第三十五話 聖剣
聖剣とは、勇者の象徴であり、その力そのものだ。
太古の昔、神々が大陸に降りる以前に、聖剣は鍛えられた。
星光鉱に、宙より舞い降りた真竜の血。もはやこの世界から失われた二つの素材を、山の王が自らの手で鍛錬した。
大地の心臓で熱せられ、神域の職人の手によって鍛えられた聖剣はあらゆるものを切り裂いたという。神鉄の盾を、星をも砕く天災を、そして、世界を覆う無明の闇でさえも。
込められたのは希望と願い。よりよい明日を招き給え、よりよい営みを守り給え、よりよい世界を開き給え。そんな生きとし生けるものが抱く、ささやかな望みを守るために聖剣は鍛たれたのだ。
その使命を果たすために、聖剣は幾度となく振るわれた。星を侵さんとする外敵に対して、あるいは内側より生じた歪みを討つために。
あらゆる命を守る力を持つということは、転じてあらゆる命を滅することができるということも意味する。聖剣がその輝きを放つ度に世界には消えない傷が刻まれた。
それゆえに、後に降臨した十二神は聖剣にいくつもの封印と制限を課した。
その第一こそが、使用制限。神々の認めた資格ある者だけが、聖剣の力の一端を振るうことができる。
その資格とは、聖剣と神々の認める勇あるものであること。
すなわち、勇者だけが『聖剣』を振るうことが許される。人の世を守り、魔王を討つというただ一つの使命のために聖剣は振るわれるようになった。
そうして、いつしか聖剣は『始まりの聖剣』と呼ばれるようになった。勇者を選ぶのも、使命を与えるのも聖剣であるのならば、聖剣こそが始まりであると。
勇者という理も、聖剣教会という権威も、すべてはこの剣から始まった。
始まりにして希望。その象徴ともいえる剣は、今ラグナにとって絶望を突き付ける現実そのものだった。
どれだけ力を込めても、聖剣は鞘から抜けない。
ラグナは勇者ではない。勇者出ない以上は聖剣を振るうことはできない。そうしなければ世界が滅ぶとしても神々の定めた理は揺るぎはしないのだ。
ラグナの頭上では、巨大な影が山をすっぽりと覆っている。大蛇が獲物を少しずつ消化していくように、山脈ごと山の王の鍛冶場を消し去ろうとしているのだ。
もはや、王の意志が健在かどうかさえ分からない。魔そのものへと変性した以上、そこにあるのは根源的な虚無への衝動だけだ。
「くっ――!」
悔しさと無力感にラグナは奥歯を食いしばる。
自分が勇者であったのなら、ロンドが生きていたのなら、親友を守れるだけの力が自分にあったのなら。後悔と脂肪がラグナの両足を容赦なく打ち据える。
この影は決して止まらない。かつてのネルガルの意志、故国の復活という目的を成すまでありとあらゆるものに死をもたらし続けるだろう。
すべての生が消えれば、あとに残るのは死だけ。これ以上なく歪められ、おぞましい形でネルガルの悲願は成就するのだ。
周囲を囲む屍たちが、歓喜するように唸り声を上げる。また同胞が増えるのだとそう歌っているようだった。
事実、もうラグナに打てる手はない。よしんば、屍の群れを退けられても結界が破られれば、影に抗う術がない。友との誓いを果たすこともできずに、ただここに立ち尽くして死を待つことだけが彼に許された行動だ。
絶望が心を覆う。あきらめるに足るだけの努力をラグナは重ねてきた。才のなき身でここまで戦ったことは誰の目から見ても讃えるに足る偉業だ。
それでも、彼女はラグナに問うた。否、問わねばならなかった。
「――諦めるのですか?」
声に叩かれるように、ラグナは視線を上げる。そこにはユウナギが立っていた。
ユウナギの顔には、ラグナの見たことない表情が浮かんでいる。
まるで今にも泣きだしそうな童のような顔。何かが痛むような、夜道で迷ってしまったような、そんな顔をしていた。
その痛ましさに、ラグナは一瞬絶望さえも忘れた。
ユウナギは死を恐れるような女性ではない。
彼女は侍だ。本人が自分をそうとは認めずともその精神は確かにそのように在る。
であれば、なぜ。その疑問を口にするより先に、ラグナは答えを発していた。
「――諦めなんてするものか」
吠えるように空をにらむ。消えかけていた灰に再び火が点った。
諦めを知らないのはラグナとて同じだ。ここに至るまで数えきれないほどの不可能を超えてきた。今更、できないなどと弱音を吐いてはいられない。
騎士の誓いは破れない。死にゆく友に捧げた誓約は今もこの胸にある。
それを思い出させてくれたのは、ユウナギだ。
今にも泣きそうな彼女の顔は、ラグナ自身だ。兜の下に、あるいは心の奥底に沈めてきた迷いと悲しみ。ユウナギの表情を見た瞬間、ラグナはそこに己を見たのだ。
だからこそ、その痛みと苦しみがわかる。そして、それを払うためにどうすればいいのかも。
”バルカン、結界はいつまでもつ?”
