第二十一話 恋煩い
誰かのことが頭から離れないというのはユウナギには初めての経験だった。
食事をするときも、鍛錬をしていても、眠っている時でさえも、ラグナのことが頭から離れない。
今のどこで何をしていて、何を考えていて、どんな気持ちでいるのか。そして、自分のことをどう思っているのか。そんなことを考えずにはいられない。
しかも、ラグナことを考える度に、ユウナギの心は今までにないほどにかき乱される。ラグナが自分に好意的だと思えばそれだけですべてが輝いているように見えるのに、嫌われているかもしれないと思うとなにもかもが色あせてしまう。目の前に本人がいるわけでもないのに、感情のすべてを左右されるなど思ってもみないことだった。
どうしてそうなるのかユウナギにはどうしてもわからない。それを解消するために慣れないことをして、ラグナとリエルの跡をつけた。
だが、四日経っても答えは出ず、今もユウナギは空想のラグナに対して一喜一憂している。いっそのこと寝首を掻いてすっきりしてやろうと思うこともあったが、後悔するとわかっていることをやるほど彼女は愚かではない。
塵を掃く箒にも力が入らない。教会の灰色の床は一向に綺麗になった気がしなかった。
本当ならば街に向かったラグナの後を追いたいが、ここを守ってくれと頼まれてしまった。普段なら無償の依頼など開口一番で断るが、ラグナの頼みだと思うとどうしても否とは言えなかった。
こうして聖堂の床を掃いているのはその一環だ。この教会の主であるシスターにただ突っ立てるのは邪魔だからと押し付けられたのだ。
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。何かに迷うというのがこれほどまでに辛いとは思ってもみなかった。
ラグナの側にいたいと思う反面、そうしたくないとも感じている。もし嫌われたら、もし拒絶されたら、そんなことを考えると一歩も動けなくなる。
そして、ユウナギには自分がなぜ悩んでいるのかさえわからない。彼女にとってはそのなぜこそが問題だった。
怒りは理解できる。蔑みは知っている。憎しみは常にある。
だが、今己のうちに渦巻く感情はユウナギにとって初めてのものだった。
考えても考えても、答えが出ない。己の心に説明がつかず、箒を握る手に思わず力がこもった。
バキリ、という乾いた音。ユウナギの手の中で木製の箒が粉々に砕けていた。
「……面妖な」
箒のかけらを見て、首をかしげる。確かにステータス上のユウナギの筋力は限界地である999だが、こんな風に何かを握り砕くことは今までなかった。
これもまたラグナに出会ってから起きた変化の一つだった。
「ュ、ユウナギさん、大丈夫ですか?」
「……ええ、大事ありません」
リエルに声を掛けられて、ユウナギは木片を捨てる。秘め事を見られたような気恥しさがあった。
「リエル、その着物は?」
「そ、その、シスターさんがあのボロは洗うからって……」
リエルは真新しい服を着て、髪もきれいに整えられていた。
ユウナギと同じようにリエルもこの孤児院に居残りだ。
当然と言えば当然だ。リエルに戦闘能力はない。連れて行っても足手まといにしかならないだろう。
だが、自分は違う。自分ならばラグナの役に立つことができる。そうすればきっと――、
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「……おそらく」
再びリエルに話しかけられて、ユウナギは自分の思考に気付き、困惑した。
誰かのために力を使おうと考えたのはいったいいつ以来だろうか。ましてや、自分の力で誰かの歓心を買おうと思うなんて初めてのことかもしれない。
自分が自分でなくなっていくような感覚。ラグナと関わって以来、それまでの自分が崩れていくのをユウナギは感じていた。
「ユウナギ、少し此方へ」
見計らったように、シスターの声が二階から響いてくる。当然のように顎で使われているが、不思議とユウナギはそのことを不快に思ってはいなかった。
