第六十話 自由のために
町の中心には、奇妙な円塔型の建物があった。
周囲に幾つかの塔が連なったその建物は地上の街にあるような教会を連想させるが、それを形作っているのは天蓋と同じ青色の金属だった。住民からは公会堂と呼ばれていた。
やはり、山の王の鍛冶場と似ている。ラグナの仮説は確信に変わりつつあった。こここそが探していた遺跡だ。
入り口は見当たらない。しかし、ベルナテッドが壁に触れるとそこに扉が現れた。
ベルナテッドに招かれ、ラグナは公会堂の内部へと入る。
内部は想像よりも広く、鍛冶場と同じように壁には光が走っている。そして、その中心にはそれがあった。
アーカイブ。一週間前、競りの場からベルナテッドにより強奪されたそれがそこには鎮座していた。
だが、競りの会場で見たものとは少し違っている。全体の色が薄まり、存在感そのものも消えかけているようだった。
「ここが何なのか、これが何なのか、それは私たちにも分からない。わたしたちはただここを見つけただけだから」
ベルナテッドが言った。
彼女は中央まで進むと、アーカイブに触れる。空間に浮かんだその表面が水面のように波立った。
「最初にここを見つけた人も捨てられた奴隷だった。傷だらけでもう使い物にならなかった彼は井戸に捨てられて、気付くとここにいた。それから、彼はこの場所に傷を癒してもらったの」
ベルナテッドが天井を指さす。そこには外にあったの同じような光球が埋め込められていた。
おそらく回復効果があるのだろう、とラグナは結論付けた。そう考えれば意識を失う前に追っていた傷が癒えていることにも納得がいった。
「彼は救われた。でも、それでよしとはしなかった。彼は自分と同じように捨てられたものたちを救うためにその生涯を費やした。流れ着いたものを保護して、ここで暮らせるようにした」
ベルナテッドはアーカイブを操作して、表面に何かを映し出す。その中央には大陸には存在しない文字で「NO DATE」と記されていた。
彼女はため息を吐いて、振り向く。縋るように何度試しても結果は変わらない。
「私もその一人。地上で買われて、痛めつけられて、死にかけて、どうしようもなくなってここに救われた。ここは、鉄の空はそういう場所よ」
袖をまくり上げ、ベルナッドは傷跡をさらす。驚異的な回復力と生命力のおかげで傷そのものは回復しても、傷跡は残り続ける。誰かのために傷を負うのが日常ともなれば、薄れる暇さえ彼女にはなかった。
こんな場所があったことを救いだと感じるべきなのか、そんな場所を吐くなければいけないこの世界を嘆くべきなのか、ラグナには分からなかった。ただ一つ確信できるのは、ここに集った人々はみな一様に被害者であるということだけだ。
「でも、私はそれだけじゃ我慢できない。捨てられてなくても、傷ついている人はいる。この地上にはたくさんの苦しんでいる人がいて、救いを待っている。だっていうのに、私だけがのうのうとしていることなんてできなかった」
「……それで競りの会場を襲ったのか」
「そういうこと。まあ、こいつを手に入れるのが一番だったけどね」
疲れた笑みを浮かべて、ベルナテッドはアーカイブは示してみせる。物質化した理の欠片は無機質に輝いたままだ。
「……リエルの事、謝るわ。私、あの場所にいるのはてっきり」
「……事故みたいなものだ。リエルも怪我はしていない」
頭を下げるベルナテッドに、ラグナはそう答える。
傷を負わせたという点では謝るべきは、むしろラグナの方だ。
ことの発端は、それこそただの誤解だ。街に溶け込む偽装工作とはいえ、奴隷商人の真似をしていたのだ。ベルナテッドがそう誤解したとしても彼女を責めることなどラグナにはできない。
「……でも、驚いたわ。あなたがあのラグナ・ガーデンだなんて」
「……知ってたのか」
「似顔絵を見たことはあったけど、あとはリエルから聞いたわ。貴方の目的のこともね」
