第五十五話 平穏
ラグナたちが傷の女と遭遇する少し前、リエルもまた危機にあった。
場所は、炊事場の一角。目の前には、空っぽの大鍋がある。先ほどまで熱々のシチューが煮込まれていたはずなのに、目を離した一瞬でこうなっていた。
半日かけて仕込んだ一品、三十人分くらいの量があったはずなのに飲み干されたようにすっかり消えていた。
犯人はわかり切っている。こんなことをできるのはリエルの知る限り一人しかいない。
「ジルさん……」
『ご、ごめん……あんまり美味しそうなんで、つい……』
鍋の裏から現れた小さな光の玉が申し訳なさそうに言った。リエルの周りをふわふわと飛んだ後で、肩の上に止まった。
妖精だ。ジルというのが彼女に与えられた個体名だった。
『あたし、いつもお腹空いててさ……姐さんにもよく怒られてんだけど、やっぱり我慢できなくて……』
光の中で、小さな人影が頭を下げる。
「……別に怒ってません。もともとジルさんの分も用意するつもりでしたし」
愛らしさと殊勝さに毒気を抜かれる。また作り直すことになるが、幸い夕食までにはまだ時間があるから間に合うだろう。それに、何かやっている方が気が紛れるのも確かだ。
食事の用意の手伝い。それがこの場所、鉄の空でのリエルの役割だ。誰かに強制されたわけではない。彼女は自ら望んでこの役割に従事していた。
『本当か!? リエルの飯は最高だから楽しみだな!」
「今日はありません。明日まで我慢してください」
きっぱりそう言い切ってから、食材の残りを確かめる。
「やっぱり……」
何度数えなおしても必要な人数分には足りない。誤魔化しようはいくらでもあるが、肉も芋もないシチューではあまりにも味気ない。
『お、どっか行くの? 付き合うぜ』
「食材の確保を頼みに。誰かさんが用意した分全部食べちゃいましたし」
厨房を出て、リエルは一際大きな建物、寄り合い場を目指す。目当ての人物は、この時間ならそこにいるはずだ。
「おお、新入りの子、ここには慣れたか?」
道の途中で、牙の欠けた獣人の男に声を掛けられる。このイゴールという男は鉄の空では力仕事を担当していた。
この鉄の空には約二百人の元奴隷が生活している。その誰もがこのイゴールのように何かを奪われ、そのうえでなにがしかの役割に従事していた。
「はい。イゴールさんも調子はどうです?」
「相変わらずさ。ジルのやつに迷惑してないか?」
「してます」
断言してから、イゴールに別れを告げる。
まだこの場所にきて七日程度だが、リエルは山猫族たちの村にいるころよりも活発に動けていた。
理由は単純だ。ここにはリエルを奇異の視線で見る者はいない。鉄の空でならリエルはただのリエルでいられた。
だが、心の底から安らげているかというとそうでもない。
『なあ、リエル、まだ帰りたいのか?』
そんなリエルのぎこちなさに気付いて、ジルが尋ねた。
「……みんな心配してるから」
短く答えて、リエルは足早に進む。途中でかけられた言葉はすべて無視した。
どんなものよりも自分自身にリエルは怒りを感じていた。
きっとラグナやユウナギは自分を探して、心配している。なのに、当の己はこの場所に居心地の良さを覚えている。そんな自分自身の矛盾がリエルには許せなかった。
もちろん、リエル自身の事情はジルにもベルナデットにも伝えてある。だが、それが余計に事態を厄介にもしていた。
『なあ、リエル。確かにお前の御主人さまはいい人だったかもしれないけど、奴隷は奴隷だぜ? 自由な方がよっぽどいいだろ?』
「だから、私は奴隷じゃないし、あの人たちは私の御主人さまじゃない。何度も言ってるでしょ」
自分は奴隷ではない、元居た場所に返してほしい。この七日間、リエルは幾度となくそう要求してきた。
しかし、まともに取り合ってもらえたことはない。無理せず慣れればいいとか、まずは休めばいいとか、そんなやさしい言葉こそ返ってくるが、信じられている様子は一切なかった。
ここがどういう場所かを考えれば、当然のことではある。
この鉄の空に住まうものは全員、元奴隷だ。自由を奪われ、虐げられ、取り返しようのない傷を負わされて、ここにたどり着いた。
もう使い物にならない、と捨てられた者たちの共同体が鉄の空の実情だ。
