第四十八話 傷の女
舞台には、一人の女が立っていた。
ぼろ布のようなローブを纏っていながらその立ち姿には一切恥じ入るところがない。それどころか、百万の軍を率いる将軍のように堂々と佇んでいた。
ラグナはそこに揺るぎない『強さ』を見た。
ローブの効果か、女の持つスキルか、女のレベルやステータスは一切確認できない。だが、それでもわかるものはある。
この女は強い。そして、自分と似たなにかを抱えている、ラグナの直感がそう囁いていた。
その確信を裏付けるかのように、女はその声を再び轟かせた。
「恥を知るがいい!! お前たちは人の道にも、天の道にも反している!!」
糾弾の声は何物にも阻めない。百戦錬磨の奴隷商人たちでさえ、ただ聞いていることしかできなかった。
精神を圧する威圧効果。ただ声を発するだけでその効果を発揮できるものは大陸全土を探してもそうはいない。王族や高位の聖職者にのみ許される特権の如き才能を彼女は行使していた。
あるいは、この場に集うすべての者たちの罪の意識そのものへの攻撃といってもいい。ほんの微かでも罪の意識を持っていれば彼女の声から逃れることはできない。
かろうじて動けるのは、ユウナギと理から外れつつあるラグナだけだ。
だが、二人も動かない。謎の女の乱入で状況が変化した以上、下手に仕掛けることはできなかった。
「しかし、まだ間に合う! 今こそ罪を悔い、己が行いを省みよ! さすれば、汝らの魂にも救いが訪れよう!!」
女の語調は強く、その全身からは強い怒りが炎のように立ち昇っている。その一方で声には祈るような、あるいは縋るような、そんな響きがあった。
「懺悔せよ、解放せよ。汝らの罪は同じ人たる同胞を辱め、隷属せしめたことにある。ゆえに、自ら首輪を外し、鎖を解くことでのみ罪は減ぜられるのだ」
まるで聖剣教会の説教のようだ、とラグナは思った。
しかし、言葉の持つ力や女の発する気配は並の聖職者など歯牙にもかけない。
実際、彼女の声はこの会場を支配している。もはや、精神支配や魅了の域にさえ達していた。
「今こそ、奴隷たちを解放せよ! 自由を、尊厳を、意志を、諸人に返すのだ!」
それは説教でも、命令でも、怒りでもなかった。
ただただ誠実な願いであり、今こそ罪を贖おうという呼びかけだった。
そして、その最後の一声にだけは何の効果も乗っていなかった。
何のスキルも使っていないのなら、声は声でしかない。いかに誠実で、切実な願いであったとしてもそれをくみ取るようなものはこの競りの場には一人としていなかった。
「――引きずり下ろせ!!」
今更な怒号が闘技場全体から浴びせられる。威圧効果から解放され、観客たちが正気に戻ったのだ。
弾かれたように屈強な用心棒たちが舞台に上がる。彼らは息を合わせて闖入者に襲い掛かった。
用心棒たちのレベルは平均で30前後。一人一人は弱いが、数が揃えばそれなり以上の脅威となる。
それが分かっていながら、女は微動だにしなかった。身構えることさえせずに、ただ深く息を吸い込み、そして、地面を踏み鳴らした。
それはまさしく『咆哮』だった。
可視化されるほどの音圧は用心棒たちを吹き飛ばし、競りの会場全体を土台ごと揺さぶってみせた。
音撃、とでも言うべきか。おそらく威圧の戦技の応用、もしくは発展形なのだろう。その威力たるや比較的舞台から離れていたラグナ達でさえ耳を抑えざるをえないほどだ。
至近距離にいた用心棒たちは完全に気を失っている。先ほどの咆哮の威力を考えれば、それだけで済んだのは奇跡とさえいえる。
そこまで思考を進めたところで、ラグナは己の間違いに気づいた。
用心棒たちが生きているのは奇跡でも何でもない。あの女がそうなるように設定していたのだ。そうでなければ、あれほどの戦技で犠牲者なしなどということはありえない。