念話を繋げながら、ラグナは兜を外す。もはや顔を隠してなどいられない。
勇者とは希望だ。例え偽物でもそう在らんとするならば、堂々と先陣に立たねばならない。
”…………あと一分ちょっとだな。すまねえ、まさかこんな――”
”何とか二分に伸ばしてくれ。防ぐのは影だけでいい”
”それならどうにかなるが、そうすると死体どもが――”
「そちらは私にお任せを。いいですね?」
念話を聞いていたのか、ユウナギが割り込む。
彼女の戦闘能力ならば、数千体の屍が相手でも十分にラグナを守り通せる。
問題はその先だが、彼女はラグナを信じている。自分を倒したという一点ゆえか、あるいは誰よりも彼を信じたいが故か。
「……ありがとう」
礼を告げられて、ユウナギはただ頷く。赤らむ頬を隠すように、あるいは、ラグナにすべてを任せるように背を向けた。
今までにない感情がラグナの裡に起こる。面はゆいような、満たされるような、強い喜び。思えば誰かの背中を守ることには慣れているが、誰かに背中を任せるのは初めてのことだった。
”結界の組成を変える! すぐに屍どもが来るぞ!”
「……ああ、頼む」
次の瞬間、屍の波濤が二人に迫る。夜の闇に墜ちるように視界の全てが屍で埋まった。
抗いようのない死。覆しようのない終わりを前にして、ラグナは再び聖剣に手を掛ける。深く息を吐くと、瞼を閉じた。
耳に響くのはユウナギが刀を振るう剣戟の音。それすらも意識から追い出して、ラグナは己の裡へと静かに潜る。
聖剣を開く可能性があるとすれば、『虫食い』だけだ。己の裡にある現象にネルガルの言うだけの力があるのならば、聖剣を開くことも可能のはずだ。
先ほどは駄目だった。だが、今は違う。勇者になろうなどとは微塵も考えてはいない。
ただ成すべきことを成す。そんなことさえも忘れかけていた己に対する怒りが烈火のごとくラグナを燃やした。
そうだ、相応しくないことなど最初から分かっていた。勇者たりうる成長限界があるわけでもなければ、親友のような優しさも高潔さもない。
それでも、戦うと決めた。友の無念に怒り、己の無力に怒り、世界の理不尽に怒り、ここまで進んできた。
ゆえに、今こそ最大の壁を超える。聖剣という絶望、幾度となく突き付けられてきた現実を乗り越えるのだ。
「――っ!」
柄を握る指先に力が籠る。
瞬間、ラグナの背から黒い罅が空間に走る。炎が焼け広がるように、周囲の全てに罅は広がっていく。
全てがひび割れ、空間が崩れる。風景が色あせ、どこへとも繋がらない黒い穴が穿たれた。
まさしく、世界に空いた『虫食い』。ラグナの裡に宿った虫食いは『兆』を経て、ついに『覚醒』へと至ったのだ。
そうして、かの輝きが顕現する。清澄なる蒼き極光、今ラグナの手に『始まりの聖剣』が握られていた。