第八十一話 大いなる献身
傾いた甲板の上に、ラグナは一人立つ。右手に持った聖剣を祈るように高く掲げた。
たったそれだけの動作で、足元がふらつく。もはや限界などとうの昔に通り過ぎていた。
マルドゥクの魔眼が戦艦を制止させている。艦内ではバルカンがすべての魔力路を動員して解除を試みているが、十分な出力が得られるときには手遅れだ。
ユウナギが傷を負い、戦えない今、戦艦を救うには聖剣を振るうしかない。
「――聖剣よ」
呼びかけに応じ、聖剣は生命力を吸い上げる。担い手の身体を斟酌するような便利な機能はこの兵器には備わっていない。
聖剣が開く。蒼の魔力光、最も純度の高いそれが剣を覆った。
「――っ」
膝が震える。死の恐怖ゆえにではない、肉体の限界だ。
いくら魔導機鎧により補給を受けたとはいえ、それ以上に消耗が大きい。
かろうじて、放ててもその後、ラグナの死は確実だ。
そんなことは百も承知で、ラグナは聖剣を掲げている。これも殿の役目だ、命をとして味方のための血路を開く。
たった一人で。
地上では、マルドゥクが闘気を高めている。今度は相殺などさせない。最大最強、その六本の腕全てを振るい、周囲の空間ごと戦艦を消し飛ばすつもりだ。
「――くっ」
だというのに、ラグナの身体は動かない。聖剣を握る指先の感覚さえ消えつつあった。
これでは聖剣を振るえない。狙いも定めらず、無駄に天蓋を崩壊させるだけだ。
「――わたしがいる」
そんなラグナをベルナテッドが支えた。彼女はラグナと共に聖剣の柄を握った。
その瞬間、聖剣はラグナのみならずベルナテッドからも生命力を吸い上げ始める。彼女のもつ大いなる献身の戦技がいびつな形で発動していた。
「っこれは……!」
「は、放せ! 君まで死ぬことはない!」
「だったら、ますます放せるわけないでしょ!」
そう言い返しながらも、ベルナテッドの身体には初めての痛みが走っている。
外側から肉を裂かれるのとも、毒を飲んだ時とも違う。身体から魂そのものを引きはがされているような、そんな痛みだった。
本能的に離れそうになる指を、ベルナテッドは逆の手で押さえつける。歯を食いしばり、脚を踏ん張った。
ラグナはこれに耐えて戦っている、ならば、自分にも耐えられる。ベルナテッドはそう自分に言い聞かせていた。
「駄目だ! 今からでも放せ! そうじゃないと――」
今のラグナにはベルナテッドを引きはがす力さえない。
聖剣の輝きは今も増している。周囲に渦巻く魔力の奔流は特級魔力炉心十基分にも相当するだろう。
「――この船にはわたしの仲間も乗ってる! なら、わたしも命を懸ける!!」
ベルナテッドが叫ぶ。不退転の決意、それが生半なものではないことは他ならぬラグナが誰よりも理解できた。
「……わかった。一緒にやるぞ、ベルナテッド」
「ええ! 一緒に!」
二人は共に聖剣を掲げる。無造作に放たれていた極光が一点へと収縮していく。
空間が歪み、軋み始める。聖剣は二人分の生命力を吸い上げ、その力を最大限に増幅した。
あとはそれを解き放つだけでいい。標的は一つだ。
「――――オオオオオオオオオオオオオオッ!!」
脅威の出現に、マルドゥクが咆哮する。音は衝撃はとなり、天蓋を圧した。
同時に数えきれないほどの魔法陣がマルドゥクの周囲に浮かぶ。地上では失われた古の強化魔法がマルドゥクの威容をさらに増大させた。
六本の腕が、振り上げられる。放たれる戦技の名は『極閃』。魔界において十の峰を切り落とし、天をも割ったマルドゥクの切り札だ。
マルドゥク、ラグナ、ベルナテッド、三者の思考が一致する。この一撃で全てが決着する、と。
それぞれの最強が、同時に振るわれる。
古より受け継がれてきた始まりの聖剣。理から外れた超越種。二つの極致がここに激突した。
