第五十話 鉄の空
リエルは柔らかな寝台の上で目を覚ました。
微睡んだまま、体を起こす。節々が痛むが、そんなことを言ってられない。
リエルにとっては意外なことだったが、ラグナもユウナギも朝に弱い。二人とも放っておくと、昼間まで眠り込んでいるなんてこともよくある。
自堕落というよりは警戒心が薄い、というべきだろうか。二人とも一人旅のころはそうでもなかったのだが、三人で旅をするようになってからは冬ごもりの熊のような様相を呈していた。
結果として、旅の間、リエルは二人の身の回りの世話するようになっていた。もともと炊事洗濯全般は得意だったし、役に立てているという実感を持てるから苦ではなかった。
「まずは……お湯を沸かさないと……」
頭の中で行程を組み立てながら、上半身を起こす。息を深く吸い込んで伸びをした。
どんなときでも朝は忙しい。まずはお湯を沸かして、朝餉の準備。それが終わったら二人を起こさないといけない。基本的に寝起きは最悪なので、慎重に起こす必要がある。まずは、比較的優しいラグナから――、
「――え? ここ、どこ?」
部屋から出ようとした瞬間、リエルは己の異常に気付いた。
何もかもがおかしい。競りの会場にいたはずなのに、気付いたらこの部屋に寝せられていた。服も着替えさせられている、奴隷に扮装するためのぼろではなくきちんとした襯衣に変わっていた。
最後に覚えているのは、巨大な掌。身体よりも大きな指に包まれて、次の瞬間には意識を失っていた。
「わたし……一体……」
寝台に座り込んで考え込む。頭は混乱しきっているが、思考はできる。
無暗に行動するより先に、まずは考えろ。前に聞いたラグナの言葉通りにリエルは自分を律していた。
考えられるのは、誰かにさらわれたということ。直前の状況から考えて、それが一番自然だ。
だが、目的が分からない。ラグナやユウナギと違って、リエルには何の力もない。史上最高額の懸賞金も掛かっていないし、誰かに知られているなんてこともない。
では、なぜ? どれだけ考えても答えは出ない。
「――よし」
わからないことを考えても仕方がない、とリエルは思考を切り替える。これもラグナ達と過ごすうちに身に着けたことだった。
深呼吸を一つ。それから冷静な頭で状況を分析する。
部屋の大きさは宿屋の一室程度。扉は木製でその気になれば蹴破れそうな厚さしかない。人を監禁するにはあまりにも
見るからに怪しい。何かの罠と考えるべきだ。
しかし、ほかに出口らしきものはない。そう思い周囲を見渡して、リエルはそれに気づいた。
「そうだ、窓!」
振り返り、窓枠に手を掛ける。その向こうを覗き込み、リエルは言葉を失った。
そこには灰色の天蓋があった。
巨大な金属の天井が空を覆い、太陽も雲も見えない。
だというのに、明るい。目も眩むほどの光が街を照らしていた。
そう、窓の向こうには街がある。いくつもの建物が立ち並び、そこでは人が暮らしている。明確な生活の跡をリエルは見て取った。
ますますわからない。せめてゴドンのどこかくらいはわかると期待していたが、これでは位置どころではない。そもそもここがゴドンなのか、そこから考えなくてはならなくなった。
「……困った」
困り果てて、ため息を吐く。そのまま魂を吐き出しそうになって、リエルは拳を握った。
落ち込んでいる時間はない。足を止めている時間があるならとにかく歩け、というのも二人から学んだ大事なことだ。
さしあたっては目の前のドアだ。窓から飛び降りるには高すぎるし、脱出するにはそこしかない。
扉に近づいて、耳を澄ませる。
リエルに戦闘能力はないが、ダークエルフとしての特徴は備えている。聴力は人間種の数倍以上だ。その気になれば、周辺一帯の音を拾える。
心臓の音は階下に一つだけ。あとは、羽音のような微かな心音が移動しているが、無視しても問題ないだろう。
