第三十八話 英雄二人
ラグナが目覚めたのは、狭い小屋の寝台の上だった。
粗末な天井はリエルのいた小屋を思い出させる。かつてを再現するようにラグナの全身には包帯がまかれており、薬草の匂いを漂わせていた。
視線を小屋の中に移し、ラグナは意外な人物を見つける。ベットのすぐそばの椅子にはリエルが腰かけていた。
ダークエルフルの少女は座ったまま、寝息を立てている。夜通しの看病の結果であることは、握られたままの包帯が物語っていた。
ラグナはリエルを起こさないように気を付けながら、上半身を持ちあげる。かなりの間眠っていたらしく、全身が錆びた歯車のように軋んだ。
どうにかうめき声を上げずにベッドから立ち上がる。
ここがどこで、なぜリエルがいるのか。疑問は尽きないが、今はとにかく少女の眠りを妨げたくなかった。
ラグナは這いずるようなのろまさで扉に手を掛ける。軋むそれを押し開けると、久方ぶりの太陽に目がくらんだ。
「起きたか、寝坊助め」
声が響いた。ひどく聞きなれた声に、ラグナは自分でも驚くほどの安心を感じた。
シスターだ。ここがどこであるにせよ、彼女がいるのならラグナにとってはそこは家のようなものだった。
目がなれると、ここが山猫族の村であることが分かる。
戦場からラグナを運んでくるにはこの村が一番近い。そう考えれば当然のことではある。
リエルが小屋にいたのもシスターが連れてきたと考えれば、理解できる。
わからないのは、なぜアルゴーの街にいるはずのシスターがここにいて小屋の前でいつもの怪鳥の丸焼きを拵えているのか、ということだ。
「……どうしてここに?」
「息子の危機だからな。私がいるのは当然……といいたいところだが、違う。着いたのは三日前だ。バルカンの小僧に呼ばれてな」
そう説明しながら、シスターは切り取った肉をさらに盛り付け、塩を振りかける。頷くと、ラグナに向かって差し出した。
「なるほど」
そういえばシスターとバルカンは知り合いだったか、そんなことを考えながらラグナは肉を頬張る。
ふと、村の様子へと視線を向ける。ラグナを含めた全員の奮戦、その甲斐あってか村そのものには被害が及んでいる様子はない。
ただ村人たちの姿が見えない。遠巻きにこちらを見つめているような気配は感じるが、村に来た直後にあった気安い雰囲気はどこかに消えてしまったようだった。
「オレはどれくらい……」
「十日だ。リエルなどもう目覚めぬのではないかと慌てふためていておったぞ。まあ、それでも、もう一人の剣幕に比べれば落ち着いてはいたがな」
そう言うとシスターはくつくつと含み笑いを浮かべる。シスターがこんな表情をするときは誰かからかい甲斐のある相手を見つけた時だと、ラグナは知っていた。
その相手に大いに同情しながら、ラグナは鼻を掻く。小さくため息を吐くと、決意を固めた。
「……ロンドに会いました」
「……そうか。もうやめていいと言われただろう?」
「ああ。冗談じゃないって突っ返しておきました」
ラグナの言葉に、シスターは静かに頷く。その顔には憂いとも喜びともつかない色が滲んでいた。
「……治療はシスターが?」
「私は手伝いをしただけだ。感謝するなら、バルカンとマオだぞ。お前をこの村に運び込み、私がつくまで持たせていたのだからな」
「あの二人が……」
ラグナは反射的に二人の姿を探す。どこにも見当たらず、不安に駆られた。もしや、自分を助けるために何か無茶をしたのではないか、と。
「二人なら今は山の国だ。被害の調査とドワーフの無事を確かめにな。今朝連絡があったところだ。運よく、死者はいないそうだ。普段の行いのおかげだな」
「被害……もしかして、聖剣の……」
意識を失う前に見た光景を、ラグナは思い出す。蒼色の極光はアトラス山の半分を消滅させていた。あれで被害者が出なかったというのは、奇跡としか思えない。
「山の国の本体は地下の鉱脈だからな。山頂付近にはもともと人は少ない。それに、あそこには門があった。生きているものは近づけまいよ」
「……なるほど」
シスターの説明にラグナは、己が手を見下ろす。
聖剣を振るった瞬間、奇妙な感触があった。攻撃の方向を誘導されるような奇妙な衝動、狙うならば上の方向だとなにかに導かれた。
