第六十五話 終わりの始まり
ユウナギがバルカンたちの元へと向かってから三日、ラグナとベルナデットは天蓋の穴を完璧に守り切った。
日に数度、それもより強力になっていく魔物の襲撃を何度も押し返したみせたのだ。
その間、二人は鉄の空の住人を一人たりとも犠牲にはしなかった。
たった二人で戦い、たった二人で守った。
二人が規格外と虫食いとはいえ、並大抵のことではない。大軍勢との戦闘に慣れたラグナとどんな攻撃を受けても決して倒れないベルナデットという組み合わせでなければこの結果を得ることは不可能だった。
それだけの戦果をあげても、ラグナとベルナデットには余裕があった。
元々二人とも適正は攻勢というよりは守勢にある。こと何かを守る、何かの盾になるということに関してはヴィジィオン大陸において二人に比肩するものはいなかった。
また回数を重ねるごとに魔物の数も増えているが、それ以上に二人の連携の精度も上がっている。ユウナギと組んでいるほどの突破力はなくとも、その守りの堅固さは王国の盾とも謳われるかの大騎士にも匹敵するだろう。
このままならばユウナギが戻るまで問題なく孔を守り切れる、そうラグナが思い始めた矢先のことだった。
「――ふぅ」
打ち倒した大鬼の死骸の上でラグナはため息を吐いた。
ユウナギが出立してから三日目の夜だ。今日だけで魔物の襲撃は五度目になる。重傷こそ負っていないが、疲弊は避けられない。叶うことならばこのまま倒れこんでしまいたかった。
「くっ……」
無尽蔵の体力と回復力を持つベルナデットもそれは同じだ。その場にしゃがみ込んで、肩で呼吸をしていた。
全身の傷の修復始まっているが、両拳の傷は特に深い。何度も骨折し、いくつかの骨は砕けて肉を突き破っていた。
その痛ましい傷はベルナテッドの戦い方に由来するものだ。彼女は戦いにおいて一切の武器を用いない。そもそもこの鉄の空ではまともな武器を手に入れることは難しく、彼女自身の適性も素手での戦いにあったからだ。
一方で、ベルナテッドは誰かに戦い方を教わったことがない。
もともと戦闘職にあった住人にいくらか助言を受けたことこそあるが、基本的には生き延びるために身に着けた我流ものだ。実戦の中で磨かれ、有効かつ洗練されたものではあるが、そこにはベルナテッド自身を守る、攻撃を避けるという基本が欠落している。
他人の分まで傷を負い、自分の命を省みない。そんな捨て身の思想が、ベルナテッドの戦いの根本にはあった。
「むぅ……」
ベルナテッドの姿を見て、ラグナは考え込む。
ベルナテッドの覚悟はラグナにも覚えのあるものだ。一人でも戦うと決めた時から、あるいはそのもっと前から命を捨てる覚悟は決めていた。
だが、それははたから見れば悲しく、また居た堪れないものだ。ラグナにとっては鏡を見ているような、そんな心持だった。
ふと、ラグナは己の両手を見た。そこにあるのは盾と籠手。その二つに守れた彼の両手には傷と言える傷がほとんどなかった。
親友の遺品に守られている、その事実をかみしめながらラグナは星光の籠手を手から外した。
星光の籠手は固有装備ではあるが、その中でも特殊な部類に入る。古くから受け継がれてきたこの装備は個人ではなく、相手の能力値に装備条件を求める。
装備条件は二つ。一つはレベルが90以上であること、もう一つは装備者の職業が勇者であることだ。そのどちらか一つを満たしていれば、星光の籠手は装備が可能になる。両方の条件を満たしていなければその性能は完全に発揮することはできないが、装備することはできる。
現在のベルナテッドのレベルは95。ラグナの予想通り職業は中級職の闘士だが、片方の資格は満たしている。
「ベルナテッド」
「……何?」
ベルナテッドの顔にはいつもの凛々しさがない。疲れ切って、今にもへし折れてしまいそうだった。
