第三十話 もう一つの戦場
マオは休む間もなく、走り続けていた。
彼女の両手には食料をいっぱいにいれたバスケットとスープの入った鍋。重たくて腕がちぎれてしまいそうだが、それでも堪えて懸命に走った。
食事の運搬。それがこの戦におけるマオの役割だ。成人してもいなければ、料理への適性を持たない彼女にできることはこれしかなかった。
何度も転びそうになりながらも、マオは目的の場所へとたどり着く。
鍛冶場の中心部にある大広間。広間の外周には奇妙な椅子がいくつも並んでおり、薄緑色の光を放っていた。
会議や舞踏会の会場のようにも見えるが、実際にはここも戦場だ。
戦っているのは山猫族の大人たち。椅子に座った彼らは青色吐息で、皆一様に断食でもしていたかのように頬こけていた。
「追加持ってきたよ!!」
マオが叫ぶと同時に、疲弊しきっていた大人たちが食べ物に群がる。パンを掴むと、のどに詰まらせそうな勢いで掻き込んでいった。
そんな彼らをしり目に、休んでいたものたちが代わりに椅子に座る。彼らも限界が近いが、泣き言を言っている暇はない。数秒でも攻撃が途切れれば作戦が破綻してしまう。
山の王の鍛冶場は、その機能の約半分を残していた。
つまり、半分の機能は喪失していた。その中の一つにして、最も重要な機能がこの鍛冶場全体を統括する人工精霊だ。
本来であればこの鍛冶場において魔力路の出力調整をはじめとしてあらゆる複雑な計算を人工精霊が代行する。そうすることで、この複雑かつ強大な機械を十全に稼働させるのだ。
いわば、頭脳だ。これを欠いていてはそもそも動くことさえままならず、魔力砲も結界も維持できない。
だが、今はその頭脳が欠けている。それを補うためにバルカンは奇策を講じなけれならなかった。
山猫族たちの脳を連結することで、精霊の役割を代行する。魂を燃料にして、この鍛冶場に火を入れるのだ。
計算上では十人分の脳を念話でつなげば十分に可能だが、そこには代償が伴う。
肉体の消耗と精神の摩耗。わずか数分間で大の大人が無残にやせ細るほどの負担が生じてしまう。そのままMPが尽きれば二度と目覚めることは二。
それらの負担を少しでも補うために、マオはこうして食事を配っていた。
山猫族の知恵を総動員した滋養強壮スープに、一つ一つの効果は薄いもののあらゆる回復効果を付与したパン。炊事場では、今も若い娘たちが総出で料理をしている。
その甲斐あってか、今のところ死者は出ていない。山猫族はどうにか持ちこたえている。
しかし、それも時間の無駄だ。倒れこんだまま動けなくなるものが少しずつ増えている。椅子に座るものがいなくなればそれだけで山猫族は終わりだ。
「水とスープもあるよ! 詰まらせないように! あ、こら、喧嘩するな! お代わりはあるから!」
大人たちの喧騒に負けじと声を張り上げるマオ。一人分の食事を確保すると、広間の最奥に向かった。
そこには玉座がある。もっとも重要で、もっとも負荷の大きなその場所にはバルカンが座っていた。
「おっちゃん! まだ生きてるよな!?」
「うむ……」
バルカンはすっかりやせ細り、老け込んでさえいる。何度か咳き込むと、気怠そうにうめいた。自慢の大声も今は鳴りを潜めている。
そんなバルカンの口にマオはスープを流し込む。意識がはっきりしたのか、窪んだ双眸に光が戻った。
のっそりとパンを掴むと、ゆっくりと噛んでようやく呑み込んだ。
個々の計算は山猫族たちで代行できるが、それらの総括と実際の機能行使はバルカンにしかできない。
この鍛冶場の機能とその理論を正確に把握しているのは彼だけだ。ましてや、交代時に生じる僅かな空白もバルカンが補填しているのだ。その負担たるや山猫族たち十人分の負担に相当する。ドワーフ族の頑丈さとバルカン自身の類稀な頭脳がなければとうの昔に衰弱死していただろう。
