番外編②(後編) 色づいた日
「……はあ」
通話を終えたスマホをベッドに向かって投げ捨てる。
『でも、気が変わったらいつでも連絡してくれていいのよ? お母さん、すぐに相手に声かけるから』
結局、お母さんはなかなか引き下がらなかった。今日はバイトじゃないのに、どっと疲労が押し寄せて身体がダルさで満ちていく。
ふと思い立って、ベランダに出てみることにした。普段は洗濯以外で出ることはないけど、本当になんとなく、このまま密閉された室内にいたら頭がおかしくなりそうだったから。
就職に結婚、か……。
お母さんの言いたいこともわかる。ひとり娘を東京に送り出したはいいものの、理系の大学院に進学して、男の影は全くなし。親としては、早く働き始めていい人を見つけて、っていうのを望んでいるんだろう。
だけど、そんなものは放っておけばいい。自分のやりたいことが定まっていて、そこに向かって歩んでいるのなら、誰にも文句を言う権利なんかない。
ない――はずなのに。
私はそれを、明確に言うことができないでいる。
だって私自身、どうして自分が今こうしているのか、わからないんだから。
高校で理系科目の成績の方がよかったから理系を選択し、理系の大学に進学。周囲の人間がほとんど大学院に進学するから、自分も大学院へ。
きっと研究室の他の人たちは、なにか目的をもってあの場所にいる。だけど、私は違う。
惰性、流れ。私が今ここにいるのは、きっとそう。私の意思なんて、ほとんど介在していない。
「うらやましい、な……」
そんなことを考えるとき、決まって思い浮かぶのは、私が大好きなアイドルの姿。年下ながらも大学に通いながら、アイドルという己の望みを胸に抱き、ひた走っている。すべてが輝いていて、私とは正反対の存在。
それに比べたら、私なんて。
私なんて……。
「だーっ! やってやんねえ!」
「!」
瞬間、身体が硬直する。突然、隣のベランダから声が聞こえてきたからだ。
「あんのクソ野郎がーっ! タマ蹴りつぶしてやるっての!」
「……」
続く罵詈雑言に、私は言葉を失う。
隣に人が住んでいることを知らなかったから?
違う。
女の子の声なのに、とんでもなく汚い言葉遣いだったから?
違う。
その声が……私が愛してやまないアイドルの――佐倉桃華のそれだったからだ。
ベランダを仕切る壁で姿が見えなくても、声だけでわかる。
聞き間違えるはずがない。CDでも、ライブでも、握手会でも、テレビでも。
何度も、何度も、何度も聞いた。
間違いなく、彼女だ。
私は、驚きを隠せなかった。
清純と元気が売りの彼女が、およそ女の子が発したとは思えない単語を連発していることに。
だけど同時に、ひとつ、理解した。
佐倉桃華であっても、私と同じなんだ、と。
私と同じように、うまくいかないことがあって。イライラして。飾り物なんかじゃなく、ちゃんとこの世界を生きてる、女の子なんだって。
そう思うと、不思議と楽になった。
すっと、胸のつかえがとれた気がした。
私は、私で、いいんだ。
「ああもう、クソったれー!」
「あはは、すごいイラつきっぷりだね」
だからなのか、私は彼女になんの躊躇いもなく声をかけることができた。
「え……あ、その、すみません。うるさくして」
「いいよいいよ、ストレス溜まってベランダにいるのは、お互いさまだから」
面と向かってだったら、絶対にできない。きっと、この壁があるからだろう。
「ありがとう、ございます」
「別に敬語じゃなくていいって」
「じゃあ……ありがと」
小さくつぶやくそれも、外では聞いたことのない声音だった。
「ストレス発散に、お酒とかは飲まないの?」
「あー」
少しだけ悩むような間があいたあと、
「飲みたいけど、ちょっといろいろあってお酒、買えないんだよね」
「そっか……」
そういえば、以前テレビ番組に出ていたとき「お酒ってニガテで~」と言っていた。あれはイメージ戦略のための嘘だったということか。
「ちょっと待ってて」
言って、私は一旦部屋に戻る。
たしかバイトで試供品にもらったやつが……。
「はいこれ。よかったら」
戻ってきた私は、壁の外側から隣にあるものを差し出す。青りんご味の缶チューハイだ。
「え、これ……」
「私、ビールばっかり飲むからさ。もらいもので悪いんだけどね……あ、もちろん未開封だからね」
「えーっと……」
またしても彼女はわずかな時間悩み、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
受け取ってくれた。
「それじゃ、ここで会ったのもなにかの縁だし、乾杯しよっか」
「え……」
「ほらほら、缶開けて」
私は自分用に持ってきたビールを出す。少し遅れて、隣からチューハイの缶が出てきて、
「かんぱい」
「か、かんぱい」
かちん、と金属のぶつかる音。
そして同時に、お酒を飲む。
「おいしい?」
「うん、おいしい……ありがと」
照れくさそうな声が聞こえる。
「もしよかったら、さ」
「またここで、こうやってお酒飲もうよ。やなことがあったときとかに、ね?」
「え……」
「やなことがあるなら、ここでぶち撒ければいいよ。ここをそういう場所にすれば、いいんだよ。私にできるのはそれを、ただ聞いてるだけ」
今になって考えてみたら、これはただの欲張りだったのかもしれない。もっと彼女と話したい、彼女を知りたいという、自分の欲望を押し付けた提案だったのかもしれない。
「うん……そうしてもらえると、うれしい、かも」
「じゃあ決まり」
受け入れてくれたことに、私の心は少しだけ高鳴って。
「これからよろしくね。私のことは、ナギでいいから」
「ナギ、さん……」
「そっちは、なんて呼べばいい?」
「えっと、じゃあ」
「……モモ、で」
「モモちゃんね。おっけー」
「よし、もう1回乾杯しよう。それで、思いきり愚痴をぶち撒けよう」
「えっ、あ、ちょ」
「かんぱーい」
こつん、と再び缶がぶつかる。
それが私の、三浜渚――ナギと。
佐倉桃華――モモちゃんとの、不思議な関係の始まり。
「ナギさん、どうかした?」
「え?」
「いや、反応薄いからどうしたのかなーって」
「あー、あはは」
「今、とっても幸せだなーって」
「なにさいきなり」
モモちゃんは笑う。
「もしかしてナギさん、酔っぱらってる?」
「かも。今日は2本目だし」
それに、夜風がいい具合に涼しい。
「ねえモモちゃん」
「んー?」
「ありがとね」
「えーなによいきなりー」
なんにも出てこないよー、なんて言って、
「お礼言うのは私の方だよ。いっつも愚痴聞いてもらってるし」
「それでも、ありがとう」
「そこまで言うなら、遠慮なくもらっておくとしようかなー」
同時に、お酒を飲む。
そうして夜が更けていく。
お読みいただきありがとうございます。今福シノです。
さて、番外編②でした(前後編に分かれてしまいましたが)。
少しシリアスめなお話でしたが、次回はにやにやしていただけるような番外編を書く予定ですので、ご期待いただければと思います。
エピソードのリクエストなども引き続き募集していますので、よろしくお願いします!
では、他の作品ともども、これからもよろしくお願いします!