第三十一話 虫喰い
腐敗と毒をばらまきながら、竜が舞い降りる。片方しかない目玉が戦場を睥睨した。
レベルの低いものならばそれだけで死に至るような圧が周囲を満たす。
竜種にはほかの魔物や人間のようなレベルは存在しない。だが、例えレベルが百に達していたとしても、竜に一人で対抗することはまず不可能だ。
ただそこにあるというだけで彼らは脅威であり、規格外の存在だ。鱗はあらゆる魔法を拒絶し、その息は城壁さえも溶かしてしまう。
ゆえに、竜は群れず、単体で行動する。それでもひとたび姿を現せば国家規模での対処が必要とされる最強種、それが竜種だ。
そんな竜でさえ傅く主君がここには存在する。
屍の竜は首をもたげ、主の命令を待つ。
魔法による強制ではない。身体の半分が腐れていても彼には知性がある。その知性でネルガルを主と認めていた。
そも、山中にある門から竜を呼び出したのは、ネルガルだ。念話でもって彼に合図を送り、この戦場へと招聘した。目の前の敵、その最後の希望を跡形もなく打ち砕くために。
それは必勝を期すという決意の表れであり、ここまで持ちこたえた敵への慈悲でもあった。
これまでの数時間、ネルガルは休まず攻勢を続けながら、敵の限界を探っていた。
いかな防御を持ち合わせているのか、どのような反撃手段を備えているのか、どれほどならば持ちこたえることができるのか。
それらをすべて誤りなく裁定したうえで、ネルガルは最強のしもべを呼び寄せた。
無論、このまま屍たちだけで攻勢を続けても灰稜軍団の勝利は揺るがない。
揺るぎはしないが、敵の抵抗は強固だ。おそらく最後の一人まで抵抗をやめないだろう。魔力炉を暴走させて自爆でもされては灰稜軍団にも無視できない損害が及ぶ。
であれば、一撃で全てを打ち砕くのみ。
圧倒的な力の前には決意も覚悟も脆いものだ。竜という絶望を前には古代の遺産でさえ有象無象に過ぎない。
”――滅せよ”
王命が下る。それに応えて、屍の竜はその顎を開いた。
膨大な魔力が渦巻き、うねり、収束する。空間さえもゆがむほどの熱量が一点へと凝縮されていく。
鈍い輝きと共に竜の顎に、暗黒の太陽が顕現した。
竜の号砲・屍。竜種にのみ使える戦技にして、その脅威の象徴だ。
そうして、太陽が放たれる。暗黒の光線は夜空を割き、轟音と共に多重結界へと着弾した。
世界そのものが悲鳴を上げたかのような怪音がすべての音を呑み込む。次の瞬間、あれほど強固だった多重結界が跡形もなく砕け散った。
そのまま光線は鍛冶場の上部へ。山肌を容易く貫き、ヴィジオン山脈有数の霊峰に取り返しのつかない大穴を穿った。
展開されていた魔法陣が消えていく。竜の号砲の直撃を受けて、鍛冶場はその機能を停止したのだ。
これで決着だ。
もはや、山猫族に抵抗する力はない。例えまだあきらめないものがいたとしても、非力な彼らでは灰稜軍団に損害を与えることはできない。これ以降は戦いそのものが成立しない、それだけの戦力差が彼らの間にはあった。
”大人は根絶やせ。子らは捕らえよ”
なおも、容赦なく王は号令を下す。無数の屍たちが山の王の鍛冶場へと殺到した。
前回村を制圧した時は、抵抗したものを除いて捕虜を取った。人間界の情報を得たうえで、あわよくば生きた手駒を手に入れようという策だったが、今は別の目的がある。
玉座にかけたネルガルの指、骨だけになったそれに力が籠る。
数百年の年月を経ても、大願へと掛ける思いは薄れることはない。それどころか、年月を経れば経るほどより強く、硬く磨かれていく。ありし日を取り戻すという願いは、妄念へと姿を変え、今や一種呪いにさえ転じていた。
ネルガルはそれほどまでに諦めを知らない。彼が王である限り、決して覚悟が揺らぐことはない。
そして、諦めを知らぬものがこの戦場にはもう一人。
鋼の馬が空を駆ける。空中に展開した魔力の足場を踏んで、はるか天空へ。
最高高度に達した瞬間、騎手が手綱を放す。己のものではない剣を手に身を躍らせた。
剣閃が奔る。落下の速度をも味方につけた一撃は、たとえ巨人でさえも屠るだろう。
その一撃をネルガルの魔力障壁は容易く受け止めた。
”――ほう”
