第五十八話 眠りと記憶
転移の瞬間、ラグナは深い眠りに呑まれた。
二つの虫食いが接触したことによる副次作用。死にも等しい意識の沈下がラグナに起こっていた。
無意識の底では、過去と現在が複雑に混じり合う。忘れていた記憶、封印されていた記憶までもがそこでは蘇る。
その日は酷く晴れていた。
照り付ける日は熱く、鎧の下に汗をかいて不快だったことをラグナは覚えている。
魔界へと繋がるとされる古代の門を、ラグナ達は探していた。勇者ロンドは従来通り人界で魔軍を迎え撃つのではなく、元凶を断つことを選んだのだ。
魔界に突入し、魔王を討ち取る。それが勇者ロンド一行の目的だった。
そうして、門を見つけた。
北部辺境領の極地、惑いの大氷原の中心にそれはあった。古い文献に従い永遠の吹雪を払い、強力な魔物を越えてその場所にたどり着いた。
門は黒い奇妙な素材で造られていた。そう、転移の前に見たあの黒い欠片と同じものが門には使われていた。
ロンドは門の起動法を知っていた。どこで知ったのかはわからない。ラグナ自身もそこを重要視しなかった。目的を果たせるのならそれでいいと思っていたし、それ以上に重要なことがあった。
決意があり、覚悟があった。
勇者の仲間に選ばれたことは一生の名誉だ。ロンドには返しきれない恩がある。
だからこそ、自分から離脱を申し出るつもりだった。自分ではなくより優秀でより才能のある盾役を雇うべきだ、と。
当時のラグナのレベルは60。すでに百を越えていた仲間たちには大きく水をあけられ、自分が役に立てるとは思えなかった。
ここから先の戦いは今までの比ではない。魔界での激戦でロンドを守れるのは自分ではない、ラグナはそう結論付けた。
魔界に行く前に、伝えなければならない。今がその時だと、終わらせるべき時だと、そう決意した瞬間だった。
パーティーの全員が空を見た。背筋を走る悪寒、今まで感じたことのない強烈な感覚があった。
魂そのものが震えていたかのようだった。それまでラグナはどんな強力な魔物相手でも恐れを感じたことはなかったが、その瞬間だけは確かに恐怖していた。
天には孔があった。王冠のような円形の光がその周辺に煌めき、中心には白い光体が浮かんでいた。
そこで記憶は途切れている。次の瞬間には、胸に穴の開いたロンドが横たわっていた。
守れなかった、なにもできなかったという深い後悔だけがあとに残された。
今までのラグナの記憶ではそうなっていた。だが、深い眠りの底でラグナは覚えていないはずのものを見た。
天に浮かぶ光体。その正体をラグナは見ていた。
人形だった。光る翼をもつ美しい何か。人間でないことだけは確かなそれは声を発した。
その声を理解できたのはロンドだけだった。だが、今のラグナならば、「虫食い」であるラグナならば、その意味を知ることができる。
「――お前たちは正しくない」
その言葉の後、閃光が走った。そうして――、
「――っ!」
そこで夢は途切れた。
あれほど深かった眠りから一瞬で引き戻される。意識が覚醒して、身体の感覚が戻った。
水面から顔を出すように、息を吸う。全身になれた痛みが走った。
「――起きましたか」
目を開けると、聞きなれた声に迎えられる。寝せられていた寝台の隣にはユウナギが立っていた。
「……ここは?」
「さあ? どこかの地下の、どこかの空き部屋でしょう」
投げやりなユウナギの返答に、ラグナは首をかしげる。機嫌が良いことのほうが稀だが、ここまで怒っているのは珍しい。
そんなユウナギの姿にラグナは違和感を覚える。
彼女の腰にあるべきものがない。いつでも彼女が差していた愛刀がそこにはなかった。部屋の中に目を走らせるが、どこかに立てかけているというわけでもないようだった。
「…………刀はどうした?」
「取り上げられました」
「お前がか? いったい何が――」
そう尋ねかけたところで、ラグナはもう一つの違和感に気付いた。
ユウナギの両手の指が真っ赤に染まっている。あかぎれだ。三日三晩、水仕事でもしていないとこうはならない。
次にラグナは枕もとの水盆を見つける。そこには濡れたタオルがあった。