聖剣は人への脅威を討つためにある。あの場所に門があったとすれば聖剣そのものがそう導いたのかもしれない。
「ああ、だが、最大の功労者は、ユウナギだな」
「……あいつが?」
シスターの答えに、ラグナが眉を顰める。確かに戦場では助けられたが、ユウナギは侍だ。瀕死の自分を助けられるような技や魔法を有しているとは思えなかった。
「ああ、そうだとも。あれほどの甲斐甲斐しさは私も見たことがない。三日三晩おまえと同衾して生命力を補い続けたのだからな」
「ど、同衾……」
シスターの不意打ちに、ラグナの思考が真っ白になる。
同衾、ということは閨を共にした、つまりはそういうことだ。実際に行為があったにせよなかったにせよ、同衾したと聞けば十人が十人同じ解釈をするはずだ。
ましてや、相手はあのユウナギ。彼女は誇り高き侍であり、れっきとしたヒノワの女性だ。
ヒノワの女子が名誉と純潔を重んじることは有名だ。これと見初めた相手と添い遂げられなければ死を選ぶのが当然という噂はラグナでさえ聞き及んでいる。
そんなユウナギと同衾した。その事実を前にして、責任という言葉がラグナの脳裏を埋め尽くした。
実際には、霊医術の一環として肌を触れ合わせることで、生命力の補填と共有を行っていただけなのだが、それをラグナが知る由はない。
「あくまで治療の一環だがな。ほかの誰かでもよかったのだが、本人が志願したのでな、任せた」
「ち、治療?」
「死にかけたおまえを救うためだ。ともかく、礼なら直接伝えることだ。ここで逃げたら、お前、男として最低だぞ?」
事実をわざとぼやかしながらシスターが焚き付ける。彼女としては慌てふためくラグナの姿を見るのも、ユウナギが赤面するのも見ていて飽きない。
「………どこにいるんだ?」
「水浴び場だ」
「……あー」
「そこの角を曲がったところだ」
覚悟を決めると、ラグナは水浴び場へと歩き出す。バルカンの尽力で、村の水道は機能を回復していた。
ともすれば、戦場に向かうよりも足が重い。逃げ出したくなる衝動とどこか喜ばしいような気持ちがないまぜになっていた。
結婚だの、家庭を持つだの、そんなありふれた日常については努めて考えないようにしてきた。手に入らないもの、手に入れようとも思えないものについては考えないというのが、ラグナの信条だ。
だが、やってしまった以上は責任を取らねばならない。言い訳はいくらでも思いつくが、所詮は言い訳だ。命の恩を受けた上、責任も取らずにいたのでは騎士どころか、人間の風上にもおけない。
それでも迷いはある。ユウナギに対しての感情の問題ではなく、ラグナ自身の生き方の問題だ。
おそらくこれからもラグナは罪人として追われ続けることになる。そんな生活に普通の幸せなど望めるはずもないのだから。
遠巻きからの視線を無視して、ラグナは角を曲がる。村人たちが浮かされたように呟く「英雄様」という呼称も今は耳に入らなかった。
ともかく覚悟を決めるしかない。視線を上げて、そこにいるであろうユウナギに声をかけようとした瞬間、ラグナは絶句した。
白い、肌だった。
さらされた背中は水を弾くほどみずみずしく、見ているだけで柔らかさときめ細かさを想起させる。今までラグナが見たことのあるあらゆる肌より、麗しい肌だ。
背中の両端からは、艶かしい双丘が垣間見える。それを認識した瞬間、ラグナの思考回路は余計に麻痺した。服の上からは想像できないほどに大きい、そこまで考えてラグナは動けなくなった。
次に、目に入るのは黒い髪。艶やかで長く、離れていても陽の香りが漂ってきそうなほど輝いていた。
そして、最後は首だけで振り向いた整った顔。あまりにも美しく、言葉どころか呼吸さえ止まってしまいそうだった。
ユウナギは裸だった。
考えてみれば当然のことではある。ここは水浴び場で、彼女は汗を流しに来たのだから。ラグナとてそれを知っていながら、完全に失念していただけだ。
「――どうかされました?」
固まったラグナに、ユウナギが声を掛ける。見られているのを気にした風もなく、体を拭くと肌着を纏った。そんな動作さえ、ラグナには色気が香り立つように思えた。
