第七十七話 刀と籠手
休まず拳を振るい、ベルナテッドは弱気を振り払おうとする。身体の傷は癒えても、心が折れればもう戦えないと彼女は知っていた。
だが、事実として戦況は悪化している。必死で防戦を続けているが、公会堂のすぐそばまで押し込まれてしまった。
その上、すでに数人の兵士には脇を抜かれている。一応、予備の戦力は残してあるが、これ以上兵士を通せば公会堂を守り切れない。
それだけは何としても防ぐ。そうベルナテッドは己を奮起させる。両足で地面に踏ん張り、両の拳を力強く構えた。
身体は動く。拳は痛まない。ただベルナテッドの中で何かが軋み始めていた。
目の前には、無数のハイリザードマンの群れ。倒しても、倒しても彼らは戦うことをやめない。
一体いつまで。その一瞬の思考が命取りだった。
堤に穴が開くように、抑え込んでいた負の感情が溢れ出る。
不安が両脚に圧し掛かり、腕が恐怖に固まる。澄んでいた思考を疑念が曇らせた。
此処を守りきったところでもう鉄の空は終わりだ。最大の守りである壁には大穴が開き、地上の人間に存在を知られた。ここが最後の家だったのに、それすらも失った。
誰も、神さえも救ってはくれない。そんな絶望がベルナテッドを襲った。
士気の崩壊、精神の限界だ。どれだけ戦士として優秀でも、どんなに強靭な精神を持っていても、戦い続けていれば必ずこれが訪れる。精神異常として明確に表示されるわけではないが、それでも確かに存在している現象だ。
一度、士気の崩壊が訪れれば立て直すのは至難の業。経験を積んだ優秀な戦士でも二度と剣が握れないということもありうる。
「――っ!!」
それだけの絶望をベルナテッドは数瞬で振り払う。目の前に迫っていた切っ先を籠手で弾いた。
無理だと叫ぶ理性を無視して、生き延びろと吠える本能に身を任せる。振るわれた拳脚が三人の青鱗兵をなぎ倒した。
そのままベルナデットは前に出る。この場を維持するためには少しでも前線を押し上げなければならない。
しかし、動けない。踏み出そうとした足が石のように固まっていた。
遅れて、ベルナデットは自分の状態異常を認識する。毒、それも強力な麻痺毒だ。
どうにか動く頭で、足元を見やる。そこには忌々しい紫色の蔦が絡みついていた。
油断があったわけではない。敵が想像以上に執念深く、狡猾だったというだけだ。
すぐさま頭上に二つの気配が現れる。双子だ。この混沌とした状況で彼らは私情を優先していた。
すでにベルナテッドの体内では解毒が進んでいるが、はるかに遅い。動けるようになる時には二つの金棒に頭をかち割られている。
――ああ、まだなにもしていないのに。
瞬間、ベルナテッドの脳裏に後悔が過る。引き延ばされた思考は彼女自身の内側へと沈んでいった。
今の今まで考えたことも、感じたこともなかった未練。常に自分以外の誰かのために戦い続けてきた彼女の底にあった微かな望みが今になって顔を出した。
たった一つの願い。せめて、人並みに、誰かを愛し、誰かに愛される。そんなささやかな――、
「――邪魔」
斬撃が奔った。
最短にして最速の一撃。防御不能な圧倒的な攻撃力が双子を蹴散らした。
そうして、ベルナテッドの背後に彼女が現れる。たった一撃でこの状況を覆してみせた。
「あなた……」
「ああ、居たのですか。置物のようなので気付きませんでした」
退屈そうな声でユウナギが言った。そのまま立ち止まることなく、彼女はもう一度刀を振るう。
それだけで、十人近い兵士たちが倒れ伏す。まさしく最強の名にふさわしい圧倒的な戦力だ。
同時に、ベルナテッドの体内で解毒が完了する。ベルナテッドは各種耐性においても常人とは比較にならない。初めて食らう毒をいきなり無効化することはできないが、食らってからならば少しの時間で回復が可能だ。
