第三十二話 兆し
”――虫食いの力は理に穴を穿ち、歪みを生み、すべてを壊すものだ。ゆえに、神々はその力を封じ、人に頸木を掛けた。成長限界もスキルもその一環に過ぎぬ"
ネルガルは謳うように神話を紡ぐ。その内容はラグナの知るものとは大きく異なっている。
聖剣教の語る神話に曰く、成長限界とは福音だ。無為に生を終える人間を憐れんだ神々が人に見える形でその才や可能性を現したのだと伝えられている。
”だが、時に汝のようなものが現れる。与えられた定めに逆らい、ありえざる可能性を示すものが。その可能性こそが我らを救う"
闇の衣をはためかせながら、ネルガルは玉座を立つ。発せられる魔力の渦は彼の心中を示すかのように、勢いを増した。
「オレに……なにを……しろ……と?」
息を発することさえ困難な重圧の中、ラグナが問う。
重力を跳ね返せる可能性はあまりにも低い。
できることがあるとすれば、こうして会話を引き伸ばして時間を稼ぐこと。その間に生き延びた人々が逃げ延びてくれれば、そう祈るしかなかった。
"生と死を入れ替えるのだ"
まるで何でもないことのようにネルガルが言った。絵空事どころか、狂人の妄言のような目的だった。
"我らはただの魔物とは違う。生ける死者だ。そのように呪いを受けたがゆえに、我らの魂は未だに理の内にある。つまり、完全に死したわけではないのだ”
ネルガルの語る世界の仕組みは、ラグナにはほとんど理解できなかった。
けれど、理性ではなく本能がネルガルの言葉の裏に潜む真意を察知している。何もかもが変わる、そんな予感がラグナの背筋を走った。
”死した我らとすべての生けるものたちを入れ替える。理そのものに干渉し、何もかもを書き換えるのだ”
それは紛れもない宣戦布告だった。
人間はもちろん、亜人種も獣や植物も、魔物とて生き物だ。
ネルガルはそれら息とし生けるものすべてと死せるすべてを入れ替えると言った。つまり、すべての命あるものを殺しつくすと言ったのだ。
そこには当然、ネルガルの主君でもある魔王でさえも含まれる。
「そんな……こと……!」
”不可能か? いいや、可能性はある。可能性があるのならば――あきらめる道理などどこにもない”
届かぬ星に手を延ばす星読みのように、ネルガルの声には確かな熱がある。
もはや狂気の域に達するほどの強固な信念は、生者だけが持つものだ。自身の言葉通り、彼は死者でありながら生者でもあった。
ラグナ自身もその熱を知っている。そして、ネルガルの発した言葉の意味もラグナは知っている。
だからこそ、その危険性もわかる。どんな言葉でもネルガルは決して止まらない。命尽きるその時まで彼は進み続ける。
”王命である。汝の肉体、余に献上せよ”
そう発せられた瞬間、ラグナをさらなる重圧が襲る。全身がキメラの背中にめり込み、いくつかの骨が無残に折れた。
「断……る……」
それでも、ラグナの意思は折れない。
ロンドの代わりを果たす。弱きものを守り、平和をもたらす。それこそが勇者の役割だ。
心を乱されていても、その誓いだけは決して譲ることはない。例え、命が尽きたとしても。
”汝の意思に意味などない。余は命じたのだ。だが――”
そう言うとネルガルは指先を鍛冶場の方角へと向ける。それに応えるように、屍の竜が首をもたげた。
魔力の収束が始まる。竜の顎に再び暗黒の太陽が充填されていく。王が命じれば太陽は即座に解き放たられるだろう。
”魂を入れ替える転換の秘術には両者の同意が必要となる。ゆえに、選ぶがよい、己が信念か、民の命か”
瞬間、今までに感じたことのないほどの恐れがラグナを支配した。
ロンドは誰を見捨てることも許さない。亜人種でも、貧者でも、凡骨と蔑まれた非才の男に対してもそうだった
ならば、山猫族を犠牲にすることなどありえない。困窮する彼らを救わずして、勇者の代わりなどと胸を張ることなどできない。
