第十八話 母
ラグナは大怪鳥の丸焼きをすさまじい速度で平らげた。
幼いころは数切れもかじれば満腹になっていたが、今は食べれば食べるほど食欲が増していくようだった。
これまで抑えてきたものが爆発したような、そんな感覚だった。
そうして、食べれば食べるほどにラグナは自分が満たされていくのを感じた。
指先まで血が巡り、全身に力がみなぎる。しばらくまともな食事から遠ざかっていたとはいえ、明らかに以前とは違う。なにかがおかしい。
ラグナは半ば反射的に、自分のステータスを呼び出した。
やはり、能力が上昇している。しかも、これまでのような微増ではない。各数値が少なくとも二桁以上は上昇している。順当なレベルアップでこれほどの能力向上を実現するには、少なくとも10はレベルを上げなくてはならない。平均的な冒険者なら5年は掛かる難行だ。
特に上昇が顕著なのは、筋力、体力、生命力の三つだ。前回までとは別物といってもいい。
考えた結果、ユウナギとの戦闘が原因だ、とラグナは結論付けた。なぜ食事と同時に能力が上昇したかは不明だが、ほかに考えられない。
激戦を経る度に能力値が上がるというなら、ユウナギとの決闘はこれ以上ないほどの激戦だった。
「手が止まっているぞ、ラグナ」
「あ、はい」
巨大な手羽先にかじりついたシスターにうながされ、ラグナは肉塊を口の中に放り込んだ。
自分の身体がどうなっているかについては考えるだけ時間の無駄だ。時間を無駄にするくらいなら食事に専念すべきというのが、ラグナの出した一応の結論だった。
「……満足したか?」
むね肉を平らげたのを見計らって、シスターが聞いた。彼女にしては珍しく、声の調子に探るような響きがあった。
ラグナが頷くのを見て、シスターも満足げに頷いた。
「お前はこれが好物だったからな」
「…………あ、ああ、まあ」
リエルは満腹になって火の側で眠っている。ユウナギは相も変わらず姿を隠したままだ。
「ロンドも、そうだったな」
シスターが漏らした言葉に、ラグナは無言で頷いた。
思い出が瞼の裏に蘇る。こうして火を囲むときはいつでもラグナの隣にはロンドがいた。
「……どんな最期だった?」
「…………安らかではあった」
ラグナは生まれて初めて嘘を吐いた。どんな時でも誠実にあろうとしてきたが、この瞬間だけはそうすべきだと感じていた。
「……そうか」
シスターはラグナの嘘を受け入れる。息子のやさしさを無為にすることは彼女にはできなかった。
実際のロンドの最期は痛みに満ちていた。胸に空いた傷はふさがらず、ロンドは言葉を満足に言葉を発することさえできなかった。
突然の、あまりにも突然のことだった。
天から降りた光の環。
歌うような甲高い音。
頬に当たった血の雫。
肉の焼ける匂い。
何もかもを鮮明に思い出すことができる。気を抜くだけで感覚のすべてをその瞬間に呑み込まれそうなほどに。
だというのに、仇の正体が何一つとしてわからない。ラグナにとってはその事実がほかの何よりも耐え難かった。
「……ほかの二人はどうした? たしか魔法使いと僧侶がいたはずだ」
「あの二人は……わからない。別れを告げるにも迷惑にしかならないから、黙って出てきた」
勇者の仲間はラグナも含めて三人だった。
大魔道院の天才と聖剣教会の僧侶。同じ釜の飯を食べ、命を預け合った仲間たちの行方はようとして知れないままだ。
ラグナ自身二人を探そうとは思っていない。この選択をした時点で誰も巻き込むまいとそう決めていた。決めていた、はずだった。
「……シスター、子供たちは」
己を責めるように、ラグナは尋ねた。
普段ならこの孤児院には子供の気配が満ちている。今はそれが感じられない。
「西の方の知り合いの施設に預けている。子どもたちを育てるには、ここはすこし物騒になりすぎた」
ラグナはそれを己の咎だと考えた。
この孤児院がラグナとロンドの故郷であることは王国にも冒険者ギルドにも知られている。追手が真っ先に探すのはこの場所のはずだ。
「……すまな――」
「お前のせいではない。お前を追ってきた連中など物の数ではないわ」