まばゆい閃光が鉄の空を照らす。衝撃に世界が揺れ、空間に黒い罅が走る。まるで世界の終わり、あるいは始まりのような光景だった。
二つの力の鍔迫り合いは永遠に続くかと思われたが、数秒か、あるいは数分か、拮抗が崩れた。
押し勝ったのは蒼き極光。始まりの聖剣は武神の絶技さえ打ち破ってみせた。
聖剣の斬撃はネルガルの時と同じく、空間を崩し、巨大な虚無を生じさせる。何者の存在も許さぬ空亡は周囲の全てを吸い込みながら、やがて自らをも消し去った。
しかし、その最中にいながらマルドゥクは生きている。彼の絶技は聖剣の最大開放に敗れはしたものの、その軌道を逸らしてみせたのだ。
結果として、虚無に呑まれたのはマルドゥクの右腕二本。深手ではあるものの、マルドゥクはまだ戦える。
聖剣の最大開放。二人分の命を差し出しながら、得られたのはほんのわずかな時間だけ。
そして、そのわずかな時間こそが必要だった。
甲板が大きく揺れる。
船首からの逆噴射だ。鈍化の魔眼がそれたことで逃走が可能になったのだ。
「くっ――!」
「任せて!」
動けないラグナをベルナテッドが支える。二人は転がるようにして船内へと飛び込んだ。
万能戦艦は自ら開いた穴の中をすさまじい速度で進んでいく。地上のどんな乗り物よりも高速であるというのに、船内は驚く揺れが少なかった。
「大丈夫ですか?」
「……どうにか生きてる。君の方は?」
ラグナを支えながら、ベルナテッドは進んだ。
艦内の船倉に当たる場所だ。周囲では鉄の空の住人たちが身を寄せ合い、二人のことを見ていた。
「わたしは問題ありません。籠手が守ってくれました。でも、あなたの方は……」
「まあ、多少焦げたな。また、シスターに怒られそうだ」
ラグナの両手は魔力光に焼かれ、無残なありさまになっている。再生こそ始まっているが、すべての感覚が焼き切れていた。
聖剣の開放による負荷そのものはラグナとベルナテッドで分けることができた。
だが、反動の方はそうはいかない。星光の籠手をベルナテッドに譲った以上、ラグナは生身で反動を受け止めるしかなかったのだ。
「……あなたには感謝してもしきれません。私を、みんなを救ってくれた」
「当然のことをしただけだ。礼を言うならオレが巻き込んだやつらにいってやってくれ」
そう返したラグナの横顔に、ベルナテッドは頬が熱くなるのを感じた。
気まずくなって反射的に咳き込む。自分が何を感じたのかわからず、助けを求めるように視線をさまよわせた。
「あ、兄ちゃん! 姉ちゃん! こっちこっち!」
そんなベルナテッドをマオが見つける。魔導機鎧は当然脱いでいる。
マオのそばには先ほどの医師がいた。
「ユウナギは……?」
「槍は抜いた。しばらく右手は使えんじゃろうが……まあ、これほど完成された肉体じゃ。この程度、跡も残らん」
医師の答えに、ラグナの体から力が抜ける。
横たわっているユウナギの側までどうにか進むと膝から崩れ落ちた。
横たわったユウナギの姿はひどく弱々しく見える。目を瞑ったまま、彼女が言った。
「……また無理をしたようですね」
「……お前がいなかったからな」
ラグナの答えに、ユウナギは半身を起こす。支えようとするラグナを睨むと、そのままずいっと顔を寄せた。
意識がもうろうとしているらしく、理性のタガが外れていた。
「大丈夫か?」
至近距離でラグナの瞳を覗き込んだまま、ユウナギは黙り込んでしまう。意識が朦朧としているようで、どこかいつもと違っていた。
「ご褒美……」
「ご褒美? 何か欲しいものでもーー」
次の瞬間、ユウナギはラグナに口付けていた。
自らの唇をラグナのそれに押しつけ、その勢いのままラグナを押し倒す。
そうして、気を失った。ラグナもまたユウナギの肩を抱いたまま意識を手放した。
そんな二人を鉄の空の住人が見ている。ひどく無様な姿だが、それでも二人は彼らにとっては英雄だった。