直接監視しているような音はない。今のうちに動くべきだ。
リエルは慎重にドアノブに指を触れる。警戒していた魔法や技能に引っかかたような感覚はない。
おまけに、鍵もしまっていない。あまりの無防備さにリエルの手が止まった。瞬間ーー、
『あ、起きたんすね! 元気そうで何よりっす!』
その声が聞こえた。
物理的な音声ではなく、脳内に響く女の念話。慣れない感覚にリエルは思わず身を竦めてしまった。
『いやー、あん時は強く握っちゃったから心配してたんすよ! ごめんね! でも、よく寝てたっすよ! やっぱり、解放されて安心したんすかねぇ。ともかく、姐さんも喜ぶっすよ!』
声の調子は陽気を通り越して、軽薄と言ってもいい。後ずさるリエルを無視して喋り倒していた。
それでも、リエルは冷静さを失ってはいない。声の主の姿を探しながらも、同時に武器になりそうなものを探した。
相手が何者でも決して諦めない。これは言葉ではなくラグナの背中を見てリエルが学んだことだ。
寝台の奥に、杖を見つける。なんの変哲もないそれをリエルは剣のように構えた。
見よう見まねだ。リエルに剣士としての技能や才能はない。
『ちょちょ! 警戒しなくていいっすよ! ここには君にひどいことする奴なんていないっすよ!』
声がなだめようとすればするほど、リエルは警戒を強める。村にいたころも甘い言葉で誘う相手ほど油断ならないものだった。
『うーん、困ったっすね。あたし、こういうの向いてないのかな?』
「ーーいつも言ってるでしょ? あなたの念話には少し慣れがいるって」
ほかの声が割って入った。今度はドアの向こうから響いてくる本物の女の声だ。
「入るよ? いいよね?」
確認しながらも、声の主はすでにドアを押し開けている。
現れたのは、奇妙な女だった。
すらりとした立ち姿に、肩口で切りそろえた金色の髪。武を志すものであれば、ローブの下の完成された肢体に息を呑んだだろう。
だが、この女の最大の特徴はそこにはない。さらけ出された女の顔にこそ、それはあった。
端正で美しい顔、そこには無数の傷跡が刻まれている。少し焼けた白い地肌を覆いつくすほどの向こう傷がこの女という人間を表しているかのようだった。
歴戦の勇士でもこれほどの傷を負うことはまずない。それ以前に、治療魔法で傷跡が残るなどということ自体がまず珍しい。
さらに、驚くべきは数えきれないほどの傷が女の美麗さをいささかも損なっていないことだ。
女が傷を微塵も負い目と感じていないからか、リエルには彼女の傷がそこにあって当然のもののように思えた。
リエルは女に見惚れている自分に気付く。そうして、今更ながら杖を構えなおした。
「……うん」
そんなリエルを見て、女は愉快そうにうなずく。敵意と武器を向けられていることを気にしてもいない。
少し考えるような仕草を見せたかと思うと、女は飛び切りの笑顔を浮かべて、こう言った。
「おはよう。今日も変わらない、いい朝だね」
「え、あ、おはようございます?」
実にさわやかなあいさつに、リエルは釣られて応えてしまう。しまった、と思った時には完全に毒気を抜かれていた。
そのリエルの隙を見逃さず、女はこう続けた。
「わたしの名前は、ベルナテッド。ただのベルナテッド、ベルって呼んでほしいかな」
「えっと、リエルです……」
「うん。名前の交換は大事だ。それで、その杖も降ろしてくれるかな? わたしのじゃないから壊しちゃったら申し訳ないし」
リエルは思わず杖を女、ベルナテッドに渡してしまう。油断があったわけでも、心を許したわけでもない。
ただ女の声には、安心するような、従ってしまいたくなるようなそんな効果があった。
そうして、リエルはそれに気づく。
女の腕、そこに刻まれた無数の傷にリエルは見覚えがあった。
あの競りの場で見た、フードの女。その女と同じ傷がベルナデットの腕には刻まれていた。