第六十九話 彼らの音
最初にその音に気付いたのは、リエルだった。ダークエルフとしての聴力だけが絶え間なく続く騒音の中から、その奇妙な音を聞き分けることをできた。
腹の底まで震えるような低く、重い音だ。
出陣を告げる陣太鼓のような、あるいは何もかもを崩壊させる地鳴りのような。何が発している音なのか、それはまるで分らないが、音が近づいてきていることだけはリエルにははっきりとわかった。
「――ジル! これ聞こえる!?」
リエルは声を張りながら、肩を貸していた老人を公会堂の床に座らせる。公会堂には同じように自力での移動が難しい住人たちが不安げに顔を見合わせていた。
鉄の空の住人たちの避難の手伝い。ベルナテッドから託された使命をリエルは必死で全うしようとしていた。
「何の話!? うるさくてなんも聞こえないけど!!」
妖精の姿のジルが叫ぶように答える。彼女の周囲には十人以上の人々がへたり込んでいた。
ジルもまたリエルと同じ指令をベルナテッドから受けている。一人でも多くの住人を、少しでも早く運ぶためには彼女の持つ特性はこれ以上ないほどに有用だった。
しかし、当の本人はこの状況に納得はしていない。
ジルは鉄の空でも数少ない『戦闘職』だ。その気になれば特性を生かして十二分に戦える。ベルナテッドの背中を守れるのは自分だけだという自負が彼女にはあった。
だというのに、今は戦わせてもらえない。住民の避難が重要な役割だということを理解していても、内心では軽んじられているようでどうにも座りが悪かった。
ましてや、この公会堂からでは戦況は窺えない。ベルナテッドは無事なのか、敵はどれほどの数がいるのか、どこまで攻め込まれているのか、何もかもが不明なままだ。
「本当に聞こえないの? どんどん大きくなってる!」
歯噛みして空中に静止したジルに、再度リエルが尋ねる。状況はひっ迫しているが、それ以上にこの音が気になる。彼女の本能がこれを無視してはいけないと叫んでいた。
「だから聞こえないって! 緊張でおかしくなってるんじゃないのか? 頼むぜ、リエル。お前が頼り――」
「――いいから聞いて!!」
取り合おうとしないジルに、リエルが怒鳴った。
誰かに対して声を張り上げることさえ初めてだったが、決して退くつもりはない。
かつての怯えるだけの少女はいない。正しいと思ったことに関しては誰が何と言おうと貫き通す、母から教えられたこととラグナの背中から学んだことが今の彼女を形作っていた。
「……わかった。どういう音なんだ?」
リエルの剣幕に、ジルは彼女の危機感を理解する。ただ錯乱しているだけではこんな気迫は出せはしない。
「低くて、大きくて、とにかく危ない音。こっちに近づいてきてる」
「近づいてくるって……どこからだ? 北? 南? 何か来てるならすぐに援軍に行かないと……」
「ううん、たぶん、下……だと思う」
耳を澄ませながら、リエルが答える。
音の方向は確かに下だ。それも先ほどよりもさらに輪をかけて大きくなってきている。
「し、下? ここの真下か?」
「違う、もう少し南の方。ちょうどラグナさんが戦っているところと、この場所の間くら……い…………」
思考を口にしながら、リエルはその意味に気付く。
事前の取り決めでは、前線での防衛が困難と判断した場合、公会堂まで遅滞戦闘を行うという手はずになっている。
だが、このままこの音が昇ってくればラグナは退路を断たれてしまう。
いくらラグナでも挟み撃ちになればひとたまりもない。このままでは危険だ。
「ジル! ラグナさんに知らせないと! 早く!」
「し、知らせるって何をだよ! それに南側は戦場だぞ!」
「でも、いかないと! わたしがラグナさんを助けないと!」
今にも走り出そうとするリエルをジルが止める。
どれだけ使命感を燃やしてもリエルには戦闘能力がない。今まさに戦っているラグナの元まで一人で走るのは危険すぎる。
