第十二話 門
魔界の門は階層の最奥に鎮座していた。
門の間は棺の間よりも更に広く、町一つがすっぽり入るような巨大な空間だった。
門の周辺には青鱗兵団の臨時の野営地が築かれている。幾何学的なダンジョン内部に小さなテントが立ち並ぶ光景は奇妙な取り合わせではあったが、一方でどこか馴染んでいるようでもあった。
野営地には兵士たちが仕留めたであろうコカトリスが火にかけられていたり、血まみれの鎧の山ができていたりと異常なまでの生活感がある。
人間の軍と何も変わらない。ラグナの脳裏にそんな考えが過った。
野営地に残った守備隊は抵抗らしい抵抗もできずに、ラグナに蹴散らされた。
十人足らずが倒れたところで大半の兵士たちは逃げ出し始める。ラグナはあえて彼らを追おうとは思わなかった。
門は長大な裂け目の形をしていた。
裂け目の両端はダンジョンの床から天井までを繋いでいる。その大きさたるや一つの山にさえ匹敵するほどだ。
裂け目の向こうには、紫色の空が広がっている。漏れ出た瘴気が周囲の空気をよどませ、世界そのものが侵食されているかのようだった。
ダンジョンの入り口だった黒い穴にも似ているが、あれとは大きさもその侵食の強力さも比較にならない。
ラグナは直感的に門の向こうが魔界だと理解した。魔物たちの故郷、太陽の失われたこことは違う世界なのだと。
あの場所に近づいてはいけない、ラグナの本能がそう叫んでいた。
それでもラグナは素早く門へと近づいていく。門が大きすぎて遠くからでは要石の位置を確認できなかった。
魔界の門が開くには、必ず門の核となる要石が必要となる。
人界と魔界の間には神々の張った隔絶結界が存在する。通常この結界を破って二つの世界を行き来することは不可能だ。
しかし、結界に影響を及ぼすほど強大な魔力を帯びた何らかの事物があれば穴を穿つことができる。
それが要石であり、そこから生じた結界の裂け目が『門』の正体だ。
つまり、要石こそが門そのものともいえる。
裂け目である門自体を破壊することはできないが、要石か、あるいはそれを祭る祭壇を壊しさえすれば門を閉じることができる。勇者ならば聖剣を用いて裂け目そのものを破壊するという方法もあるが、ラグナにそれは不可能だった。
まっすぐに進み、門まであとわずかという距離にまで迫る。
そうして、祭壇に置かれた要石を目にした瞬間、ラグナは呼吸さえ忘れた。
要石となっていたのは、一対の籠手だった。
オリハルコンの黄昏のごとき輝き、手甲に刻まれた稲妻の紋章。見間違いようがない、勇者にのみ許される固有装備『星光の籠手』だ。
「……どういうことだ? なぜあれがここにある?」
動揺と困惑に、初めてラグナの足が止まった。
『星光の籠手』はほかの装備と共に王都ガレアンの大聖堂に安置されているはず。こんな辺境のダンジョンの中枢部で要石になることなどまずありえない。
考えられるのはラグナが今も背負っている聖剣のように誰かが持ち出したという可能性だが、だとしてもなぜ魔軍にわたりこうして要石になっているのかがわからない。
「……いや、今はそれより」
思考の迷路に入り込みそうになり、ラグナは己を戒める。
今は考えている場合ではない。
兵士たちの話では今日中に青鱗兵団の軍団長がこの門をくぐって人界へとやってくる。そうなれば門を閉じるどころではなくなってしまう。
魔軍の軍団長ともなればそのレベルは100以上は確実だ。ラグナ一人ではとても太刀打ちできない。
祭壇を一息に駆け上がり、ラグナは『星光の籠手』へと手を伸ばす。
「――ッ」
しかし、強力な魔力の渦に指先が弾かれる。籠手に秘められた魔力が志向性を持ち、要石を守っていた。
突破には結界破りの戦技か、魔法が必要だ。無理に触れようとすれば強力な魔力にHPを削り取られ、最悪死に至るだろう。
「…………仕方がない」
それを承知の上で、ラグナは覚悟を決めた。
もう猶予はない、と全身の細胞が告げている。目の前の門の向こうにある強大な気配。そのあまりの強さに忘れかけていた恐怖がよみがえった。
ラグナが恐れているのはただ一つ。友との誓いを守れないことだ。
目の前の存在が人界に現れれば、数えきれない人間が死ぬ。それでは誓いを守ったことにはならない。
深く呼吸し、ラグナは両腕を魔力の渦に突っ込んだ。
「――っぐぅぅぅ!!」
瞬間、激烈な痛みがラグナを襲った。両腕の神経をむき出しにされ、ナイフで切り刻まれるような激痛だった。
5000以上あったHPが一瞬で一桁まで減少した。
そうして、死《0》へと至る。この世界において絶対の結末がラグナにも訪れた。
だが、ラグナは死ななかった。|HPが0になったはずなのに《もう死んだはずなのに》ラグナはまだそこに立っていた。
死したはずの身体で、ラグナはなおも籠手へと腕を伸ばす。
指先が炭化し、痛みに何度も気絶しかけながらもラグナはあきらめない。体はとうに限界を超え、強固な精神が彼の行動を支えていた。
焼けただれた両手が籠手を掴む。僅かな抵抗の後、『星光の籠手』は祭壇から外された。
膝をつくラグナ。呼吸は荒く、今にも肺が裂けてしまいそうだった。
「……まるで化け物だな」
生と死のはざまでラグナは、己の異常性を改めて自覚した。
今度こそラグナは己の死を認識した。だというのに生きている。その矛盾が彼の心に重くのしかかった。
「――オオオオオオオオオオオオ!!」
断末魔のような轟音があたりに響いた。
門の向こうで現界を待っていた何者かが叫んだのか、あるいは門そのものが上げた悲鳴だったのか。その無念の響きに、ラグナは自分が役目を果たしたことを悟った。
要石を失い、門が崩れていく。空間が一点へと収束し、周囲のものを引き寄せ始めた。
崩壊は連鎖し、ダンジョン全体へと及ぶ。天井全体に罅が入り、崩落が始まった。
「……まずいな」
ラグナは籠手を引き寄せ、立ち上がろうと足を踏ん張る。
だが、揺れと疲労が相まって体を支えることができない。何度も起き上がろうとするが、最後には倒れこんでしまった。
体力の限界だ。ラグナはもう指一本さえ動かせなかった。
「……押しつぶされても死なないといいんだが」
崩れていく天井を見上げて、ラグナは笑う。やれることはやった、という達成感があった
ここで死ぬのも悪くない、そんな諦めがラグナを誘惑する。それに抗う間もなくラグナの意識は再び途絶えた。