第八十三話 客人
鉄の空での戦いから二か月がたったころ、アトラス山脈に冬が訪れた。
降り積もった雪は山肌を白く染め、吹き荒ぶ風は肌を切るように冷たい。肺の中の空気が凍りつきそうなほどの寒さだった。
山猫族の村も冬籠りの様相を呈している。窓は閉め切られ、住人の大半は暖炉の側で丸まっていた。それまでのことがまるで嘘だったかのような、例年通りの静かな冬だった。
そんな冬景色の中、村の外れで動く人影が二つある。足元の雪を吹き散らしながら、ぶつかる二つの影が。
「――は!!」
影の一つ、藍色の着物の女が刀を振るう。剣閃の衝撃波が吹雪を巻き起こした。
ユウナギだ。彼女が斬撃を放つたびに、雪景色に隙間が生じていた。その軌跡は上から見下ろせば、さながら白い紙に描かれた一輪の花にも見えただろう。
「っ!」
その花弁の合間を縫うように、もう一方の影は駆け回っている。右手には聖剣が、左手には白銀の盾が握られていた。
ラグナだ。ユウナギの優雅さとは対極ともいうべき、泥臭い戦い方だった。
「そこ!」
ラグナの動きを見切り、ユウナギが斬りかかる。ラグナは左手の盾でそれを受け止めた。
その一瞬で、刀身が盾の中程にまで食い込む。しかし、そのままラグナの体を両断するかと思われた刃はピクリとも動かなくなった。
銀色の金属が刀身に絡みついている。ユウナギの力をもってしても簡単には抜けない。
その隙に、ラグナは間合いを詰める。聖剣の柄でユウナギへと殴り掛かった。
しかし、そんな程度の攻撃はユウナギには通じない。刀を軸に跳躍し、ラグナの背後へと回り込んだ。
左の掌底がラグナの背中にめり込む。僅かな動作にもかかわらず発生した衝撃波がラグナを吹き飛ばした。
ユウナギが新たに習得した戦技『空掌』だ。
対するラグナは空中で身を翻し、すぐさま剣を構えた。
以前のラグナなら復帰には時間を要しただろう。レベルそのものは相も変わらず上がっていないが、鉄の空での激戦を経てラグナの肉体はより頑強になっていた。
だが、盾を手放してしまった。すでにユウナギは己の得物を取り戻している。
両者の間に、静寂が訪れる。互いに呼吸から次の一撃で決着だと確信した。
屋根に積もった雪がどすりと音を立てて、地面に落ちる。
瞬間、二人の力が頂点に達し、刃が煌めいた。
交差の刹那、ラグナの斬撃がわずかに遅れた。
「……オレの負け、だな」
「ええ、私の勝ちです」
ユウナギの刀はラグナの首の寸前で止まっている。寸分違わぬ剣捌きで紙一重で刃を止めたのだ。
対して、聖剣は振りかぶられたままだ。寸前どころか、届いてさえいない。
勝敗は明白だ。相打ちでさえない。このままユウナギが振りぬいていればラグナの首だけが落ちていた。
「……右腕、大丈夫そうだな。安心した」
すぐさまユウナギは刃を引き、刀を鞘に納める。そのまま、右腕の袖をまくった。
「痕だけです。それも貴方を庇っての向こう傷。私にとっては名誉です」
分かりやすく顔を曇らせるラグナに、ユウナギは呆れたようにそう言った。
慰めの類ではない。彼女のような『侍』にとって戦場で追った傷は自分の献身と忠義を証明するものだ。
進んで傷を残したいわけではないが、初めてついた傷跡がラグナのためのものというのはユウナギには喜ばしいことだった。
「毎度毎度、辛気臭い顔をされる方が迷惑です。そんなことをするくらいだったら、私にここまでさせる価値があるのだと誇ってもらいたいですね」
「そういうもんか……」
「ええ、そういうものです。それより――」
ラグナが聖剣をしまうと同時に、ユウナギは彼の右手を取った。すぐさま掌の中ほどを中指で強く押した。
「ど、どうした? 何も出ないぞ?」
「…………痛くないのですか?」
「ああ、傷はもうほとんどなおってるから――」
