第百五話 動機
ガレアン城の地下には、誰も寄り付かない地下牢がある。長く使われることのなかった牢屋には埃が溜まり、壁の隙間から入ってくる空気はひどく冷たい。
およそ、人の住まう場所ではない。ましてや、人を待つ場所としては最悪と言えた。
その地下牢の一室で、ラグナは深く息を吐いた。
白くなった呼気が見えなくなるたびに、思考が鈍る。今度ばかりは簡単には迷いを振り切れそうになかった。
「前から言おうと思っていたのですが――」
不機嫌さを隠すことなく、ユウナギが言った。今回ばかりは、隣にいるベルナデットやシスターも頷いた。
「貴方はお人よしが過ぎます。あの姫にここまで手を貸す理由はないでしょう」
「そうね。わたしも贔屓が過ぎると思う」
「まあ、勇者の中立には反しているだろうな」
三者三様に責められ、ラグナはばつが悪そうに眉をひそめた。
こう言われることは承知の上だが、反論は浮かばなかった。
「ほかに、方法ないだろ。このままじゃ数えきれない数の人が犠牲になる」
「戦えば死ぬのはクザンの兵とて同じでしょう。誰が相手でも助けるのが、勇者の使命のはずでは?」
「それは……そうだが……」
「歴代の勇者はそんなことは気にしていないがな。結局、お前も同じ轍を踏んだというわけだ」
「なんだかんだ、貴方もこの国出身だし、そこは仕方ないんじゃない?」
三人に責められているのか、慰められているのか分からず、ラグナは視線を伏せる。そうして、言い訳と分かっていながらこう続けた。
「……今のクザン軍は、魔軍と協力してるきらいがある。だから、彼らを止めるのは無意味じゃない、と思う」
「確かに。無関係と言い切るには、動きが揃いすぎてはいますね。事前にどこをどう襲うか知っていなければ、下街に別動隊を送るなんてことはできない」
言葉こそ同意しているものの、ユウナギに納得した様子はない。彼女はラグナの判断そのものというよりも、ラグナの態度に腹を立てていた。
「クザンの動きさえ止めれば、魔軍の動きも止まるかもしれない。そうなれば、門を探すことも……」
「だとしても、我々だけで動いた方がいいでしょう。全員でクザンの本営を襲撃してしまえば、彼らは退かざるをえない。そのあと、門を探せばいい」
「無謀すぎる。敵は五万の大軍だぞ」
「貴方がそれを言いますか。もう一度、王の説得を試みるよりははるかにマシな案だと思いますが」
痛いところを突かれて、ラグナが唸る。
しかし、譲れない。自分の甘さは嫌というほど自覚しているが、ここだけは決して退くわけにはいかない。
「……子供が親を殺さなきゃいけないなんて間違ってる。もし、言葉で変えられる可能性が少しでもあるのならオレはそれを捨てたくない」
「王の座所に押し入っている時点で罪は罪でしょう。それに、あの姫は覚悟を決めている。貴方とて、それがわかるからこそ協力を決意したのではないですか」
「…………オレは最初から大罪人だ。だが、姫は違う。だから――」
「だからなんですか? 人の上に立つものはすべからく罪を背負うものです。それが遅いか、早いかの違いしかありません」
向かい合ったユウナギの顔にラグナの見たことのない表情が浮かんでいた。
子供のように取り乱し、今にも泣きだしてしまいそうなその顔にラグナは何も言えなかった。
「それともなんですか、あの姫がそんなに特別なんですか? ほかの誰よりも――」
「――待て、ユウナギ」
シスターが止めた。ユウナギの背後に回ると、優しくその肩に触れた。
「少し惑わされすぎだ。私の息子は女の尻を追いかけてこんなまねができるほど器用ではないぞ」
「しかし――」
「あの姫はな、ロンドの婚約者だったのだ。お前は知らんだろうが」
図星を突かれて、ラグナは視線を逸らす。
実際、そもそもこの王都に来た動機の大部分は亡き親友への贖罪だ。ロンドの婚約者が助けを求めている以上、ラグナに断るという選択肢はなかった。