もちろん、ユウナギが来なければそれも間に合わなかった。
助けられた、来るはずのない救いが来た。それは事実だ。
しかし、釈然としない。どうせ助けられるならもっと別の誰かに助けられたかった。戦場という極限状態のせいか、ベルナテッドはそんな贅沢な願望さえ感じるようになっていた。
「でも、どうしてあなたがここに……」
「問答はあと。公会堂まで退いて、転移の準備を」
「転移……?」
ユウナギからの要請はあまりにも端的過ぎて、ベルナテッドには理解できない。
ましてや、休まず戦い続けていた彼女は戦況が変わったことさえ分かっていないのだ。明らかに説明不足だ。
「…………はぁ」
そんなベルナテッドに、ユウナギはあからさまにため息を吐く。自分を差し置いてラグナと共に戦っていながら何をしているのか、という嫉妬めいた失望がそこには多分に含まれていた。
「なによ、当然のことを聞いてるだけなんだけど。そっちの説明が悪いんでしょ」
言われっぱなしになるようなベルナテッドではない。ユウナギの態度に反発することで、彼女は平静を取り戻しつつあった。
「……失礼。あまりにも鈍いので呆れてしまいました」
「鈍いのはそっちでしょ。用件だけで全部理解できる人間なんて、そうそういないっての」
「では、貴方がその程度でしかないということです。ちなみに、私とラグナの会話は用件だけで成立しますが」
「それ、あなたが成立してると思ってるだけじゃないの……」
ベルナテッドの指摘に、ユウナギは刀の切っ先をピクリと動かす。少し切りつけてやろうか、という衝動を抑えて、こう続けた。
「……それだけの口がきけるなら、どうにかなるでしょう」
言いながらユウナギは刀を頭上に向ける。その先にはユウナギの見たことのない奇妙な船があった。
「転移先はあの船です。ここの住人もまとめてとんずらします」
「逃げるってこと……? でも、どこに……いや、それはあとね」
考え込みそうになった瞬間に、ベルナテッドは思考を切り替える。
逃げる宛はないが、ここにいてはいずれは全滅だ。まずは逃げる、逃げた後のことは逃げてから考えるしかない。
「それと、リエルとあなたの飼っている妖精が公会堂にいるか確かめてください。任せます」
「え? あの二人なら公会堂にいるはずだけど……」
「そこを改めて確認せよ、ということです。どう中二は見当たらなかったので。ともかく――」
言葉を交わしながらも、ユウナギは飛来した茨をバラバラに切り刻む。横顔には牙を剥くような凄惨な笑みが浮かんでいた。
「ここは私が抑えます。貴方はさっさと住人を説得するなり、脅すなりしてきなさい。正直、邪魔です」
「……わかった。貴方も死なないで。借りの作りっぱなしはいやだから」
その場から離れようとするベルナテッドの背中に、無数の茨が迫る。投網のように広がったそれをユウナギの一振りが切り裂いた。
そのまま振り返ることなく、ベルナテッドは公会堂へ走る。性格的な相性はともかく、ユウナギの実力を彼女は信じていた。
「さて」
その背中を見届けて、ユウナギは正眼に構える。研ぎ澄まされた闘気が周囲を圧した。
「我が名は、ユウナギ! かつては断絶の名を預かりし、星の冒険者である! 腕に覚える者は、我が首討って手柄となすがいい!」
大音声での名乗り。侍としての名誉にも適う、堂々たる態度だ。
無論、そこにはユウナギなりの策がある。わざわざ名乗ったのは、自らに耳目を集めることで少しでも公会堂へと向かう敵を減らすためだ。
らしくない、という自覚はある。それでもラグナに臨まれた通の自分としてふるまえるのなら今のユウナギにはそれが第一だった。