一方、ラグナの目の色が変わったことにさえ、ユウナギは気づかない。見られたことへの羞恥心は多少はあるが、ユウナギとしてはそれ以上に申し訳ないという気持ちの方が強かった。
ユウナギはこれまでの人生において女性として扱われたことが、全くない。生まれた時から女どころか、人間ですらない武器としてしか扱われてこなかったのだから当然といえば当然ではある。
ゆえに、彼女は蠱惑的な肉体を持ちながらそのことに対して自覚がない。それどころか、侍でありながらかすり傷さえない己の肉体を恥じてさえいる。大きな胸も、見た目の美しさも、自分を人間離れさせている原因のように思えて好きになれたことなど一度もなかった。
しかし、今、そよ風のように微かな喜びをユウナギは感じている。ラグナの反応が理由こそわからないものの喜ばしいものに思えたのだ。
それになんだかラグナに対して優位に立ったような、そんな気がして愉快でもあった。
おかげでラグナの顔を見て会話ができる。それも、普段通りの態度で。
「それで、なにかご用でも?」
「い、いや、そのあれだ……すまん……」
「別に構いませんが」
「オレが構うんだ。とにかく、オレは、その……」
視線を伏せたままラグナは言葉を探す。すっかり動揺して、何をいうべきか頭から抜け落ちていた。
「……ふむ。これはこれで……」
そんなラグナを見て、ユウナギは考えを改める。
戦場での雄々しい姿もなかなか良かったが、こうしてどぎまぎしているのも悪くない。
ユウナギはそのまま帯を締めて、刀を差す。そこでようやくラグナは視線を上げた。
「……その、あれだ、いろいろ助かった。ありがとう」
「………いえ、その、貴方に死なれては私も困るので……別に、大したことは」
今度はユウナギが戸惑う番だった。
ラグナが素直に頭を下げるものだから、どう返したらいいのかわからなくなる。誰かに面と向かって感謝されることも、それを素直にうれしいと思うのも彼女には滅多にないことだった。
「いや、でかい借りができた。命を救われたのもそうだが、その、あれだ……」
「はぁ……まあ、回数的にはそうですね」
ユウナギは言われて、頭の中でラグナに命を救った回数と救われた回数を数え合わせる。前者は二回で、後者は一回と数えるには事情が複雑すぎるが、どちらにせよ、今、優位にあるのはユウナギだ。
「だから、その、前みたいにお前にとどめを刺せとかは無理だが……ほかのことなら、なんでも責任を取るつもりだ……」
まるで切腹を命じられた侍のような面持ちのラグナに、ユウナギの中で初めての衝動が沸き上がる。
殺意や加虐心にも似ているが、それらよりもはるかに甘い衝動。いたずら心とも言うべきそれはユウナギにある閃きをもたらした。
『ラグナは貸し借りに弱い』。シスターから聞いたラグナの弱点も鑑みれば勝算は十分すぎるほどにある。
ユウナギはいまだに自分の思いに無自覚だが、ラグナにさせたいこと、されたいことは思いつくだけで山ほどある。
だが、まずはその前提を築かなければならない。この機会を十全に活かさねば。
「……貴方は、これからも一人で戦うつもりですか?」
「…………そのつもりだ。責任は取るが、そこだけは譲れない」
「では、話は簡単です」
予想通りの答えに、ユウナギは内心飛び上がって喜ぶ。どうにか顔には出さずにはすんだが、油断すると口角が上がってしまいそうだった。
ラグナはユウナギを巻き込んでしまうことに悲痛な面持ちをしているが、ユウナギ自身にそんな痛みはない。
彼女の人生は常に戦いだった。今更世界中の全てを敵に回したとしてもなんの負い目もない。それどころか、戦いの中で本懐を遂げられるのならこれ以上の幸せなどないと断言できた。
「――あなたの側に私を置いてくださいませ。病める時も、健やかなるときも、そして、戦の時でさえも」
己が発した詞が聖剣教会における婚姻の誓いと似通っていることを、ユウナギは知らない。ただ彼女の中の強い思いがこの言葉を選んだのだ。
そして、この一言こそが二人の運命を変える決定打だった。
後の歴史においては、こう語られることになる。ラグナ・ガーデンと神奈ユウナギ、この二人こそがヴィジオン大陸最初の英雄であった、と。