「なんというか、らしいというか、徹底しているというか。まあ、そういうところが良いところなんだけど」
毒気を抜かれたように笑うベルナテッド。この中では一番ラグナとの付き合いは短い彼女でも、姫に懸想しているという仮説よりも亡き親友のためという動機の方がラグナにはふさわしく思えた。
「…………他意はありませんね?」
「勇者なら姫を見捨てるような真似はしない。例え、結果がどうなったとしても」
一瞬だけラグナの瞳から、迷いが消える。選択そのものを後悔したことは一度としてない。
「……だが、お前たちを巻き込んだ。オレ一人でどうにかできればよかったんだが――」
「今更ですね」
「今更ね」
「今更だな」
全員が言った。
「……最悪の場合、王殺しの大罪人になるんだぞ」
「しつこい。そもそも、私は貴方と同じ大罪人です。今更、罪状が増える程度、なんでもありません」
「私も同じかな。元奴隷としては王様に一発かませる機会なんて逃せないし」
「そういうことだ。賞金稼ぎ達の前ではそんな弱気はみせるなよ。奴らはお前に野心で従っているのだからな」
頷いてから、ラグナは内心自分の半端さを罵る。
とうの昔に覚悟は決めていると思っていたが、彼女たちのそれに比べれば何一つとして決めきれていなかった。
「……それに、まあ、ただ魔軍やクザンと戦うよりはマシかもしれません。あの姫が王になるか、王が改心すれば、私たちの罪も許されるかもしれませんし」
「確かにそうかも。国を救った英雄ってことになれば、貴族にもなれちゃったりして。爵位なんて願い下げだけど、土地がもらえたらみんなで住めるか……」
「王国の一存だけでどうにかできるモノでもあるまいが……少なくとも、隠れ住み、逃げ回る必要はなくなるだろうさ。魔軍と戦うにしても王国の援助を受けられるようになる」
三人の語る展望には、すべてがうまくいけばという前提が付く。
アリティアを玉座に着け、その上でクザンと魔軍を撃退し、アルカイオス王国を救う。無謀さで言うならば、これまでの戦いの比ではない。
だからこそ、負けられない。打てる手はすべて打っておかなければならない。
「――あれ、一人じゃないんだ」
待ち人の声が地下牢に響いた。音も気配も発さず、彼女はこの地下牢に姿を現したのだ。
アリアナ・へカティアル。王と共に大聖堂に籠っているはずの大司祭がそこにはいた。
「せっかく、お呼び出しいただいたのに仲間と待ち構えてるなんて残念ですわ」
「――ラグナ」
動じることなく、ユウナギが前に出る。右手が刀の柄にかかっていた。
彼女の本能が警告している。この女をラグナに近づけてはいけない、と。
ベルナテッドとシスターもそれは同じだ。ラグナの左右を固めて、殺気さえ放っていた。
いずれも大陸で十本の指に入る強者だ。その殺気を一度に浴びながらも、アリアナは揶揄うような笑みを崩しはしない。自分の方が有利である、とそう主張しているようでさえあった。
「大丈夫だ。敵じゃない、少なくとも今はだが」
ラグナが三人を抑えるが、三人は臨戦態勢を崩さない。
やはり、そんな状況でさえどこ吹く風でアリアナは口を開いた。
「ま、このぐらいの方がわたくしとしてもやりやすいですわ。簡単に信用されてはそれはそれで拍子抜けですもの」
埃被った机に腰かけて、アリアナは足を組む。やはり、大司祭とは思えない態度だ。
「それで? ようやく、わたくしと手を組む気になったの? それとも、取り囲んで人質にでもするつもり?」
「大聖堂に入って王に会いたい。手を貸してくれ」
単刀直入、誰かがしびれを切らす前にラグナは本題に入った。
「へぇ」
アリアナの顔に笑みが浮かぶ。狂暴な魔物が獲物を見つけ、牙を剥くような獰猛な微笑みだった。
降神暦1595年12の月、その四の週、崩壊の日、その前日のことであった。