「私に嘘を吐かないでください」
ユウナギの声色は静かだが、そこに込められた意志には有無を言わせぬ力があった。
「……どうしてわかったんだ?」
「ここには痛みを発する経絡があります。だというのに、眉一つ動かしていない。それに先ほどの戦い、貴方の剣はあれほど遅くはない」
そう言いながらユウナギはラグナの手のひらを指先でなぞる。その手つきにラグナはシスターのことを思い出した。
「感覚がな。前の戦い以来、鈍い。普通に生活したり、剣を振るう分にはどうにかなるが、そうか、やっぱり遅かったか」
ラグナは確かめるように指先を曲げる。ほんの一瞬だが、確かに筋肉が強張るのを感じた。
「治らないのですか?」
「医師の見立てでは傷そのものは治ってる。シスターが言うには、魂の傷だそうだ。簡単には治せないらしい」
魂の傷、という単語にはユウナギも聞き覚えがない。少なくとも既存の状態異常にはそんなものは存在していない。
であれば、思い当たる原因は一つしかない。
「聖剣を生身で使うからです。だから、こんな……」
ユウナギの指に力が籠る。そこには悲しみと怒りと口惜しさが滲んでいた。
「他に方法がなかった。それにお前には命を救ってもらった、腕の一本くらい安いもんさ」
励ますようにラグナが言った。
ユウナギはラグナの手を胸元に引き寄せ、強く握る。祈るように目を瞑り、はっきりとした声でこう続けた。
「次に無茶をするときは私があなたの手を握ります。何があっても離しませんから」
「……そうだな。お前と一緒ならきっと大丈夫だ」
雪景色の中、二人は見つめ合う。二人きりの静かな時間だった。
ユウナギの脳裏に過るのは、鉄の空で交わした接吻の記憶。しかし、あれは交わしたというにはあまりに一方的で衝動的だった。
であれば、ここでやり直しをするのも悪くない。
ユウナギの両手がラグナの首に回る。そのまま力を入れて、体を引き寄せようとしてーー、
「二人とも!」
無粋な声に邪魔された。反射的に、二人の体が離れた。
声の主は雪を踏みながら、近づいてくる。防寒着に身を包んで姿を現したのは、ベルナテッドだ。
ユウナギの機嫌が悪いを通り越して、最悪へと至ったのたのをラグナは直感した。
「な、なんだ? どうした、ベルナテッド?」
「ベルでいいって言ってるでしょ。船内にも小屋にいないから探してたの」
近づいてくるベルナテッドに対して、ユウナギが鯉口を鳴らす。これ以上邪魔したら切る、と宣言していた。
そんな宣言を無視して、ベルナテッドはさらに距離を詰めてくる。ラグナはさりげなく二人の間に体を滑り込ませた。
「……あー、それは悪かった。体が鈍らないように動かしてただけだ」
「それにしてはえらく距離が近かったと思うけど……まあ、いいわ、そのことは。今はそれどころじゃないし」
「……何かあったのか?」
ラグナが左手を握る。すると、地面に転がっていた彼の盾が手元へと戻った。
バルカンの搭載した回収機構だ。ラグナの戦い方に合わせて取り付けたものだった。
「あなたに客がきてる。村の入り口で待ってるわ」
「……賞金稼ぎか? それとも、騎士か?」
「どっちでもない。でも、あなたの客だし、あなた以外じゃ相手できないわ」
「……わかった」
ラグナは弾かれたように、歩き出す。すぐさまユウナギとベルナテッドが続いた。
これ以上、この村に迷惑をかけるわけにはいかない。客の正体がなんであれ、手早く片付ける。捕まってやる道理もない以上、叩きのめしてやるのみだ。
角を曲がる。村の入り口が目に入った瞬間、そんな甘い考えは跡形もなく砕け散った。
「――あ、れは」
そこにあったのは一台の馬車。その上には牡牛の御旗が翻っている。
牡牛の紋章が許されるのは、アルカイオスの王家の者のみ。つまり、客人の正体は紛れもない王族だ。