だが、頷けば、魂と命を失う。死の王はラグナの肉体を手にし、未曽有の大虐殺と奇跡を実行する。ありとあらゆる命がこの世界から失われ、古き帝国が再び勃興するのだ。
どちらを選んでも、誓いを破ることになる。
”そなたが頷けば、我が誇りにかけてあの者たちの命は保証しよう”
ネルガルの言葉に嘘がないことがラグナにはわかった。
王は言葉を違えない。例え死者の王であったとしてもそれは変わらない。
だからこそ、懊悩は深くなる。
少数を切り捨て、多数を救うか。多数を見捨てて、少数を守るか。どちらを選んだとしても後悔と痛みはつき纏う。
「……オレ…………は…………」
声を絞り出しながら、ラグナは必死で思考を巡らせる。
なにか、なにかあるはずだ。この状況を覆せるだけの何かが必ず。
だが、意志は折れずとも身体には限界がある。今のラグナの身体能力でも数十倍の重力を克服することは不可能だ。
またレジストしようにもそもそもラグナには耐性がない。いかな虫食いとはいえ完全に理から脱したわけではない以上、半分は理に囚われている。ある意味では今のラグナは生ける死者と同じだった。
この重圧から逃れるには、外部から干渉するか、術者本人に呪文を解かせるしかない。そのどちらもラグナには不可能だ。
”選ぶがよい。身体を明け渡すか、民を犠牲にするか”
ネルガルの右手に、奇妙な魔法陣が浮かび上がる。黒い蛇が絡み合うようなそれは、怖気が走るほどの禍々しい気配を発していた。
”同意せよ。歓喜せよ。汝の肉体は誉れ高き帝国の礎となるのだ”
歌うような声。ネルガルの目には大望を成就する瞬間がまざまざと浮かんでいた。
彼は己の勝利を疑っていない。このために千年もの間、苦渋に耐え、民を守り続けてきた。それが今こそ報われるのだと陶酔さえしていた。
無理からぬことではある。こうして向かい合っているラグナでさえ絶望と諦めに膝を屈しているのだから。
「オレ……は……」
全身から力が抜けていくのを、ラグナは感じる。
誓いを立てて以来、全身に漲っていた意志の力。あらゆる可能性を踏破し、死線を越えさせてきたものが失われていく。
自分はよくやった、大した才を持たない身でここまで戦い抜いたのだ。もう十分だ、誓いは果たした。
そんな甘い声がラグナの心に響く。もう諦めてしまえ、もう終わりにしたいと何度も聞こえてくる。
今に始まったものではない。心の奥底にはいつだって諦めがあった。
才能がない、運がない、力がない。誰に言われるまでもなくラグナ自身がそれを知っている。それでもここまで戦い続けてきた。
誓いの為ではない。それよりずっと前からこの身体の裡には衝動があった。あまりにも強く、激しい衝動。一体、なにが――、
「――ッ!!」
瞬間、ラグナの全身に力が籠る。残り火が燃えるように、消えかけの星がひときわ強く輝くように。
骨が砕けるのも構わずに、ラグナは膝を立てる。
再び立ち上がる。破れぬ誓いをもう一度刻むように、重力を振りきった。
怒りだ。どんな炎よりも強く、激しい怒りがラグナの全てを燃やしていた。
それは不甲斐ない自分への怒りであり、理不尽を強いる理への憤りでもある。絶えず燃え続けるその劫火こそがラグナの原動力であり、ラグナが虫食いたる所以だった。
”――『兆』か。だが、好都合というもの”
世界を壊す力を前にしても、ネルガルはその威厳をいささかも乱さない。鷹揚に手を左手を上げると、彼の周囲に数百個の魔法陣が同時に展開された。
同時に、屍の竜がその息を解き放たんとする。狙いは鍛冶場だ。いかにラグナが重力を克服してもこの一撃だけは止められない。
そう、ラグナには止められない。
だが、彼女ならば、星の冒険者として列せられ、『断絶』の名を持つその侍ならば――!
「――『山薙ぎ』」
斬撃一閃。清澄な音と共に、竜の頭が真っ二つに裂ける。断絶の一刀が、太陽ごと竜の鱗を断ち切ったのだ。
それこそが反撃の狼煙であり、神奈ユウナギがこの戦場に到着した紛れもない証拠だった。