つまり、相手を殺さないように戦っているのだ。
だが、そんな慈悲などこの場所では何の意味もなさない。
数秒もすれば、咆哮に怯んでいた残りの用心棒も押し寄せてくる。
「…………これがお前たちの結論か。いいだろう」
そうして、女は観念したように拳を構え、ゆっくりと円を描くように足を引いた。
その所作の美しさにラグナは一瞬心奪われた。天性の才能とそれすら凌駕するほどの血のにじむ鍛錬、その二つがラグナの目には映っていた。
やはり、強い。そんなラグナの確信を女はものの見事に証明してみせた。
屈強な男たちが次々と宙を舞う。殴られ、投げられ、蹴られ、まるで木偶人形かのように蹴散らされていた
「……見事ですね。気に食いませんが」
「あ、ああ」
ひどく不機嫌なユウナギに、ラグナは唸るように同意する。
ユウナギの不機嫌の理由もわからないが、女についても何もわからない。
徒手空拳で戦っているということは拳闘士に類する職種なのだろうが、戦い方そのものには見覚えはない。
そして、何よりもその目的が読めない。彼女がここで暴れることで何を為そうとしているのか、それがラグナにはさっぱりわからなかった。
「ど、どうします?」
しびれを切らしたようにリエルが言った。
舞台ではけしかけられた巨人族の奴隷が一回転して地面に着地している。見惚れるような技だが、いつまでも感心してばかりではいられない。
「……動くぞ。ユウナギはリエルを連れて、外に――」
熟考を重ねたうえで、ラグナは決断を下す。
ここで見ていても状況が好転するとは限らない。であれば、今すぐ動いた方がいい。己の幸運に期待するほどラグナは楽天家ではなかった。
実際、この混乱に乗じて動いている者たちもいる。競りの商品を強奪するつもりなのだ。
「いえ、奪取は私が担当します。リエルはあなたが連れだしてください」
「いや、ここはオレが……」
「私がやります」
ユウナギが異を唱える。意志が強いのは今に始まったことではないが、今度ばかりは取りつく島がなかった。
しかし、議論をしている暇はない。戦闘をしり目に、商会の人間たちは商品の退避を始めている。どこかに運び出される前に、仕掛けなくては。
「……二人でやろう」
「……わかりました。では」
「ああ」
「ひゃっ!?」
もう時間がない。
仕方はなしにラグナは右手でリエルを抱え上げる。多少以上に不便で、なおかつ危険ではあるが、この状況ではこうする以外に方法がない。
それに、守る戦いならばラグナの領分だ。タンクとして培った経験を生かせば、リエルを守りながらでも十分に戦える。
「……しっかり掴まってるんだ。いいな?」
「は、はい! よ、よろしくお願いします!」
勢い良く頷きながら、ずれたことを言うリエル。
そんな彼女に励まされながら、ラグナも覚悟を決める。こうなれば、イチかバチかだ。
状況は不利だが、覚悟を決めたラグナに不可能はない。これまでの経験と実績がその自信を裏打ちしている。
だが、覚悟を決めているのは、ラグナに限った話ではない。その女もまたこの場に立つために覚悟を決めていた。
ラグナとユウナギが駆けだしたのと同時に、女は動いていた。
戦いの最中、迫り繰り刃を掻い潜りながら、女は右手を宙へとかざす。その動作は一種の宣誓でもあり、祈りでもあった。
そうして、女の右手からそれは生じる。
空間に走る黒い亀裂。この世界で唯一無二と思われたその現象が空間を壊していく。
『――告発者たる我が告げる! 虐げられしもの! 囚われしもの! 汝らは今より自由だ!』
女の声が再び響く。次の瞬間、彼女の言葉通りの現象が闘技場の全てを襲った。
鎖は砕け、戒めは解ける。隷属の首輪の無効化、この場にいるすべての奴隷たちは今この瞬間自由になったのだ。