そうしてラグナはその結論にたどり着く。自分が倒れていたのは数時間ではなく数日、動けない自分を守るためにユウナギは武器を差し出したのだ、と。
「……すまん」
「別段謝られるようなことはなにも。単に……刀を振るうのが面倒な時もあるというだけです」
言いながらユウナギは着物の袖に指先を隠す。ラグナに余計な罪悪感を背負わせるのは彼女の本意ではなかった。
以前のユウナギでは考えられないことだ。誰かを気遣うことも、誰かを守るために刃を振るわないという選択肢を取ることも。
この場所に転移してすぐにラグナ達は包囲されたが、ユウナギ一人ならば逃走は可能だった。
敵は多く、また強者ぞろいだが、ユウナギには物の数ではない。ともすれば、一人で皆殺しにすることも不可能ではなかっただろう。
だが、ユウナギはそうしなかった。そうしてしまったら意識を失ったラグナを守ることはできないし、おそらく人質に取られているリエルを救うこともできない。
いや、それらはあくまで後付けの理屈に過ぎない。転移の直後、倒れ伏したラグナの姿を見た瞬間、ユウナギは戦えなくなっていた。一目散に、駆け寄って縋りつくことしかできなかったのだ。
「どれくらい寝てた?」
「三日と少し。目に見える傷がない分肝を冷やしました」
ユウナギの言葉は本心からのものだ。彼女はこの三日三晩、ほとんど眠らずにラグナについて看病していた。二度と目覚めないのではと思うと度に心が折れそうになった。
「……世話を掛けたな」
それに対して、ラグナはそれだけしか返せない。己の情けなさに怒りを感じた。
「……ともかく、虜囚にしては扱いはいい方でしょう。手枷も首輪もされてませんし」
「……転移した後、なにがあった? リエルは、ほかの連中は無事なのか?」
自分の状況より先に、他人の心配をするラグナに呆れてユウナギは深々とため息を吐いた。こうでなければラグナではないとはいえ、側で見ているものとしてはいい加減腹も立とうというものだ。
「……私とあなたはリエルのとりなしで降伏を許されましたが、ほかの連中はここの壁を破って逃げたのかと、あの兄弟も回復していたようですし、戦力的には十分ですし。まあ、盗み聞いた話からの推理でしかないですが」
「壁?」
「外を」
促されたラグナはカーテンを開けて、窓の外を見た。
「……なるほど」
そこには街があった。小規模ではあるが、人が暮らしている以上、街と呼んでも差し支えないだろう。
それより、問題なのはここの空だ。街を覆う天蓋の空にラグナは見覚えがあった。
「……鍛冶場に似てるな。それに、あの遺跡にも」
「ええ、おそらくは同じ文明によるものなのでしょう。あのドワーフがいれば何かわかるのでしょうが」
頷きながら、ラグナはユウナギの言葉の意味を理解する。
街の端は巨大な壁になっている。窓から見える範囲では、門などの出口は見当たらなかった。
その壁の一部を突破して、イレーナたちは逃げたのだろう。
「……リエルは人質か?」
「いえ、そうとも言えないというか、なんというか……」
首をかしげるユウナギに、ラグナも疑問符を浮かべる。
さらわれた以上、何か目的があったはずだ。リエル本人には特別な地位や能力があるわけではない。となれば、こちらに対する人質と考えるのが自然だろう。
そうでないとしたら――、
「ユウナギさん? 入りますよ?」
ラグナが解決しない疑問に取り組もうとしていると、扉を開けて問題のリエルが入ってくる。
エプロンを着て、両手でお盆を持っている。なんでもないような顔をしていた。
「あ、ラグナさん! 起きられたんですね!」
「あ、ああ、それより、その、大丈夫なのか?」
「え、はい、大丈夫ですけど? なにか?」
困惑しきったラグナに、リエルもまた首をかしげる。お互い何もわからず、気まずい沈黙が流れた。
ユウナギはユウナギで事態を静観している。助け舟を出すこともできたが、彼女自身、自分でもよくわかっていないことを説明するのは面倒だった。
ラグナとリエルに助け船を出したのは、意外な人物だった。
「――リエルは人質ではありません。ここは『鉄の空』。捨てられた奴隷の行きつく、最後の安寧の地です」
凛とした声、ドアの影から姿を現したのは傷の女こと、ベルナテッドだった。