同時にユウナギはシスターに対して不信感をぬぐえないでいた。
歩き方や気配は間違いなく強者のもの。それも星の冒険者であるユウナギをして脅威と感じるほどだ。レベルや職業については隠蔽されているが、そもそもこの辺境でそんな細工をしていること自体が怪しい。
「……何か御用でも?」
ゆえに、ユウナギは安易に部屋に入ることはしなかった。ドアから半身になってなついていない猫のような姿勢で、声をかけた。
そんなユウナギを見てもシスターは顔色一つ変えない。長年孤児院を経営しているおかげか変わり者の相手は慣れていた。
「少し話がしたいのだ。そなたとバカ息子について」
シスターの口からラグナの名前が出た瞬間、ユウナギは凍り付いた。
なぜバレた、ユウナギの顔にはそう書いてあった。続けて耳まで真っ赤になった。
「……茹蛸だな」
シスターが言った。こみ上げる笑いをどうにかこらえていた。
彼女としてはただ息子との関係について尋ねようと思っていただけなのだが、こうもわかりやすくては聞く意味がない。
「……まあ、ラグナからおおよその話は聞いている。そなたは味方と思っていいな?」
咳払いをしてからシスターは尋ねた。
シスターにしては珍しいどこか探るような、自信なさげな物言いは、彼女が色恋こそがあらゆる物事を複雑にする源だと知るがゆえだ。好いているからといって背中から相手を刺さないとは限らない。
「それは……」
そんなシスターの経験を裏付けるように、ユウナギは言葉に詰まる。ラグナに対する感情さえ不確かなのに、敵か味方など判断しようがなかった。
「……あなたの問いに答える必要が?」
「ない。が、一人で思い悩むのにも飽きたころだろうと思ってな」
すべてを見透かしたようなシスターの物言いに、ユウナギは意固地になりかける。ラグナに出会う前はいつでもそうしてきたように邪魔な相手は刀で切り伏せてしまおう、と。
けれど、別の感情が彼女を押しとどめる。その感情の正体を知ることができるなら、誰かに心をさらけ出してもいい。
同じくシスターも頭を悩ませる。慎重に質問を選んで重々しく口を開いた。
「……ラグナが憎いか? 殺したいと思うことは?」
「時々……」
「時々か」
ユウナギの答えにシスターは「なるほど」と頷く。
「では、あやつの側にいたいと思うことは?」
「…………たぶん、いつも」
ユウナギは躊躇いながら言った。
口にするのにはひどく抵抗感があったが、一度言葉にしてしまうと肩が軽くなったように感じる。ユウナギには初めての経験だった。
「問題は、なさそうだな」
そんなユウナギを見て、シスターは満足げに頷く。
彼女の経験上、迷っている間は危険性は低い。覚悟を決めるまではラグナを後ろから刺すことはないだろう、とシスターは結論付ける。もし、仮にそうなったとしてもそれくらい切り抜けられなければこの先どうにもならない、という母心もあった。
「お前に頼みたいことがある」
「……無料の依頼は受けません」
「報酬はある。頼みを聞いてくれたらラグナの弱みを話してやろう。それに、ここで呆けているよりは気持ちも晴れる」
「……………いいでしょう」
しばらく悩んでからユウナギは承諾した。
自分の感情の正体が婉曲的な殺意であれ、ほかの何かであれ、ラグナの弱みを知りたいという欲だけははっきりしていた。
「では、街でラグナを見つけて連れ帰れ。あれは放っておくと一人で行ってしまうのでな。抵抗するだろうが、そなたには容易かろう」
願ってもない依頼にユウナギの瞳が輝く。ロクに返事もせずに、鼻歌を歌いながら教会から飛び出していった。
「……やはり、あれは変な輩にばかり好かれるな」
そんなユウナギを見送って、シスターは一人ため息を吐く。いったい誰に似たのやら、そんな分かりきった問いは静かに呑み込んだ。望むと望まざるにかかわらず、子は親に似るものだ。
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