心の疲労とは裏腹に、身体の回復はほとんど済んでいる。一番損傷の激しかった拳でさえすでに傷跡になっていた。
「これ、付けてみてくれ」
「あなたの籠手……?」
ラグナが差しだしたものを見て、ベルナデットは目を丸くした。
「これを、どうしろと? 私には装備できないと思うけど……」
「大丈夫、だと思う。とにかく、付けてみてくれ」
押し付けられるようにして、ベルナテッドは渋々籠手に手を入れた。
ラグナを信用していないわけではないが、誰かに何かをもらうという経験そのものが彼女には初めてのことで、どうしても戸惑われた。
星光の籠手はベルナテッドには少し大きかったが、彼女が装着した途端吸いつくように収縮した。
「……すごい」
指を動かして、ベルナデットは感触を確かめる。警戒していたような違和感は一切ない。
それどころかまるで己の手の延長かのように馴染む。能力値にも若干の上昇がみられる。ラグナが使用した場合とは違い、きちんと防具として機能していた。
ベルナテッドの顔に生気が戻る。彼女は構えを取ると、深く息を吸い込んだ。
「――ふっ!」
息を吐くと同時に拳を繰り出す。全身の筋肉の連動は規格外の速度を生み出し、音の壁を越えた。
いつものような痛みはない。装着された星光の籠手は彼女の肉体を彼女自身の攻撃から完璧に保護していた。
その上、星光の籠手を構成するオリハルコンはこの大陸でも最硬の鉱物だ。堅牢な魔物の甲殻でさえ容易く砕くことができる。
つまり、防御力だけでなく攻撃力さえも高められている。この籠手を装備した状態なら相手が金剛石の巨人でも正面から打ち倒せる。
「でも、いいの? あなただって防具は必要じゃないの?」
「こいつでどうにかなる。もともとそれは補助みたいなもんだ。君の戦力が上がるほうがみんな助かるしな」
ラグナはそう言いながら盾を指し示す。
バルカンにより改修され、自在に形を変えるこの盾はあらゆる状況に対応できる。実際この防衛戦においてもバルカン謹製の盾はラグナの主武装になっていた。
ときには牛頭鬼の突進を受け止め、多頭蛇の首を刎ねた。形状によって防具にも、武器にもなりうるこの武装はあらゆる枷に囚われないラグナの戦い方に完璧に合致してるのだ。
無論、星光の籠手にも重要な役割があった。
聖剣の反動を防げるのは現状ではこの籠手のみ。もし装備せずに聖剣を振るえばラグナは聖剣の反動をまともに受けることになる。
だが、鉄の空では聖剣そのものの使用が難しい。下手に使えば鉄の空そのものを破壊しかねない以上は、籠手を装備していなくても大した問題はない。
「……本当にいいの? これ、大事なものなんじゃないの?」
「わかるのか?」
「そのくらい目を見ればわかる」
ベルナテッドの言葉に、ラグナは余計な気遣いを捨てる。彼女が相手ならば言葉を濁したり、言い訳を重ねるのは悪手でしかない。
「この籠手は勇者のものなんだ。だから、まあ、遺品と言えば遺品になるか」
「そんなもの、受け取れない。貴方が持つべきよ」
「いや、君が持つべきだ。これは勇者の装備だ、なら、より多くの人間のために使われる方がいい」
ラグナはそう言って、籠手をベルナテッドに押し付ける。戸惑いを感じながらも、彼女は籠手を掻き抱いた。
「………わかった。私の命だと思って大事に使う」
「そこまではいい。所詮は物だ。それに貸すだけだよ、全部終わってから返してくれればいい」
ラグナはそう言って不器用に笑みを浮かべる。お世辞にも華やかとは言い難いそれに、ベルナデットは救われたような思いだった。
だれかに気遣われることも、誰かに贈り物をもらうことも、彼女には縁遠いことだった。この瞬間だけは自分が普通の女になれたような、そんな気さえしていた。
ユウナギが出立してから三日目の夜、拮抗していた状況が崩れたのはこの瞬間だった。
突如響いた爆発音、新たに穿たれた天蓋の孔こそが終わりの始まりだった。