第三十七話 別れ
そこにはなにもなかった。
地平線まで広がる白い空間。どこにも影はなく、風も吹いていない。音もなければ、匂いもなかった。何もかもが穏やかで、何もかもが静止している。
そんな場所に、ラグナは寝ころんでいた。傷だらけだった体は生まれたてのように綺麗で、産着のような白い衣をまとっていた。
”オレは死んだのか”
しばらく何もない空を見上げてから、ラグナはそう結論付けた。
夢にしてはあまりにも刺激がなく、現実にしては安らかすぎる。直前の状況も鑑みて、ほかに可能性はない。
本当に死んだのだとしたら、思っていたよりもずっと安らいでいる。聖剣を盗んだ時点で死後の安らぎには期待していなかったが、こうまで静かだと一層不安さえも感じてしまう。
もしや、これが刑罰なのか。
永遠に続く静けさは最初のうちは安らぎに感じるだろうが、しばらくすれば狂気が忍び寄る。果て無く続くものは苦痛であれ、快楽であれ、拷問に等しい。
それがふさわしいのかもしれない、そんな諦めがラグナの脳裏をよぎる。
これまで成し遂げてきたことは、結局のところ自己満足だ。誓いだ、使命だ、などと綺麗ごとを言ってもふたを開けてみれば山猫族を見捨てた冒険者ギルドと何も変わらない。
怒り。己の根底にあったその感情をラグナはこれまで直視しないようにしてきた。自分の行動が八つ当たりのようなものだと認めたくはなかったのだ。
だが、今は認めざるをえない。
覚醒の段階を迎え、ラグナは多少なりとも虫食いという現象を理解できた。
虫食いとは魂の根幹に根差すものだ。そして、ラグナの虫食いを燃やすのは怒り。己自身を否定しても結局は何も変わらない。
だとすれば、この結末も――、
「そりゃないぜ、相棒」
その声は、春の風のようにさわやかに響いた。若い男の声だった。
男はいつのまにか、ラグナの隣に腰かけていた。辺りの風景は緑の生い茂る平原へと変わっていた。
ラグナはその背中にちらりと視線を送る。ここが死後の世界ならそう言うこともあるだろう、と多くの感情を呑み込んだ。親友同士だからこそ安易に涙など見せられない。
「……ひさしぶりだな」
「っても一月か、二月くらいだろ。そう考えると短い間に、ずいぶん老け込んじまったな、おい」
男が笑う。なにかがツボに入ったらしく、そのまま腹を抱えて蹲った。
ラグナは呆れてため息を吐き、上半身を起こす。いつかそうしていたように二人で水平線を眺めた。
はるか遠くで太陽が沈んでいく。夕暮れの草原は思い出の中そのままに美しかった。
「昔さ、二人でどこまで遠くに石を投げられるかって競争してたよな。いつか沈んでいく太陽を打ち落としてやるって」
男が言った。手元の草を何本か引き抜くと、投げる真似をしてみせる。まるで子供のような仕草は死してからも変わらない。
「ガキの頃は競争になったからな。遠当ても、腕相撲も、速駆けも。それがいつのまにか――」
「まあ、オレが勇者になっちまったからな。でも、お前は変わらなかった。ほかのやつがみんなオレから離れちまっても」
「ほかに友達もいなかったからな。仕方なくだ」
「へ、よく言うぜ。昔から変なのにモテてるくせに。勇者より女が寄ってくるってお前、大逆罪だぞ」
「お前がひどい振り方をするからだろ。少しは相手への配慮を覚えろ」
「へいへい。まあ、もう死んじまってるから無理だけどな!」
男はそう言うとまた大笑いし始める。ラグナは彼が自分に罪悪感を感じさせないためにそうしているのだと気付いていた。
気付いてなお、礼を言うこともなければ、謝ることもない。互いに気を許すとはそういうことだと二人は考えていた。
「……なあ、相棒」
「なんだ?」
「もうやめにしてもいいんだぜ」
少しの沈黙の後、男は何でもないことのようにそう言った。
「……あれだ。なんつうか、オレが悪い。いくら自分が死ぬからってとんでもないもんを押し付けちまった。本当ならオレがやらなきゃいけないことだってのに」
「……まあ、そうだな」
ラグナは頷きながら、これが最後通告なのだと理解した。この問いにどう答えるかで全てが決まる。何もかも終わりにして先へ進むのか、あるいは来た道を戻るのか。
「だから、もう終わりにしてくれていい」