反射的に謝罪を口にしようとしたラグナをシスターが制する。
「原因は三年前の反乱だ。あのバカな王子が土竜どもに鉱石税を課すなどと言い出さなければもう少しましな状況だったはずだ。少なくともあれ以前は魔物に対しては連帯できていたからな」
東部辺境領で内乱が起こったことはラグナも知っている。旅の途中で引き返すこともできずロンドと共に歯がゆい思いをしたことを覚えていた。
しかし、そこまで深刻な影響が出ているとは思ってもみなかった。
「山にはもう入れん。冒険者ギルドの連中も交易が途絶えて久しいと聞く。そのうえ、最近は魔物どもも騒がしい。この大怪鳥など街道の上を飛んでいた」
大怪鳥は本来、山脈地帯に住まう魔物だ。通常、地上の魔物が自ら生息地を離れることはない。
それが平地の空を飛んでいたとなれば、何らかの異常が発生しているとみるべきだ。
おそらくは、斥候。魔軍の手による偵察行為だ、とラグナは結論付けた。
「……オレが何とかする」
当然のことのように、ラグナが言った。
故郷の危機を見過ごすことはできない。今度こそ自分たちが、もしロンドが生きていれば必ずそう言うはずだ。
「それは、ロンドの代わりに、か?」
そんなラグナの心中をシスターは見通している。
シスターにとってはどれだけ成長してもラグナは己が子だ。その心の内など何のスキルを有していなくても察することは簡単だった。
「おまえのことだ。ロンドに誓ったのだろう。お前の代わりは己が務める、と。それがゆえに聖剣を盗み、人界を敵に回し、一人で魔軍と戦った」
シスターはそこで言葉を切った。
瞼を閉じ、唇をかみしめる。息子の辿った道が、これから彼を待つであろう運命が彼女の心をいばらのように締め付けていた。
「お前は頑なすぎる。ロンドとてお前に呪いを残したかったわけではあるまい」
「…………わかってる」
「自分の限界を考えろ。お前は決して才あるものではない。現にあの娘を巻き添えにしているではないか」
シスターの視線はリエルに向いている。ラグナを責めているようでもあり、諭しているようでもあった。
「その道を行く限り、もっと大きな苦難がお前を待っている。幾度も選択を迫られ、その結果を突き付けられる。後悔と慚愧がついて回ることになるぞ」
シスターの横顔に憂いが浮かぶ。瞳は潤み、声は震えていた。
ラグナはそんなシスターの顔を初めて目にした。ラグナの中のシスターはもっと強く、頼もしい顔をしていた。
ラグナの胸を後悔が満たす。この人にこんな顔をさせてしまった、そう思うだけで膝を屈してしまいそうだった。
誓いなど捨ててしまえ、そんな声が頭の中で響く。
ラグナはそれでも前を向いた。リエルをじっと見つめ、言葉を発する。
「オレは、それでも進む。たとえ結果が間違っていても、なにもしないで諦めたくない」
声には決意と覚悟が満ちていた。背負う命のを重さを理解したうえでの、宣言だった。
「……そうだったな。お前は昔からそうだった」
そんなラグナにシスターは静かに頷いた。どんな道を行くとしてもそこに伴う後悔さえも抱えていけるなら心配ない、そう彼女は安堵した。
もし、覚悟ができていなかったのならシスターは力づくでもラグナを止める気だった。それができるだけの力が彼女にはあったし、その方がラグナのためだという確信もあった。
だが、ここまで決意が固いのならばほかに道はない。恨むものがあるとすれば、それは息子が自分に似てしまったという当然の結果だけだ。
「……リエルは私が預かろう」
「すまな――」
「謝るなと言った。親として子を助けるのは当然の義務だ。だが、ふむ、真っ先にここに帰ってこなかったことは許しておらぬからそのつもりでな」
シスターはそう言ってほほ笑むと、リエルに歩み寄り、抱え上げる。そのまま「部屋は好きに使え」とだけ言い残して、教会の奥へと去っていった。
残されたラグナは一人、己の不甲斐なさと母の優しさをかみしめていた。
情けなくもあり、喜ばしくもある。だからこそ、止まれない。もうこれ以上失わないためにラグナにできることはそれだけだった。