第九十話 王国
夜明けとともに、火は消えた。消火の努力の結果ではない、火は燃やすものがなくなったことで自然に鎮火した。
今は戦時だ。本来であれば城内で火災があれば、消火は兵たちと宮廷魔術師たちの役割となる。
そのどちらも、現場に現れることはなかった。城下の一部に手火の手が上がり、虐殺が行われてなお、彼らは自分の持ち場から動くことすらしなかったのだ。前日に下された城下で何が起きようともそれぞれの持ち場を厳守すべし、という王命の結果だった。
無論、ラグナとグスタブは先陣を切って消火活動に回った。しかし、どれだけ強くとも、二人は二人でしかない。小鬼たちを殲滅することはできても、火の手をすべて消し去るのは到底不可能だった。
後日、行政官たちによって報告された被害は以下の通りだ。
住宅、150棟の焼失。負傷者、1430名。死者、3000名以上。被害はどれも平民や流れ者の住まう下町で中心部にある貴族街には傷一つなかった。
降神暦1595年12の月の中旬、王都ケラウノスにはよからぬ風説が流れつつあった。
王は民を見捨てた、その噂を否定することはラグナにも、グスタブにもできなかった。
「――教会の生臭どもめ! 全員まとめて呪われればよいのだ!」
着席を許されて早々、グスタブはそう言い放った。机に拳を叩きつけると、部屋全体が大きく揺れた。
ガレアン城内、東塔にあるアリティアの私室である。城内でも離れにあり、奥まった場所にあるこの部屋を訪れる者は極めて少なかった。
「落ち着け、爺。わらわの部屋を壊す気か?」
「面目ない。しかし、我慢ならぬものは我慢ならんのです。このグスタブ長く騎士をやっておりますが、これほどの侮辱を受けたことはこれまでにありませぬぞ!」
魔軍による襲撃から三日、グスタブは日に五度は王への面会を求めている。今回の襲撃について言上し、その対策のため軍を動かすためだ。
しかし、この前代未聞の事態においてなお、王は聖堂に引きこもり姿を見せない。グスタブが何度目通りを願い出ても、聖剣教会の司祭たちには取り付く島さえなかった。
「たかが門前払いで大袈裟なことじゃ。わらわなどもう二年も目通りできておらぬのだぞ」
「しかし、此度は異常です。我輩は王の盾ですぞ。それをあやつらただの太鼓持ち呼ばわりしよってからに……」
憤懣やるかたないという様子のグスタブに対して、アリティアは落ち着き払っている。軽んじられるのも、粗略な扱いを受けるのも彼女は慣れ切っていた。もっともそこには王族としては、という条件が付くが。
「軍の指揮はどうなっているのですか?」
部屋の隅で所在なさげにしていたラグナが、会話に加わった。シスターは彼の側で椅子に腰かけ、本を読んでいた。
街で宿をとるわけにもいかず、ラグナとシスターはこの東塔に逗留していた。対外的には、アリティアが新しく雇い入れた使用人ということになっている。
「皆、王命に忠実に従っております。忠実すぎて、民を守るという本分を忘れるほどに」
「王の戦技、いや、特性か。王国に属するものは、その命に逆らえん」
シスターが言った。彼女の声には強い嫌悪が滲んでいた。
「然り。王も厄介な王命を下されたものだ。これでは城壁は守れても、民も城下も守れぬ」
王はなぜこのようなことを、とアリティアは額を抑える。吐き出しそうになった不安を紅茶で流し込んだ。
「爺、そなたの権限で割り込めないのか? 王の騎士として兵に命を下すこともできよう」
「できますが、動かせるのは我が配下の兵のみです。しかも、その者たちは正門の守りについておりますゆえ、容易には動かせませぬぞ」
「ううむ……何か起これば、爺とラグナに任せるしかない、ということか」
「クザンの攻撃が始まれば、それもかないますまい。我輩がおらねば城門は容易く落ちるかと」
グスタブの言葉には誇張も驕りもない。紛れもない事実だ。
グスタブの職業大騎士はただ戦場にいるだけで味方全ての防御力に加護を発生させる。この効果があるとないとでは、防戦においては天と地ほどの差がある。
また、クザンの最精鋭たる十三人の獣将に対抗できるのも現状ではグスタフただ一人だ。グスタブが戦場を離れていると知られれば、その獣将たちが一気に攻め込んでくる。そうなれば、王都は終わりだ。
つまり、再び魔軍が空から攻めてくればラグナ一人で戦うしかない。シスターの援護があったとしても、入り組んだ城下ではそこまでの効力は期待できないだろう。
「それではいかん。ラグナの役割は門の特定と破壊だ。毎夜あれだけの数を相手にしていたら、その前に消耗しきってしまう。こやつは勇者ではないのだからな」
シスターが言った。
彼女が提示したラグナが協力するための最低条件がこれだ。
相手にするのは、魔軍のみ。発生源たる門を破壊し次第、即撤退だ。そのためにも数日中にはバルカンたちが空中戦艦で駆けつける予定になっている。
「こちらが門を特定するまで魔軍の襲撃がないのを祈る、というわけにはまいらぬであろう。次の襲撃までに、どうにかして、軍を動かさねばならぬ。だが――」
堂々巡りの問答に、アリティアは爪を噛む。現状を変えるには、どうやっても駒が足りない。
市井の人々にも貴族たちにさえ知らされていないことだが、今のガレアン城はもぬけの殻だ。第一王子を筆頭に主要な王族はすでに王都を脱している。残っているのはアリティアを含めて、重要度の低い者たちだけだ。
理屈としては納得できる、万が一王都が落ちたとしても、王族さえ生き延びていれば国の再興は叶う。安全策としては妥当だ、とさえアリティアは思っている。
しかし、民草はそうは思わない。彼らがこのことを知れば見捨てられた、と解釈する。ただでさえ、昨夜のことで王家への信頼は損なわれているのだ。今このことが外部に漏れれば、民が反乱を起こすことさえ考えられる。
そうなれば、王都は戦わずして陥落する。民は喜んでクザンの牙紋旗を迎えるだろう。
「……わらわの蔵から怪我人と遺族に見舞金を出す。あくまで、王家からのものということにしてな」
「さすがは姫。少ないですが我輩の懐からも加えておきましょう」
「うむ……」
どうにか策をひねり出したものの、アリティアの表情は晴れない。民草に見舞金を出したところでそんなものは気休めにすぎない、と彼女はわかっていた。
軍は王の手中にあり動かすことはできない。各地の兵団や同盟国からの援軍を待っている時間もない。クザンがいつ動くともわからない以上、今すぐ動かせるだけの兵力が必要だった。
頭に熱が籠るのをアリティアは感じた。皿に盛られた飴を口に放り込んだ。
解決できない問題が起こるといつもそうだ。一人きりならばうめき声をあげて、寝台に飛び込んでいただろう。
勇者が、ロンドが死ぬまではこんなことはなかった。彼女の道は決まりきっていたし、その道には彼女が手こずるような問題は何一つとしてなかった。
すべての始まりは、ラグナだ。恨み言の一つも吐き出してしまいたかった。
「……冒険者ギルド、というのはどうでしょうか?」
そのラグナの一言がアリティアの迷いを晴らした。
各地に戦力を分散しているとはいえ、冒険者ギルドは一大勢力だ。その力があれば軍を動かさずとも王都を守ることができる。
また、彼らは王の指揮下にはない。持ち場を守るだけではなく、能動的に戦うことも可能だ。
問題があるとすれば、どうやって冒険者ギルドを動かすか。そのための交渉材料は、今アリティアの手にあった。