」
「ぶしつけだぞ。控えよ」
「よい機会では?」
まるで引き下がる気のない傅役に、アリティアは短くため息を吐いた。
物心がつく前からグスタブだけはアリティアを王族として尊重し、正式任じられたわけでもないのに傅役のように振舞っている。そのことに今更疑義を唱える気はないが、時折、心中を見透かしたような物言いをされると疎ましくもあった。
しかし、本気で怒る気にもなれない。アリティアにとってグスタブは実の父よりもよほど父親というものに近しい存在だった。
「……わらわにその資格はない。悲しんでもいないものに参られても、ロンド殿も迷惑であろうさ」
「ふむ……姫様は勇者殿がお嫌いでありましたかな」
「そう単純な話ではないことは、そなたもわかっておろうに。むしろ、わらわのようなものにロンド殿は過ぎた相手でさえあっただろうさ」
必要ない、と分かっていながらアリティアは胸中を口にしていた。
「だが、そうさな。あの方もわらわのことを見てはくれなかった。お会いしてもいつもどこか遠くを見ておられたよ。それが勇者としての使命であったのか、ほかの何か、あるいは誰かなのかは、わらわにはわからぬが」
「左様ですか……」
そこまで口にして、アリティアは脳裏にロンドの瞳を思い浮かべる。
あの瞳が真に自分に向いていたなら、涙を流すこともできたのだろうか。そんな今更な考えが浮かび、アリティアは窓の外に視線を戻した。
「あやつなら、わかるのだろうか」
遠い背中にそう投げかけてから、彼女は思考を切り替えた。
考えるべきことは他に山ほどあった。
◇
「――本当は、ここに来るのは最後にするつもりだったんだ」
長い沈黙の後、ラグナはそう切り出した。
ロンドの亡骸は天へと還り、ここにあるのは名前だけだ。理性ではそう分かっていても、心に浮かぶのは親友への声掛けだけだった。
「全部終わってから報告しようと思ってたんだが……まあ、いい機会だしな」
墓前には一つだけ花束が供えられている。追悼を意味する月桂樹の花だ。
視線を上げて聖樹を眺める。
屋敷ほどの大きさを誇るこの木はアルカイオスの国が興るはるか以前、神話の時代からこの場所に植わっているとされている。冬だというのに青々とした葉には、その一つ一つに死者の魂が宿っている、という伝承もあった。
周囲に人気はない。広い霊園には、ラグナ一人きりだった。
「シスターは……そのうち来ると思う。口では墓石に墓石以上の意味はないなんて言ってるが、ああいう人だしな」
冬の冷たい空気は、ラグナの記憶を呼び起こす。
シスターの孤児院にいたころは、いつも皆で肩を寄せ合っていた。つつましい生活ではあったが、不足や不安を感じたことは一度としてなかった。
今は違う。埋められない空白は冷たいままだ。
「……でも、新しい仲間はできたよ。お前もあったら気が合うと思う。みんないいやつだ。ユウナギとは、その、いろいろあるけどな、責任の取り方ってのは難しいもんだ」
それでも胸を張って、ラグナはそう続けた。空白は埋められずとも、進み続けることも、拠り所を見つけることもできた、と。
「それでも、仲間は仲間だ。一人じゃない。だから――」
「――心配ないだなんて言わないでよ」
背後から声をかけられる。気配さえなかったが、ラグナに驚きはない。彼女がここに来ることは知っていた。
懐かしさと罪悪感を抱えたまま、振り返る。そこには一人の少女が立っていた。
腰まで伸ばした金髪に白い肌。緑色の瞳には怒りとも悲しみともつかない光が揺れていた。
「セレン」
「…………兄さん」
セレン、それが少女の名だ。彼女は勇者ロンドの仲間その一員だった。
一歳年下の彼女は、ラグナやロンドにとって妹のようなものだった。
「セレン。その呼び方は」
「あたしの呼びたいように呼ぶ。兄さんだってしたいようにしてるから、文句は言えないはず」
セレンはラグナの隣に立つと、花束を取り替える。
セレンは鍔広の三角帽を被り、蒼い外套を身にまとっている。胸元には杖と薔薇のブローチを下げていた。
これらは全て彼女が大陸随一の学府、大魔法院の学士であることを示していた。
「……『蒼』に昇格したのか。おめでとう」
「ただの昇格じゃなくて最年少での昇格だから。まあ、興味ないだろうけど」
「そんなことはない………って言っても説得力ないか」
「ええ、ない。兄さんはいつだってあたしの事は後回し」
セレンはラグナと目を合わせぬまま、墓に祈りを捧げる。ラグナもまた彼女が立ち上がるまで、黙ったままだった。
「……ロンドの葬儀ぶりだな」
「正確には、その直前。誰かさんはあたしに声をかけることすらしなかったから」
「セレン、オレは――」
「聞きたくない。どうでもいい」
セレンの声には責めるような響きはない。ただ淡々とあらゆる感情を抑えて、事実だけを口にしようとしていた。
そうしなければ彼女が立っていられないことにラグナは気付いた。アリティアもそうだが、いっそ感情に任せて責め立てられた方が楽だった。
自分にはロンドの死に責任がある。記憶は穴だらけで靄が掛かったままだが、その確信がラグナにはあった。
だが、そのことについて懺悔している暇はない。
静かに覚悟を決める。迷いと共に息を吐き出して、ラグナは本題に入った。
「…………オレが来てるって誰に聞いたんだ?」
その問いに、セレンはすぐには答えなかった。この霊園にラグナを呼び出したのはセレンだった。
つい昨日のことだ。冒険者ギルドへの根回しをアリティアが行っている最中、ラグナのもとに内々に手紙が届いた。
ラグナにしか読めないように高度な魔法文字で書かれ、幾重もの隠蔽処理が施されたその手紙には、ただ一言こう書かれていた。
「明日の夕暮れ、彼の墓にて待つ 妹より」。ラグナにとって送り主が誰か理解するにはそれだけで十分だった。
ゆえに、アリティアに無理を言ってまでこの霊園に立ち寄った。どれだけ危険な行為かはいやというほど理解していたが、それでもセレンを無視することはラグナにはできなかった。
「王都にはあたしの結界が張ってある。兄さんが入れば当然わかる」
「兜の効果で無効化されるはずだったんだが……」
「あたしが感じるのは普通の魔力じゃないから、そんなのは効かない。まあ、結界を張ったのは最近だから知らないのも無理ないけど」
「……なるほど」
内心、ラグナはさすがは神童と舌を巻く。
仲間だった時から彼女の才能のすさまじさは知っていたが、城一つを覆い個人を特定する結界など聞いたこともない。
蒼の外套は、大魔道院において最高位の色だ。それにふさわしいだけの実力がセレンにはある。
心からの尊敬と畏怖に値する。だからこそ、敵に回さなければならないことがラグナには残念でならなかった。
「……それで、セレン、どういうつもりなんだ?」
「どうもこうもない。兄さんを捕えて、全部終わらせる。それだけのこと」
周囲に満ちているのは、無尽蔵とも思えるセレンの魔力。蒼く輝くそれはラグナを取り囲む広大な海のようだった。