ベルナテッドに正体を知られていることに、ラグナは驚かなかった。普通なら史上最高額の賞金首として警戒してしかるべきだが、なぜか彼女に対してはそういう疑いを抱けなかった。
「……捕らえて差し出そうとは思わなかったのか?」
「私たちは元奴隷よ。もし、あなたを捕らえたとしても上前をはねられるだけ。それに、私たちは人を売るような真似はしない。それじゃ、地上の連中と同じだもの」
そう語るベルナテッドの声には隠しきれない憎悪と怒りが滲んでいた。彼女の来歴を考えれば当然のことではある。彼女自身もその感情を肯定していた。
だが、決して報復に身を任せることはしない。あくまで、救うためにだけ拳を振るう。それがベルナテッドがベルナテッドであり続けるための矜持だ。
「私はこの世界から奴隷なんてものをなくしたい。誰も自由を奪われず、不当な痛みを与えられないで済む世界を手に入れたいの」
「それは……」
叶わぬ夢だ、という現実をラグナは飲み込んだ。そもそも、そんなことを言えた義理ではないし、ラグナ自身も誰かの理想を否定したくなかった。
「無理だ、って思ったでしょ?」
「いや、オレは……」
「いいの。わたしもずっとそう思ってたから。これを見つけるまでは、ね」
そう言うとベルナテッドは懐から黒い何かを取り出す。
転移の直前に見たものだ。空間に空いた孔のようなそれは物質化した虫食いだ。
ラグナが身構える。あの奇妙な転移の原因はこの虫食いとの接触だ。下手に近づけば何が起こるか分かったものではない。
「大丈夫。今は私と繋げてないからこれは動かない」
「……そういうものなのか」
「ええ。『虫食い《バグ》』っていうんでしょう、これ」
ベルナテッドの問いに、ラグナは頷く。彼自身、それが虫食いだということは知っていても、それ以上の情報は何一つとして得られていなかった。
「私もこれについては本当のことは知らない。でも、これを譲り受けた時に、一つだけ聞かされたことがある。これは、虫食いは、本当のこの世界の欠片なんだって」
世界の欠片、というベルナテッドの言葉の意味をラグナは理解できなかった。だが、どこかで納得はできた。そういった存在であれば、理そのものに干渉できるというのも理解できる。
「それ以上のことは私も知らない。私が理解しているのはこれがどうすれば動いて、どういう効果があるのか。こいつはね、あらゆる制限を外すことができるの」
ベルナテッドは手のひらの上で『虫食い』を転がす。そのまま握りこむと、意のままにならない力にため息を吐いた。
「例えば、普通迷宮の中じゃ転移の魔法は使えないでしょ? でも、こいつを通して発動すればその制限を越えて迷宮内に転移できる。人数の制限も、距離も無視できる」
「……あの時、隷属の首輪を壊したのもその応用か?」
「そういうこと。これを通して、隷属の首輪そのものに干渉したの。あれは外れないって規制そのものを外したっていうか、なんというか」
要領を得ない説明ではあったが、ラグナにも理解できる感覚ではあった。
虫食いの力を意識的に使用している間は、認識できるのは己と世界だけでその二つに同時に干渉できる。己を通してこの世界を変えていくのだ。
「アーカイブを盗んだのは何のためだ?」
「……これを使えば、『虫食い《これ》』の力を増幅できる。そうすれば地上に存在する首輪すべてに干渉できる、はずだったんだけどね」
深い失望と共に、ベルナデットは虫食いを懐にしまう。
強奪からこれまでありとあらゆる方法を試したが、いまだに成功はしていない。アーカイブが聞いた通りの機能を発揮していれば、とうの昔に地上の首輪をすべてを破壊できていたはずだ。
「………この方法がだめでも私は諦めない。力づくでもあの街を壊してみせる」
愛を乞うように強く、不退転の決意でベルナテッドは手を伸ばす。
「だから、ラグナ・ガーデン、貴方の力を貸してほしい」
差し出された指が震えているのをラグナは見た。
彼女の迷い、恐怖、痛みは手に取るように理解できる。だからこそ、今その手を取るわけにはいかなかった。