その中には、身体ではなく心を壊されたものも多くいる。
そういった者たちの多くは主の元へと帰りたがる。何らかの薬物に囚われているのか、あるいは壊れた心でも痛みだけは感じることができるのか。どちらでも、全員の安全のためにも主のもとには返せない。
理屈としては理解できる。リエルとてここの人々を危険にさらしたいわけではない。
だが、それでも帰らなければならないという気持ちが折れることはなかった。
寄合所では先ほどまで会議が行われていたようで、それぞれの分担の責任者がたむろしている。
地上の街か、それ以上に多様な種族がここでは暮らしている。余計な軋轢を避けるためにも定期的に話し合いが行われていた。
「あら、リエル。どうしたの?」
目当ての人物はすぐに見つかった。人間以外の異種族が大半のこの鉄の空でも彼女は目立つ。
ベルナデット。リエルをさらった張本人であり、この場所では「傷の聖女」と慕われている女傑だ。
「……ジルさんが食事をつまみ食いしてしまって」
『ちょっ!? いきなりばらすなよ! 姐さん、あた――』
ジルが言い訳するより先に、蒼色の視線が彼女を捉えていた。
「ジル。前に言ったでしょ、あんたの食事はみんなの後だって。あんたも納得してたでしょ?」
『でもでも! 腹が減ってたんだって! それでつい……』
「ひもじい気持ちはわかるよ。だからって、好き放題してたらみんなで暮らしていけない。それはジルにも分かるよね?」
柔らかくも厳しいベルナデットの口調に、リエルは自分の母の事やシスターのことを思い出す。
どちらにも似ているところがあるが、何かが違う。ベルナデットから受ける印象は母というよりは姉のそれに近かった。
「だから、駄目なのもわかるでしょ。ちゃんと反省して。いい?」
『…………うん』
すっかり肩を落とすジル。そんな妹分にうなずくと、ベルナデットは笑みを浮かべた。
「それじゃ、食べちゃったものは仕方ないから、みんなで今日のご飯を調達しにいこう。リエルもそれを言いに来てくれたんでしょ?」
「は、はい、そういうときは頼っていいんですよね……?」
「もちろん。ジルの世話と食料の確保は私の役目だもの。任せて」
そういうとベルナデットは一人で寄合所から出ていこうとする。その背中にリエル閉じるの二人が追いすがった。
『姐さん、あたしもいくよ! あたしのせいだし!』
「わ、私も行かせてください!」
二人に同時に言われて、ベルナデットは困ったような表情を浮かべる。
考えるようなそぶりを見せると、渋々といった様子で頷いた。
そんなベルナデットにリエルは内心でしてやったりとほくそ笑む。どのような形であれ、この場所から出る方法を知れるのは僥倖だ。
「……まあ、ちょうどいいか」
そう呟くと、ベルナデットは懐から何かの欠片を取り出す。
手のひら大の黒い欠片。石や鉱物のようにも見えるが、違う。一番近いのはガラスだろうか。だが、つるつるした表面には何も映っていない。底のない闇の破片のようだった。
リエルはその闇にひどい嫌悪感を覚える。これはここにあってはいけない、この世界に存在してはいけない、そんな感覚だった。
「じゃあ、私の手を取って。少し気分が悪くなると思うけど、我慢してね」
言われるがまま手を取る。
そうして、次の瞬間、リエルはどこかの通路に立っていた。
薄暗く長い通路。偽の太陽に照らされた鉄の空の明るさとはあまりにも対称的だ。
「ここは迷宮の中。大丈夫? 気持ち悪くなってない?」
疑問を口にするより先に、ベルナデットが答えを示す。
迷宮に潜った経験はリエルにはないが、それでも薄暗さと空気の淀みからして迷宮というのは納得だった。
さらわれた時のように一瞬で転移したのだ。魔法を使用するようなそぶりさえなかった。
「瘴気は私の側にいれば引き受けられるから、離れないでね。ジルの方はいつも通り、偵察を――」
そう言いかけたベルナデットの視線が一瞬で険しくなる。傷だらけの拳に力が籠った。
「――誰かいる。ここに」
無数の人間の気配。ベルナテッドがこの大迷宮において一度として感じたことのなかったそれ、感じるのはずのないそれは、彼女にとっては凶兆であり、リエルにとっては吉兆だった。