「おまえはそれでいいのか? オレに何かやらせたかったじゃないのか?」
「……気付かれてたか。それも承知で誓ってくれたのか?」
「まあ、なんとなくは、な。長い付き合いだ。お前があんなに必死になるのは世界とかじゃなくてもっと身近なことだろう。もっともそれが誰かは教えてくれなかったが」
ラグナの言葉に、男は頷く。拗ねた子供のような表情をしているのがラグナには簡単に想像できた。
だんだんとラグナの心で炎が燃え始める。いい年して子供のような態度をとる親友に幾度となく堪忍袋を切らしていたのを思い出していた。
「でも、まあ、いいんだ。最初から誰かに託していいことじゃなかったんだ。そもそも無理難題だしな」
「あ?」
意識せずに、声が出ていた。心底イラついている様子のラグナに男は大げさに驚いてみせた。
「おまえじゃあ、なにか。死に際にどうせこいつには無理だろうなとか思ってたのか?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「随分と舐めてくれるじゃないか、ええ? 親友だとか何とか言ってる割にはオレのことを信じてなかったわけだ」
怒りながら、ラグナは立ち上がる。希薄だった体の感覚が急速に戻り始めていた。
「誰もそんなことは言ってな……」
「いいや言った。お前までそう思ってるとは……!」
怒りを言語化しながら、ラグナは己自身を認めていく。そうしていくごとに全身に力がみなぎり、諦めかけていた肉体は生へ近づいていった。
結局のところ、今に始まった話ではないのだ。
ラグナ・ガーデンという人間はずっとそうだった。他者に怒り、世界に怒り、己に怒ってきた。その怒りを生きることへの原動力にしてきた。
無理だと言われて、ただ引き下がったことなど一度だってない。不可能だと決めつけられれば、何度でも挑みかかった。結果がどうなろうとも己の魂を燃やし続ける、ラグナ・ガーデンとはそういう男ではなかったか。
身勝手で、自己満足ばかりなのは最初からだ。ならば、いまさら何を恥じる必要がある。何度でも胸を張って己を押し通すまでだ。
「お前が無理だと思ってるなら、絶対にやり遂げてやる。誰が途中で投げ出したりするもんか」
誰にでもなくラグナは自分自身にそう宣言する。握り拳を作り、歯を食いしばって天をにらんだ。これまでそうしてきたように、あるいはこれからも戦い続けるために。
「――ああ、まったくお前らしいよ。いつだって諦めない。バカみたいに真っすぐで、そのくせ屈折してる」
そんなラグナを見て、男が満足げに言った。横顔には悲しみと喜びがないまぜになっていた。
夕焼けの空が崩れ始める。ステンドグラスが砕け散るように、整然としていた空間が形を失っていく。
時間が来たのだ。本来あるべき場所へ帰る時が。
「……一つ聞いていいか」
「ああ、なんだ相棒」
痛みと重さを感じながら、ラグナが言った。別れはすでに済ませているが、それでも名残惜しくないと言えば嘘になる。
「オレでよかったのか? ほかにも託せる相手はいただろう。レーナなり、カルなり」
男はラグナの問いに吹き出す。親友に向かい合うと、楽しげに聞き返した。
「今更それ聞くのか? ほかにいくらでも聞きたいことあるだろう」
「オレには重要なんだ。さっさと答えろ」
拗ねたようなラグナに、男はますます楽しそうに笑う。親友がこんなことを聞くのは珍しく弱気を見せているのだと理解していた。
「ああ。お前じゃないとだめだった。お前より強いやつもお前より賢いやつもたくさんいる。でも、お前じゃないと駄目だ。虫食いがどうとか、運命がどうとかじゃない。バカで折れないお前以外には託せなかった」
「……ああ」
安心したようにラグナが頷く。
力でもなく、出自でもなく、ただ己であったからこそ託された。もしこの再開が今わの際の幻だとしてもそう思うだけで立ち続ける理由になる。
世界が崩れる。ラグナの視界が白く染まり、意識が現世へと引っ張られていく。
「それじゃあな、相棒。当分顔は見たくねえからしばらくこっちには来るなよ」
「ああ、分かってるよ。ロンド」
そうして、目が醒める。何もかもが夢幻のようだったが、だからこそ、今のラグナには必要な時間だった。