「わかった! あたしも行く! それなら大丈夫だ!」
「で、でも、避難が……」
「さっきのが最後だ! それにあの騎士野郎がやられちゃったらここを守っててもやられちまうからな!」
胸を張るジルに、リエルは思わず微笑む。
頼もしいと思うと同時に、ジルが同行を申し出てくれたことがうれしかった。
その場をほかの者たちに任せて、二人は公会堂から飛び出す。ラグナとベルナテッドの奮戦のおかげで魔物たちはいまだに孔の周辺に留められているが、それでも警戒して二人は路地裏や物陰を慎重に進んだ。
南側の孔に近づくにつれて地下の音は大きくなっていく。しかも、戦いの痕跡をそこかしこで見かけるようになった。
崩れた家屋に抉られた道、散らばった瓦礫。かつてあった日常がバラバラに砕けて、価値のないゴミのように道端に転がっていた。
「こんなのって……」
こらえきれずジルが足を止めた。
周囲の惨状に心が砕けそうになる。愛していた世界はもう壊れてしまった、その事実を受け入れるにはジルの心は幼すぎた。
「ジル、立ち止まっちゃダメ」
「でも…………」
「わたしたちがここで止まってたら、ほかの場所もここみたいに壊されちゃう。だから、行かないと」
力強く、有無を言わせぬ声でリエルが言った。振り返ることはしない。その小さな背中だけが彼女の意志の強さを物語っていた。
「わ、わかってるよ!」
気圧されるようにジルはその背中に追いすがる。
リエルがこれほどに意志が強いとは思ってもみなかった。
正直なところ、ジルにとってこれまでのリエルは庇護の対象でしかなかった。
奴隷でないというわりには奴隷のように常になにかに怯えている少女。戦う力もなく、一人で生きていけるほどの強かさもない。鉄の空の住人と同じように守られるだけの存在だ、と。
そんな少女が誰よりも勇敢に戦場を進んでいる。魔物の死体を乗り越えて、時に地面を這いずることになってもリエルは迷わず進み続けた。
ジルは己の不明を恥じた。
今ならばベルナデットがこの少女を高く評価していた理由がわかる。リエルはベルナテッドと同じような『進むもの』だ。
ならば、その背中を守るのが自分の役割だ、とジルは覚悟を決めた。
「…………ラグナさん」
進みながらもリエルは必死でラグナの音を探す。
あらゆる音のする戦場で特定の相手の音を探すのは極めて困難だが、諦めずに意識を集中する。そうすると、ひときわ激しい音がする場所を見つけることできた。
「……こっち」
息をひそめながら、リエルとジルはゆっくりと進む。
目的地から響く轟音は厳密には三つの音から構成されている。
一つは銃声。リエルは銃を知識でしか知らないが、特徴的な破裂音とわずかに香る火薬のにおいのおかげで特定できた。
二つ目は鱗のすれる音。これは前にも聞いたことがある。リザードマンのものとみてまず間違いないだろう。
そして、最後の音がラグナの音だ。力強く脈打つ、心地いい心音の旋律はいつもリエルを勇気づけてくれる。
だが、今はかつてないほどに早鐘を打っている。今にも破裂しそうなその音はラグナがそれだけ危機的状況にあることを示していた。
戦いの場になっているのは家屋が倒壊してできた広場だ。
「――ラグナさん!」
曲がり角を曲がると同時に、叫ぶ。広場の中心にラグナを見つけた。
ラグナは膝をついている。全身に傷を負い、肩で息をしていた。
その姿に息が詰まる。戦いの度に死にかけるのがラグナだが、何度見ても見慣れるものではない。
「リエル……!?」
ラグナもまたリエルに気付く。
その瞬間、四本腕のリザードマンがラグナに襲い掛かった。聖剣と武具がぶつかり合い、衝撃波が周囲を薙ぎ払った。
あまりの威力にかまいたちが生じる。真空波が地面を裂き、リエルを襲う。
回避は間に合わない。リエルの耐久では掠めただけで致命傷だ。
おもわず、目をつむる。
歯を食いしばり恐怖に耐えようとした瞬間、銃声が響いた。