ネルガルは黒色のバールの向こうに、不遜な襲撃者の姿を見る。
その異様に、ネルガルは感嘆と歓喜の声を洩らした。予測が確信に変わった瞬間だった。
王に手向かったのは満身創痍の一人の騎士。全身から血を流し、息も絶え絶えなその騎士は幾千にも及ぶ屍の群れをたった一人で突破したのだ。
ラグナ・ガーデン。この戦場においてただ一人の生者であり、ネルガルが敵と認める唯一の存在だった。
◇
「――っ!!」
ラグナは魔力障壁を蹴って、ギガントキメラの背に降り立つ。思わず崩れそうになる膝を意志の力で支えた。
屍の竜を見た瞬間、ラグナはこの玉座に向けて突撃を敢行した。
手遅れになる前に敵の首魁を打つ。それだけがこの状況を覆す唯一の方法だと判断したがゆえだ。
だが、それすらも手遅れだった。
竜の号砲は多重結界を貫き、鍛冶場そのものを破壊してしまった。こうなっては夜明けまで耐え抜くなど到底不可能。それどころか、マオを含めた村人たちの生存は絶望的だ。
己に竜を止められるだけの攻撃力があれば、あの一撃を受け止められるだけの防御力があればこんなことにはならなかった。ならば、せめてものこと、最期まで――、
そんな怒りと決意がラグナを玉座に導いた。途中幾度となくHPが0になったが、もはやラグナはそのことを意に介してさえいない。
抜くことのできぬ聖剣を構え、ラグナはネルガルと向かい合う。理性では圧倒的なまでの力の差を認識しているが、闘志はなおも軒昂だ。
それに圧倒的な差を覆すのはこれが最初ではない。ラグナの中にはそんな自信が芽生え始めていた。
決して敵を侮っていたわけではない。だが、直後に起きた現象はラグナの自信を粉々に打ち砕いた。
”跪け”
ネルガルがそう声を発した瞬間、ラグナは膝を屈していた。全身にのしかかる重さ、自分の体重の何十倍というそれに立っていることさえできなかったのだ。
膝を屈しているのはラグナだけではない。周囲一帯の屍は地面に沈み込み、王の乗騎であるギガントキメラさえも大地に縫い付けられていた。
発動した魔法の名は重力の雨。人間でも扱える程度の魔法で、通常なら相手の素早さを下げる程度の効果しかない。
だが、ネルガルほどの魔力の持ち主が扱えばもはや別物ともいえるほどの効果を発揮する。しかも、正式な詠唱を破棄したうえでだ。
ラグナは改めて敵の強大さに舌を巻いた。これほどの存在に勝つなどと考えていた自分の愚かさに怒りさえ覚えた。実際今は戦うどころか、指一本動かすことさえ不可能だ。
”――虫食い、面を上げよ”
魔法の威力を一切緩めぬまま、ネルガルが言った。死の王はラグナを試していた。
それを感じ取ったのか、ラグナの反骨心に火が点る。どうにか顔を上げ、ネルガルと向かい合った。
「……虫‥…食い?」
”そうか。お前たちは忘れ去ったのか”
ラグナの疑問に、ネルガルは独り言のように声を漏らした。そこに悲しみも似た感情が籠っていることにラグナは気付いた。
”騎士よ。お前は理から外れたのだ”
ネルガルは懐かしむように、そう宣告した。目の前の敵に語り聞かせるようなそんな口ぶりだった。
”己でもわかっているのだろう? HPが0になっても肉体は死を迎えず、成長限界に達してなお能力値は成長を続ける。それはすなわち、忌まわしき神々の頚木から脱したことを意味する。お前はこの世界にとっての忌子となったのだ”
ネルガルの言葉をラグナは完全には理解できなかった。しかし、ずっと抱えていた疑問が納得に変わるのを感じた。
何かが違う、何かが噛み合わない、何かが間違っている。その何かが己の身に起きているこの現象そのものなのだとしたらーー、
”そのようなものを古くは、虫食いと呼んだ。世界に空いた孔、理を壊すものとしてな”
ラグナの心を掌で転がしながら、ネルガルは己が大願へと手を延ばす。肉のない指先が救いの糸のように差し出された。
”そんなお前の力こそが我らには必要なのだ。虫食いよ、我らを救ってくれ”
動けぬラグナの心に、ネルガルの声が響く。
彼の願いは千年前から何も変わっていない。
故国を取り戻す。民を、領土を、世界を再建する。そのためならば、魔王でさえも裏切り、今のすべてを引き換えにする。それがネルガルという王だった。