「それで、外の様子は? ナナシの兄ちゃんは無事なのか?」
「………なんとか持ちこたえておる。だが――」
そこまで口にしたところで、バルカンは酷く咳き込む。外の状況もそうだが、彼自身も限界が近かった。
「――状況はよくない。結界にたどり着く死体がどんどん増えてやがる。このままじゃもたんかもしれん」
「そん、な……」
バルカンの報告に、マオは思わず手に持っていたバスケットを思わず取り落としそうになる。足が震えて、途端に立っていることさえおぼつかなくなった。
まるで、操り人形の糸が切れたようだった。張り詰めた糸ほど簡単に切れてしまう。
この鍛冶場に逃げ込むことを提案したのは、ほかならぬマオ本人だ。これが最善だと、村を救う唯一の方法だと信じて、彼女は己の意見を押し通した。
もちろん、実際の責任は彼女の意見を採用した村の顔役たちや後押ししたラグナ、バルカンにある。
だが、心理的な責任は別だ。自分を責めるなといっても無理がある。
ましてや、自分が何の役に立てていないと思い込んでいる今の状況ではなおさらだ。
「……オレ」
それでも、マオは加護を落とさなかった。ふらつく足を叱咤して、弱気をかみ殺すように唇を噛んだ。
涙を流すのも、自分を憐れむのも、死ぬ直前でいい。今はまだ生きている。ならば、生きている間は生きている間しかできないことをすべきだ。
そう覚悟を決めて、マオは顔を上げる。目じりから涙がこぼれるが、それでも瞳には力があった。
「オレ、必死で飯を運ぶよ。それがオレにできることだから」
決意と共にマオは走り出す。例え雀の涙ほどの貢献でも彼女は己の役目をおろそかにはしない。だからこそ、彼女は一度は山猫族を救ったのだ。
「……まったく、これでは休めんな」
そんなマオの背中を見て、バルカンの瞳にも力が戻る。
若い者、それも年端のいかぬ子どもが諦めていないのだ。年を重ねた己が先に音を上げるわけにはいかぬ。そんな意地が彼を支えていた。
鍛冶場の最深部、十二基の魔力炉心が最大稼働する。ここで焼き切れれても構わないと出力のタガを外したのだ。
戦場に展開していた魔法陣が輝きを増し、回転を始める。精度を犠牲にして、威力と速射性を高めたのだ。
これならば防御力の上がった生ける屍でも撃退できる。結界にたどり着く敵の数は半分ほどにまで減少した。
もちろん、バルカンへの負荷も当然大きくなるが、彼はすでに覚悟を決めている。幼いころから夢にまで見た山の王の鍛冶場で死ねるのなら本望でさえあった。
「――っぅ」
痛みと疲労をバルカンは歯をくいしばって耐える。二百五十年の人生でこの程度の危機は何度でもあった。今更この程度を耐え抜けずして、なにが『天槌』か。
百年前、バルカンは冒険者だった。それもただの冒険者ではない。勇者の仲間として選ばれるほどの実力者だった。王国が亜人種を締め出すまでは彼はドワーフの『英雄』だったのだ。
その誇りは今も彼の胸に輝いている。夜明けまであと二時間、彼がその誇りを忘れぬ限り、この鍛冶場に火が絶えることはない。
「お、オレたちも……!」
「そうよ、山猫族は最期までしぶとい……!」
そんな二人の姿に、疲弊しきっていた山猫族たちの心に再び炎が点る。倒れこんでいた者たちは急いで食事を口に押し込み、次の出番に備えた。
◇
夜明けまであと一時間。もっとも空が暗くなるその時に、それは現れた。
あらゆる希望を吹き消すように、巨大な翼が天を覆う。
その翼こそがあらゆる魔物の頂点に立つ竜種の一種にして、生けるものにして死せるものたるハーフアンデット。
屍の竜。最悪の脅威が宵闇の空を飛んでいた。